第三十七話
清らかな水の音と鳥の声、そしてそよ風が木々を撫でる葉ずれの音――。
平和で穏やかな空気に包まれ、ルシフェルカの顔に少しずつ血の気が戻り始めた。
と同時に、白色に変じていた少女の髪にも、徐々に元の栗色が戻り、その様子に驚きを隠せなかったルーガは、思わず柔らかな髪をひと房、手に取っていた。
「ルシカ、お前には色々驚かされるよ」
ルシフェルカが先ずは一命を取りとめたことに安堵したのか、微笑みを浮かべたルーガはそんな軽口を呟いた。そうして心に余裕ができると、辺り一面に群生したブラン・オールを改めて見ながらため息を漏らした。
「それにしても、すごい生命力だな、ブラン・オールは」
ルーガが感嘆するのも無理はなかった。なぜなら、ルシフェルカがその生命力を吸い上げているというのに、一向に枯れる気配がなかったからである。
ルーガはイオンが嬉しそうに語っていたのを思い出した。
『ブラン・オールは、別名『金色花弁金鳳花』というんだが、普通の金鳳花と違って花弁が金色、茎から葉まで白色なんだ。あんたも知ってのとおり、この種の植物は毒草でもあり薬草でもある。師匠が珍しいと言っていた通り、ブラン・オールは普通の金鳳花ではないから、その薬効も未知数だ。特に、免疫力を上げる効能については類を見ない。ただ、見つけ難い上に、繁殖方法が確立されていないから、誰もその奇跡的な効能について断言できる要素を得られていないんだ』
「奇跡の花――ブラン・オール、か。感謝しきれないよ、お前たちには」
見ようによっては、ほんの少し萎れているような感のある愛らしい金色の花をそっと撫で、ルーガはおもむろに立ち上がった。そして、背後を振り返ると目を細めて遠方に声をかけた。
「いるのは分かっている。――出てこい!」
すると、水源地を守るように並んだ木々の間から姿を現したのは、西の大国トラロック王国が誇る、王立図書館員だけが着用することを許された青い外套を羽織った男が二人、観念した様子で姿を現した。
その顔に見覚えがあったルーガは、懲りぬ輩に失笑した。
「あとをつけるのは構わないがな、そこを一歩でも前に動けば、お前たちは黒竜族の聖域を侵したものとして、俺の一存で断罪する」
次に、こうも付け加える。
「お前ら、前にルシフェルカをひどい目に遭わせた奴らだったよな。――手加減できそうにないから、覚悟しろ」
不敵に笑いながら歩み寄り始めたルーガに、王立図書館員の二人は意を決したようにお互い頷き合い、懐から小さな銀色の笛を取り出して口に咥えた。そして、もう一つ、今度は小さな巾着袋を取り出し、その中身を首筋に塗りつけたのだ。これは、守護獣が嫌う植物を原料に作られた、獣除けの薬であった。
手早く準備を整えた図書館員二人のうち一人が笛を吹いた。かすれた甲高い音が聖域に響くと、雑木林の間から、一頭の黒い獅子が低く唸り声を上げながら現れた。
図書館員の一人が緊張した声音で離れた場所にいるルーガに大声で言った。
「黒竜族長よ。以前にも言ったが、その少女は、己で制御できない恐るべき力を持った『白い悪魔』だ。現に、我らが連れていたもう一頭の守護獣も倒されてしまった」
「そうだ。早くその被検体をこちらへ引き渡していただきたい!」
ルーガは勝手な言い分を押しつけてくる図書館員二人に激しい憤りを隠せなかった。
握りしめた拳が怒りで小刻みに震え、冴えた青色の瞳に雷光が閃いた。
「自分で制御できない? 守護獣が倒された? ――ふざけたことを言うな!」
ルーガは、生まれて初めてとも言える怒声を発すると、あとは止めどなく憤怒とも私怨ともつかぬ言葉があふれ出た。
「お前たちトラロックの図書館員が、幾度となく双竜山に不法侵入しても、穏便に済ませてやっていれば図に乗りやがって……。だが今回ばかりは容赦できない。なぜなら、お前たちが連れてきた守護獣に、俺の甥が殺されかけたからだ。そして、ルシカを苦しめ続けるなら、俺は俺の命をかけてお前たち王立図書館員と戦ってやる――黒竜族長としてではなく、ルーガ・レクスとしてな!」
刃物で一刀両断するかのような気迫に気圧され、図書館員二人は後退りしたが、黒い獅子は逆に闘争心を煽られ、ルーガに敵意をむき出しにしてきた。
野生の闘志漲る黒い獣に、金色の竜は好戦的な構えを見せる。
「お前も犠牲者だな……。だが、同情はしないぞ。かかってこい!」
ルーガの喝で、両者の体は一斉に前方へ跳躍したのだった。