承・少女達は出会い、学者は語る
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電気街。
アニマイトに、うしのあなに、ホフマップ。
数々のオタクショップの発信の元にして、今なお多くのサブカルチャーが集まる街。
日本という国が平和ボケをしている内は決して崩れることはない幻想で塗り固められた街を、ある意味この場に相応しい格好をした緊迫した面持ちの少女2人が歩く。
片方は全身が色濃く褐色肌に焼けたアロハシャツの少女で、何故か似合わないサングラスを掛けながら先に店から出ると、周囲を警戒し雑貨屋の店内に居る連れに声を掛ける。
「モエちゃんモエちゃん!大丈夫!追手来てない!」
言葉の内容からすれば物騒だが、続いて現れる黄色いパーカーを着た三白眼の少女は、背中に大きめのリュックサックを背負いながら呆れた表情でハイテンションな友人の頭を軽く小突いた。
「そもそも追手なんか来てないっつぅの。……駄目だ。一姉、電話出ない」
そう冷静に語りながらも、カバーも付けていないスマートフォンを耳に当てた黄色いパーカーの少女━━モエの心境は決して穏やかなものではなかった。
理由は簡単で、背負っているリュックサックの中の物を他人に暴かれるか否かで、大騒ぎする連れの睦月の言葉が現実にならないとも限らないからだ。
最悪の事態を避けるため、複雑な経緯があって居候させて貰っている女性、モエが姉として慕う人物が警察関係者であった為連絡を取ろうとしたのだが、流石にこの時間は通常勤務時間なのだろう。
電話は掛からず、スピーカーからは音信不通を告げるコール音が鳴るのみ。
どうしようもないが少女2人でどうにかするしかないのだが、モエの不機嫌そうな三白眼の奥には鬱蒼とした不安が募っていた。
何としても、この背中のリュックサックの中で蠢く奇妙な物体が露見することだけは避けなければならない。
3時間程前。真夏の強い日射の元の正午。
白衣の男の逃亡を見届けた少女達は、逃亡者の忘れ物らしき黒いスポーツバックを発見した。
少女達の中で1番小柄な戸張という少女がその荷物を持ち上げたのが、全ての発端だった。
スポーツバックは見た目以上に重く、小柄かつサブカルチャーを愛してやまず運動という運動を殆ど経験してこなかった戸張にはそれを持ち上げ続けることはできなかったのだ。
結果、戸張は前方に向かって転倒。
彼女の腹部と転倒先のベンチとの間で板挟みとなったスポーツバックから硝子が割れたかのような甲高い破裂音が響き、直後に内側から液体を染み出し始めた。
それまででも周りの視線を集める十分な事件ではあったのだが、なんと此処から先に無関係な傍観者達も巻き込むとある事件が起こるのだ。
「あー、拡散されてちゃってる」
雑貨屋から出た2人はなるべく離れないように距離を詰めて歩き出し、2人揃って睦月のスマートフォンを覗いていた。
そこに映るのは、戸張と叶も合わせた彼女達自身。
人気SNSである『ボール』の急上昇投稿一覧に載っているのは、独りでに動き出すスポーツバックと、それに追いかけられる少女達の動画だ。
常識のある人間ならすぐにこの動画をただのCGだと鼻で笑って退けるのだろうが、実際に体験した被害者である睦月とモエは動画を見てただただ頭を悩ますしかなかった。
「クソッ。人の不幸を楽しみやがって。こんな動画上げた奴、絶対ぶっ殺してやる」
動画は、匿名の投稿者の唯一の良心として顔は加工して隠されていたが、この情報社会のご時世で服装などから身元がバレる可能性は十分にある。
そのような理由で騒ぎが収まるまではお互い身を隠そうと戸張・叶とは別行動を取って、雑貨屋に駆け込んだのだが。
モエは黄色いパーカーを羽織って軽く身を隠した。しかし、ただでさえ目立つ睦月の方は自分の格好の奇抜さを理解していないのか、頑なに着替えようとはせず、サングラスをつけるとことだけは応じてくれた。
「もぉ!モエちゃん、コロしちゃダメだよー!せめて半殺しって言っとかないと、女の子として可愛げないと思うよ?」
