Act1 契約の締結
特別演算室を支配する、巨大なワークステーションの重厚な駆動音。三枚の暗転したモニターの前で、薫は自らのポケットから一台の、装飾を削ぎ落したスマートフォンを取り出した。
「受け取って」
薫はそれを、航聖へと差し出す。
「学園のIDカードだけでは、貴方の静寂を守るには危なすぎるでしょ?これは、このワークステーションの『物理トークン』よ。私の指紋と、貴方の生体データが合致した時だけ、姫神会の深層回線が口を開くわ」
航聖は黙ってそのスマホを受け取った。冷たい金属の質感が、自分の知性が公に、かつ秘匿して解放されることへの実感を伴って手に伝わる。
「さあ……オッケーなら、貴方のログインコードを打ち込む番ね。それを承認した瞬間、貴方は加納家の演算機から、姫神家の『知性』の一部に書き換わるのよ」
航聖は椅子の背もたれに触れ、ゆっくりと腰を下ろした。まず、学園のIDカードをリーダーにかざす。続いて、薫から渡されたスマホをデスクの認証パッドに置いた。
その瞬間、暗転していた三枚のモニターが呼応するように静かに、しかし鮮烈に覚醒した。
【WELCOME, TAMAKI KOSEI】
中央のモニターに彼の名前が表示され、システムが彼を主として受け入れた。航聖は迷いなく、ホームポジションに指を置いた。
「……演算開始」
航聖が独自のログインコードを打ち込んだ。瞬間、三枚のモニターは爆発的な情報量で埋め尽くされた。左右の画面には、学園の全インフラと姫神会のネットワーク図が、中央には彼の思考の拡張を待つ、無限に広がる黒いコマンドラインが表示される。
「……ㇵッ、この処理スピード……僕が触っていた加納家のものとは、次元が違う」
ログインを完了した航聖の指は、まるで渇いた大地が水を吸うように、瞬く間にキーボードを叩き始めた。
「……そうだな、まずはシステムの試運転からだな。……姫神……か。部下たちのコード……これを直してもいいか?効率が悪い」
「あら、手厳しいわね。でも、構わないわ……好きなように書き換えてみてちょうだい」
薫はデスクのはしに腰掛け、航聖の横顔を眺める。航聖が最初に行ったのは、姫神会が学園内に張り巡らせていた監視網の再構築だった。彼は瞬時にセキュリティ・ホールの穴を塞ぎ、加納家が仕掛けていた微細なバックドアを次々と破壊していく。
それまでは整然と並んでいた数字やログの羅列が、航聖の思考の加速に呼応し、まるで堤防を決壊させた川の激流のような勢いで画面を走り始める。
「……フッ、このスループット……。情報の『重さ』が、今までとは違う」
航聖の眼鏡の奥の瞳が、その激流を真っ向から受け止める。
ただ早いだけではない。そこには姫神会をいう巨大組織が蓄積してきた、膨大で重厚なデータの濁流があった。航聖はその流れに溺れるどころか、激流の中に手を差し込み、必要な情報だけを自由自在に掬い上げていく。
その様子を、薫は少し離れた場所から、満足げに眺めていた。
(……いい景色ね。まるで、止まっていた時間が、貴方のその指先で再び流れ出したみたい)
「航聖。普通の人間があの画面を見れば、数分で情報の『毒気』の当てられて精神を病みそうね。……でも、貴方にとっては、これは自分のものとしてすっかり馴染んでいるのね」
「……フン……人間を相手にするよりは、このログの中にいるほうが、よっぽど息がし易いね」
航聖は激流を捌きながら、無機質に答える。その横顔は、もはや怯える留年生ではなく、巨大な武器を手にした若き支配者のようでもあった。
自分で書いていて、一体何を書きたいんだろうかとふと思うことがある。(笑)
そしてまた、書いては全消し(なんで?)




