9.5 雨宮さんの葛藤。
「ただいま、帰ったよ」
ガラッと立て付けの悪い引き戸を開けて、狭い玄関を上がる。
強い風に煽られたら吹き飛んでしまいそうな、古い木造二階建ての一軒家。それが我が家だ。
私の声に反応して、大好きな家族の「おかえり、姉さん」「雫姉、おかえりー」「おかえりー」「おかえりなちゃい!」という元気な声が奥の居間からいくつも飛んでくる。
私は五人姉弟の長女で、下に年の近い中学生の弟が一人、小学生の双子の妹たち、幼稚園に通う末っ子の弟がいる。
あとは今はパートに行っているお母さんと、双子の片割れが友達からもらってきたペットのハムスター・金時を合わせて、六人と一匹暮らしだ。
いつもならこの時間に帰宅したら、エプロンをして夕飯の準備を始めるんだけど……。
「ご、ごめんね! 私はちょっと部屋にいるから、夕飯は後で作るね! なにかあったら呼んで!」
真っ先に逃げるように、二階の自室へと続く階段を駆け上がる。
後ろからは「姉さんがおかしい……」「なんか嬉しそうってか舞い上がってない? 珍しく」「大好きなどら焼きを食べたからじゃん?」「にゃるほどー」なんて声が背を追いかけてくる。
訂正はできなかったけど、今日は残念ながらどら焼きは食べられなかったんだ。
でもその代わり、すごいイベントが起きてしまった。
「はあ……」
自室に入って眼鏡を外し、服はそのままに安物のパイプベットにゴロリと転がる。マーブルカラーのスカートがシーツの上に広がった。
そしてスマホを開いて、帰るまでにも何度見返したかわからないメッセージアプリを開く。
『晴間くん』
家族以外にろくに名前のない連絡先一覧に、新しく刻まれた名前。
「ふへっ、へへへへ」なんて自分でも引いちゃうような不気味な笑い声がもれる。
それから今日の一連の流れを思い出して、ベットの上でジタバタと暴れた。姉弟たちに見られたら心配されちゃう奇行だ。
なにかと余裕のない家だけど、一人部屋をもらえたことに初めて感謝する。
お母さん、ありがとう。
「本当に、晴間くんが憧れのhikariさんだったなんて……」
従姉妹のお姉さんが『アメアメ』のブランドのトップなんだって。女装をすることになった理由は、優しい晴間くんらしいものだった。
一念発起して、あのとき追いかけてよかったよ。
hikariさんが男の子だったことに、もっと戸惑いを見せるのが普通の反応かもしれないんだけど……なんだろう、自分でもびっくりするくらい、すんなり受け入れられちゃった。
すごいなとしか言えないもんね。
男の子であれだけ可愛いなんて、本当に晴間くんはすごい。
それになにより、晴間くんと話せただけじゃなく、一緒に……そう、一緒にお出かけすることになったことが嬉しすぎて困ってしまう。
晴間くん、hikariさんとしてのお仕事が忙しいだろうに、スケジュールを空けてくれたんだよね、恩返ししたいって言った私のために。
それともどら焼きのため……?
晴間くんがどら焼き好きって情報がわかったのも嬉しいな。いっぱいスイーツ店で食べて欲しい。
派手なカップルさんたちに絡まれたときは怖かったし、どら焼きを踏まれたときは悲しかったけど、ゲンキンなもので今は感謝しかない。
こんなチャンスをくれてありがとう、チャラ男さん。
「っ! そうだ! なに着ていけばいいんだろう?」
重要な問題が発覚して、ベットから勢いよく起き上がる。
当日はたぶん日曜日になるだろうから、私服を着なくちゃいけないんだった。
改めて自分の今の服装を見返してみる。
私の持っている服なんて限られていて……今日はまだオシャレした方だったんだけど、晴間くん的には何点くらいだったのか気になる。ダサイのかなあ? ダサイよね、たぶん……。
「……ファッションって難しい」
でも、なんといってもhikariさんと出掛けるんだから、少しでもまともな格好をしないと。
服だけじゃなくて、髪型は?
お化粧とか必要なのかな?
靴やアクセサリーは?
眼鏡は怖くて外せないけど、少し長い前髪を弄るくらいならできる……かな? でも視界が明瞭になると、人の目が怖いし……なにもない素顔、晴間くんに晒すのも勇気が……。
「その前に晴間くんって、晴間くんで来てくれるのかな? hikariさんで来てくれるのかな……?」
どちらでも私はドキドキするのに変わりはないから、どちらにせよ心の準備が必要だけれど。
問題はやっぱり、私の方だよね。
せっかくの仲良くなれる最大のチャンスで、下手な格好をして嫌われたくないよ。
「ああ、本当にどうしよう……!」
うんうんと、部屋の真ん中で頭を抱えて唸る。
こんな調子で今夜は眠れるのかな? だって次の日曜日なんてあっという間だよ!?
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
「なにがあったんだよ、姉さん……まさか男……か、彼氏か? ウソだろう、姉さん……。俺たち家族が一番だっていつも言ってくれているのに……ソイツ殺すしか……」
「拗らせシスコンを殺意に変えないでよ、零兄。どうする? 澪? 止められる?」
「私じゃムリだよ、霞。私だって雫姉の彼氏が気になるし。そもそも彼氏なのかなあ? どう思う? 霰」
「かーれーち!」
いつまでたっても下りてこない姉を心配して、妹弟たちが様子をこっそり覗きに来ていたと気づくまで、私の葛藤は続いたのだった。
上から順に 雫、零、澪&霞(双子)、霰 です。
いったんここで一区切り!
次回からは初めてのデート編です!