といっても、当の本人がずっとこの調子のテンションなので例え変装したとしても自然と人の目は集まってしまうのだが。
「それに、恥ずかしい動画も戸張ちゃん達がなんとかしてくれるって!すっごいだよぉー!戸張ちゃん、『ボール』の大家さんなんだから!」
「管理人、な」
今流行りのソーシャルネットワークサービスの1つである、『ボール』。
主に手軽に投稿できる機能を売りにしている基本無料のSNSなのだが、そのシンプルな多様性から幅広い年齢層に支持されている。
その開発者こそ先程まで睦月達と共に行動していた小柄な少女、戸張絢香その人なのだ。
といっても、自由研究程度の心構えで開発の根本を行ったというだけで、実質的なサービスを展開するに至ってからはその運営は大手企業に任せているらしいが。
それでもある程度の融通は効くらしく、先程連絡すると一連の騒動の動画はまとめて消去してもらえることになった。
「まぁ根本的な解決にはならないだろうけど、ボールの中だけでもアタシ達の顔が無駄に広がったりしなくなるのは不幸中の幸いだな」
「えーそうかなぁ。ウチは別にいいんだけどなぁ。これを機に有名になってアイドルに転身、みたいな!?一緒にやろうよモエちゃん!」
「え。あ、アタシはいいよ……」
いつもの調子で元気よく詰め寄ってくる友人の真っ直ぐな瞳に、モエは思わず目を逸らしてしまう。
冗談だと解っていても、自分がアイドルになるだなんてありえない未来を想像してしまって、羞恥心を抱いてしまった。
それを悟られまいと顔を腕で隠すモエを見上げ、睦月は嬉しそうに喉を鳴らす。
「むっふっふぅー!モエちゃん照れたー!ノルマゲットー!」
歩きながら愉快気に器用にクルクルと回る友人の姿に、モエが嘆息をついたのも束の間、突然睦月の身体が道の角から現れた影にぶつかり揺らぐ。
「わっ」
「睦月!?」
小さく悲鳴を上げる睦月を救おうと手を伸ばすモエだったが、彼女よりも早く差し伸べられた手が睦月の身体を優しく掴んで抱き寄せた。
角から現れた人物とぶつかり抱き寄せられて転倒を免れる。第三者のモエは、一瞬の内に目の前で繰り広げられた少女漫画のような展開に目を剥いていたのだが、数秒と経たず再度目を剥くことになる。
金髪のウェーブがかった長い髪に赤い瞳。黒で繕えられた軍服を着こなす外国人女性。
喩えるなら妖精か精霊の類といった、現実のものとは思えない浮世離れした存在が、睦月の手を引いて彼女を転倒の危機から救っていたのだ。
「ゴメンナサーイッ。オケガ、ゴザイマセンカ?」
モエもよく男口調で特徴的な喋り方だと他人に思われるが、銀髪の軍服美女は絵に描いたようなカタコトな日本語を話していた。
言葉を発する寸前まで凍り付くような冷気を放っているかのように見えたのに、今現在謝罪を口にする彼女からはそのような近付き難い雰囲気は一切感じられない。
そのギャップはあのお喋りな睦月の口を黙らせるほどの衝撃でモエの心に異常を知らせた。
「む、睦月!大丈夫か!?」
「え、あ、モエちゃん」
「……」
急いで駆け寄ってきた存在に気が付くと、軍服は迷うことなく放心した睦月の身体をモエに預けた。
その一瞬、心配そうに眉を下げていた軍服女性の表情が僅かに硬くなる。
「アナタハ……」
ムツキを支えるモエを見て何かを言いかけた軍服。しかし彼女は全てを言葉にすることなく、静かに首を横に振ると理路整然とした様子で名も知らない2人の現地人に再び謝罪を口にした。
今度は目深に被っていた帽子も脱いで頭まで下げて。
「ゴメンナサイッ。ワタシ、ニホン、フナレデ。ケガ、ホントニナイ?」
「う、うん!大丈夫だよー!」
「ッ。ソレハ、ヨカッターッ!」
軍服の女は睦月の無事を確認して泣きそうな顔で心から穏やかな笑みを浮かべたかと思うと、次に赤い瞳をモエに向ける。
「エット、フタリハ、フレンズ?」
「……ああ」
軍服の女の問に応えるモエの表情は僅かに固い。
元々生まれつきの三白眼がそう見せているのかもしれないが、彼女に支えられたムツキから見ても、軍服の女と相対するモエの様子は僅かにおかしく見えた。
