第三十六話
青い外套に包んだルシフェルカを抱きかかえ、ルーガは慎重な足取りで、しかし迅速に双竜山の水源地帯を目指していた。
やがて、樅の木の群生地を通り過ぎると、水の流れる涼やかな音が聞こえてきた。
そこは、双竜山の黒竜族が暮らす領域の中でも、族長にのみ立ち入りを許された領域で、水源のほかにも大変貴重な植物がここにだけ群生している。しかし、どのような種がどれほどあるのか、唯一足を踏み入れることができる黒竜族長ですら全てを把握することはできず、一代に一種類の稀少種が見つかれば僥倖と言われる聖域であった。
「ルシカ、着いたぞ。クリプトの木だ」
聖域を守るように並んだ木々の間を抜けると、突然開けた場所に出た。そこでまず視界に飛び込むのは、天に向かってそびえ立つ巨大な常緑樹・クリプトである。
北の大国・ウォルドの『神々の森』と、この双竜山は黒竜族の聖域でしかその存在の確認がされていない、神秘の木。
この神の木ならば、ルシフェルカの命を救ってくれるはずだ。
そう信じ、ルーガは青白い顔の少女をそっと大木の根元に横たえた。
「お願いだ、クリプトの木よ。ルシカを助けてくれ」
魂を鷲掴みにされたような心の痛みを感じながら、ルーガはルシフェルカの顔から一瞬たりとも目を離さず見つめ続けた。しかし、虫の息の少女に変化が起こることはなかったのだった。
「ルシカ!」
思わず叫んだルーガは、恐怖と焦りから額に浮かんだ嫌な汗を拭うのも忘れ、震える拳を骨がきしむほど強く握りしめた。
「何をすればいい……。どうしたらお前を助けることができる」
妙案の思い浮かばぬ己の腑甲斐なさに奥歯を噛んだルーガの背後から、耳に心地好いなめらかな青年の声が聞こえてきた。
『その子を根から離してごらん』
「その声は」
聞き覚えのある声に、ルーガは辺りの上空を見回した。姿は見えないが、確かにルシフェルカの居場所を教えてくれた異界の青年だ。
ルーガは考えるより先に動いていた。あれこれ邪推している暇はないのだ。とにかく、異界の青年の言うとおり、ルシフェルカの体をそっと動かし、クリプトの根元から離した。
『そう、それでいい。そうしたら、少しでいい、君の息吹を彼女に分けてごらん』
「分けるって……どうすればいい」
ルーガは少々苛ついた口調で、落ち着き払った声音の青年に問うた。
実体のない青年は、短い苦笑を洩らすと、答えた。
『君たちはその口から息を吸うように見えるけれど、間違っているかい』
一刻の猶予もない現状で、やけに他人事のような口調の青年を恨めしく思いながら、ルーガはルシフェルカに謝罪の言葉をかけたあと、自分の唇を重ねて息を吹き込んだ。
「生きてくれよ、ルシカ」
息継ぎのため顔を何度か上げながら、呟く。それを十回ほど続けるうちに、ルーガの体を強い倦怠感が襲い始めた。
ルシフェルカがルーガの生気を吸収しているのだ。
「よ……し!」
肩で息をし始めた自分をかえって喜び、ルーガはそこでいったん息を吹き込むのを止めた。
すると、ルシフェルカの胸が上下し始め、少女の命が再び生きる糧を求めていることが分かるようになった。
『黒竜族長、ここにはブラン・オールがあるようだね。クリプトよりも彼らの力を分けてもらったほうがいい』
再び助言を与えてくれた声に、ルーガは肯き、急いでブラン・オールを探し始めた。
幸運にも、ほどなくしてその稀少植物は見つかった。水源から流れる小川の水際に群生していたのだ。
「こんなところにあったなんて」
何度も足を運んだ場所であるはずなのに、一度も気づかなかったことに驚いたルーガだったが、今は思考よりも体が先に動くことを望んでおり、すなわち、ルシフェルカをブラン・オールの群生地に横たえてやったのだった。




