第三十二話
やっとのことで立ち上がったイオンは、己の周囲を見回し愕然とした。
初夏の輝くような緑の葉を茂らせていた木々は一気に晩秋を迎えたかのように生気を失ってしまい、漂う空気の生暖かさが胃の腑に重苦しく感じられた。
「ルシカさん……ルーエ……」
全身の倦怠感が強く、一歩進むにも疲労感をともなったが、イオンは血だまりに横たわる幼いルーエと、その傍に座り込んだルシフェルカにできる限り急いで歩み寄った。
イオンは、ルーエを挟んでルシフェルカの向かい側に辿りつくと、膝の力が抜けたようにがくりと座り込み、すぐさま気を失っている少年の具合を診はじめた。
「ルシカさん、ルーエは大丈夫ですよ。出血が多かったのでしばらく動けないと思いますが、一命は取り留めました」
泣きそうな顔をしたイオンは、呆然としているルシフェルカの意識をこちらに向けようと優しく言った。案の定、その言葉は功を奏し、水色の瞳がイオンの菫色の瞳を見つめた。
そして、ルシフェルカは、かすれた、か細い声で呟いた。
「よ、かった……。ルーエが助か……」
そこまで呟いた時であった。ルシフェルカは突然両目を見開き、口を両手で覆った。
「ルシカさん!」
イオンの叫び声に応じることなく、ルシフェルカは座り込んだまま上半身を後ろに捻り、地面に突っ伏した。栗色の長い髪が乱れ広がったその小さな背中が不自然に痙攣したかと思うと、少女の呻き声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか、ルシカさん!」
明らかに嘔吐しているルシフェルカのもとへ、きしむ足腰の痛みも忘れて駆けつけたイオンは、少女の背中に手を当て、その顔を覗き込んだ瞬間、泣くまいと息を飲んで歯を食いしばった。
己の口を覆ったルシフェルカの手指の間から、赤黒い血が大量に吹き出したのだ。
「――ルシカさん、力を使い過ぎましたね」
ルシフェルカの顔色は最悪だった。つい先ほどまで瀕死状態であったルーエよりも白く、地面にはみるみるうちに、どろりとした血だまりができていった。
「イオン……。ルシカさんはどうしたというのだ」
よろめいてはいたが、しかし、回復し始めた足取りでユルグ老が近寄ってきた。
イオンは師匠の姿に少しの勇気を分け与えられたのか、医者の顔になり重々しく言った。
「ルシカさんの異能力の代償です。周囲の命を取り入れ、自らの命を媒体にしてルーエに命を吹き込んでくれた。相当の負担が彼女の体にかかっているんです」
「ルーエのために命をかけてくれたのだな。しかし、この吐血量は……」
はじめは動揺したユルグ老は、しかし、年の功とも言うべき冷静さを取り戻していた。
いたずらに動揺しても始まらない。かなり危険な状態であるが、わずかでも可能性がないか、長年積み上げてきた経験と知識を総動員させ、ルーエの命の恩人を助けなければならない。そうイオンとユルグ老は心に決めていた。
しかし、残酷にも時は二人に猶予を与えることはなく、ルシフェルカに次なる苦難を浴びせかけていた。
「おお……イオン、これはどうしたことだ」
ユルグ老が、そっとルシフェルカの体を横たえようと動き始めた刹那だった。
ルシフェルカの栗色であるはずの髪が白くその色を変え始めたのだった。