警戒心。そう呼ぶのが最も相応しい、ピリピリと張り詰めた空気。
対して軍服の女は少女二人に対し全く変わらない態度と笑みで対応を続ける。
「ワタシ、サキ、イソギマス。ナニカアッタラ……ア〜」
そこまで言って軍服の女は何か考えるように顎に指を添え、何か思いついたかのように手を叩くと、ふとポケットからスマートフォンを取り出し自身の頬横に添えてウインクをする。
「レ、レンラクサキ!レンラクサキ、コウカンシマショ!」
偶然ぶつかっただけにしては些かお節介が過ぎるような物言いの相手にモエは不信感を隠せずにいたのだが、不意に彼女に支えられていた睦月が起き上がって前へと踏み出す。
その表情に好奇心の三文字を貼り付けて。
「お姉さん!綺麗and変な格好だね!」
端から空気を読もうともしないアロハシャツの女は返答も聞かずに言葉を紡ぐ。
「もしかしてこんな所にいるって事は……コスプレイヤーさん!?戸張ちゃんが言ってた……こみふぇす?だっけ?に参加するために来たの!!?」
「オーッ!ソーデス!ソーデス!コミフェス!」
揃って手まで合わせて意気揚々と会話を始める2人。
置いてけぼりのモエだったが、自身の背中には異物があると思い出し、我を取り戻したテーピングだらけの掌がアロハシャツの襟を掴む。
「コラ。迷惑だろ」
実際は迷惑どころか現地の人間と会話しているのを心から楽しそうに頬を緩ませていたのだが、異物を背負うモエからしてみれば早く此処から立ち去りたい気持ちでいっぱいいっぱいだった。
「ワタシ、アンジェラ、イイマス。フタリ、アー、ネーム……ナマエハ?」
「睦月です!」
「あっお前……ったく。モエだ」
あっさりと本名を名乗る睦月に釣られて、普段は名乗らない下の名前を同じように口にしてしまうモエ。
アンジェラはそんな2人に精一杯の笑みを浮かべると、片手ずつで握手をして両手をブンブンと揺らす。
「フタリ、イイヒト!マタゼッタイイツカアイマショ!」
それから『ボール』のアカウントを教えるという形ではあるが、連絡先を交換した3人はそのまますぐに別れることとなる。
取り残されたムツキとモエは軍服の女の姿が見えなくなるまでお互い言葉を発せずに見送り、やがて興奮冷めやらぬ様子のムツキがモエの袖を引っ張って沈黙を解いた。
「モエちゃんモエちゃん!凄い綺麗な人だったね!タカラヅカみたい!!何かの役者さん!?それともやっぱり謎の美人外国人コスプレイヤー!!?」
「お前なぁ。相手が親切な人だったから良かったものの、気を付けないといつか怪我するぞ」
口では傍らの友人を諌めながら、先程の目を引く美人について自分も気になっていたモエは自然と自身のスマートフォンに手を伸ばしていた。
開いていたのはSNSサービスであるボールの検索画面。其処に知らされたばかりのアンジェラのIDを入力すると、表示されたページを見てモエの三白眼が僅かに大きくなる。
表情からでも察せられる友人の驚き様にムツキも興味を惹かれ、すぐに問を投げかけようとしたのだが、先に画面が目に入ってしまいその必要はなくなってしまった。
表示されたアンジェラのボールのアカウント画面。
其処には数百万人を超えるフォロワーと、職業『映画監督』と記された先程出会ったばかりの絶世の美女の姿が映されていた。
軍服姿の外国人俳優が宇宙服を着たタコ型宇宙人とキスをする画像のヘッダー付きで。
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「私は、その、なんて言いますか。多次元宇宙の研究をしていまして」
唐突にまともに口を開いた白衣の男は、いつ殺さるかわからない恐怖に脅えながらもゆっくりとその舌を回し始める。
密室空間で極道に拳銃を突きつけられている状況下で、この小心者の男が嘘をつけるとは思えなかったが、志村の話す言葉の内容を蛇蛾樂はすぐに理解することはできなかった。
「私達、私と伊鶴来会長は、元々ネットを介したSF同好会のメンバーでして。今流行りの『ボール』なんていうSNSサービスが生まれるずっと前ですが、まぁ初めてオフ会ってやつをした時には驚きましたよ。全盛期の頃の伊鶴来さんのオーラっていったら、もう。新聞にもテレビにも頻繁に出てましたし」
目の前にいる蛇蛾樂の期限を損ねないようにしているのが、普段の志村を知る人間ならば丸わかりな程、彼の言動の一つ一つは謙っていた。
しかし、青州会の頭目の話をする時に僅かに和らいだその表情を蛇蛾樂は見逃すことなく、不敵な笑みで指摘した。
「随分とうちの親父とは長い付き合いだったんですね。言ってくれればよかったのに」
「それなりには……今となってはそんな人からも金を借りて情けない限りです」
━━口では申し訳なさそうにしながらも実際一銭も金を返せていないのだから笑い話にもなりはしない。
内心、そんな風に目の前の科学者を嘲笑いながら蛇蛾樂は大人しく話に耳を傾けた。
「若い頃の私は色々と奔放してましてね。何と言いますか、世間に対する遅めの反抗期ってやつでしょうか。大して金もないのに世界中を旅してたんですよ」
話が進むにつれ、志村の脅えは消えていく。この状況で信じられないことに落ち着きを取り戻し始めた男の瞳に、すぐさま焦燥の色が芽生え始めた。
「丁度十年前の中東。其処で私は見たんですよ」
「何を?」
志村の言に対し、予定調和の質問を返す蛇蛾樂。
志村は語り手として話の山場を綴る寸前に待ってましたと言わんばかりの笑み━━ではなく、できることなら話したくはないといった類の悲壮な微笑を浮かべると、震える掌を自身の顔に貼り付けながら唇を動かした。
「山積みの死体の上に顕現した、『門番』ですよ」
一通りの話を聞き終えた後の蛇蛾樂の表情は普段の涼やかな表情からは一線を置いた、何とも険しい表情だった。
「貴方の言ってることは、正直よく理解できません」
顔の前で両手の掌を重ねて、祈るような体制で青年極道は言葉を紡ぐ。
抑揚の無い声は社内にのみ通り、その言葉に全く感情というものを感じさせない温度の低いものだった。
それは奇想天外な話を突然聞かされた困惑からか。はたまた中年一歩手前の頭のおかしい科学者の妄言だと呆れているのか。
どちらにしても判断の付かない志村はただ黙って蛇蛾樂の紡ぐ言葉に耳を傾けた。
「別世界がどうだとか。枝分かれした世界だとか。寄生生物が攻めてくるだとか。SF映画にも詳しくはありませんしねぇ……信じろと言われても、実際馬鹿にされているとしか思えませんよ」
「そんなっ」
苦笑する蛇蛾樂に必死な形相で縋り付こうとする志村。それを見て多少愉快気に肩を揺らしてから、年齢離れした鋭い視線が対面者を貫く。
「ただ、面白い話ではあります。あのオヤジがそんな御伽橋のような話に夢中になっているだなんて。幹部の爺様達が聞いたら椅子から転げ落ちるでしょうよ」
本心を隠した、場を繋ぐだけの偽りの言葉。
蛇蛾樂のことをよく知らない志村でさえそう思ってしまうような、あからさまな含み笑いを浮かべながら、青年はニコやかに嗤う。
愚者を見る王のように嘲笑う。
「……わかりました。志村さんの借金の期日、私が暫く伸ばしましょう」
「本当ですか!?」
「ただし」
前のめりになってわかりやすく喜ぶ志村を跳ね返すように、長い脚を組み直した美青年が小首を傾げて、『脅迫』する。
「志村さんとオヤジが計画してる『花火』って奴。私にも見せてくださいよ。それは、凄く凄く面白そうだ」
ヤクザの組長と名も無い科学者が目指す正体不明の夢。
その世界に、腹の中を真っ黒に染めた蛇の頭が侵入し始める。
借金の返済日の延長期間など、改めて定めなくてはならない決定事項を幾つか確認した後志村は開放された。
涼やかな笑みを浮かべた蛇蛾樂は送迎を提案したが、極道と同じ空間に居るだなんて、神経が刻々と途切れていくような感覚から逸早く抜け出したかった科学者は全力で首を横に振って辞退した。
愉快な科学者が去った後、寡黙な部下2人と社内に残った蛇蛾樂は窓を少し開けて外の景色を眺めながら煙草を吹かす。
一見、未成年にも見える顔立ちの彼が煙草を吸っている姿は通行人達からは些か不自然に移ったが、明らかに気質の所有物ではない代紋付きの車を見て何も言わず視線を外していく。
その様子を愉快に感じながら蛇我樂は独り呟いた。
「別世界、ね。妄想に囚われた狂人か、はたまた真実を知る賢人か。今のところは概ね前者である可能性が高そうですが」
異世界を語る科学者を訝しみながらも妙に比喩が過ぎる言い方で語る蛇蛾樂。
その細い双眸の下に隠された淡い色の眼が、窓の外に現れた白色の二輪車を見つけると、途端に悩ましげに眉間に皺を寄せる。
「まさか……」
志村と話していた時の余裕のある声色とは一転。
苛立ちさえ含んだ低い声を放つ蛇蛾樂の目の前に、硝子1枚挟んでその悩みの種は接近してくる。
やがてその種が、如何にも堅気が乗っていないと自己主張する黒塗りの高級感の窓を臆することなくノックしてきたので、蛇蛾樂は嫌々ながらも車の窓を開けた。
内心の苛立ちを隠した商売用の作り笑いを浮かべながら。
「おや、これはこれは。お久しぶりです藤鷲さん」
「お久しぶり、じゃないわよ。それより、こんなとこに駐車しちゃダメって、お姉さんこの前もその前も注意したと思うんだけど?」
道路脇に駐車していたヤクザの車に臆することなく注意を促していたのは━━メットを被っていても性別がはっきりと判断できるほどたわわな胸を実らせた白バイ隊員だった。
どうやら蛇蛾樂とは面識があるようで双方多少砕けた口調で会話を続けている。
「ああ、すみません。すぐに退けますよ。少しお喋りをしていまして」
「それならちゃんとパーキングに停めなさいよっ。悪いことしてお金稼いでるんだから、それぐらいの駄賃持ってるでしょ?」
「おや怖い怖い。言いがかりはよしてください。うちは普通の建築業者ですよ」
関東の有名極道組織・青州会の傘下である蛇蛾樂組が同じくヤクザであることなど一般人でも知っている周知の事実なのだが、表向きは一応同名の建築業者ということになっている。
勿論、偽装であることぐらい白バイ隊員である藤鷲も知ってはいるのだが、その点については一々言及したりせず、手にしているボールペンをこめかみに当てて溜息を吐いていた。
「もぉ。悪いこと言わないからさっさと辞めちゃいなさいって言ってるでしょ。お姉さん、生粋の正義ウーマンじゃないからきっぱりヤクザと縁切ったら後の面倒見てあげるわよ?」
「歳上は好みじゃありませんので」
「そういう話じゃないっ、つーのっ」
まるで姉弟、学校の先輩後輩のように会話する2人であったがその立場は正反対であり、少なくとも蛇蛾樂の方は笑みを浮かべながらも全く気を許している素振りではなかった。
窓枠を通り越して軽く小突いてくる藤鷲の手を避けながら、蛇蛾樂はふと自身のスマートフォンが振動していることに気が付く。
会話を続けていた2人の意識が振動する物体に向いた瞬間、呼応するようにその真横を激走する黒い物体が通り過ぎた。
公道を右往左往に爆走する物体の正体は黒のワゴン車であり、メーターなどを使わずとも明らかに速度違反を起こしている。
「あ、ちょっ、そこのワゴン!待ちなさい!」
「どうやらお仕事みたいですね。ではまた、藤鷲さん」
暴走するワゴン車に気を取られ目を奪われた隙に窓を閉めて外界との繋がりを完全にシャットダウンする蛇蛾樂。
藤鷲は一瞬目の前と駐車違反をした若いヤクザと暴走するワゴン車を見比べ、やがて苛立った表情で再びメットのバイザーを下ろして謎のカスタマイズされた白バイに跨る。
轟音を鳴らして走り出す白バイは遠ざかって行く黒のワゴン車を追っていき、その背中を蛇蛾樂はいたずら好きな子供っぽい笑みで見送った。
「タイミングが良かった。色んな意味で感謝しないといけませんね」
その感謝は誰に向けてか。
少なくとも自分達ではないことを車内の蛇蛾樂の部下達は感じ取りながら、彼らの視線は『未登録』と表示しながら振動する蛇蛾樂のスマホに向けられていた。
しかし、振動を止める者は誰もいない。
蛇蛾樂は冷たい目で着信を告げる振動を見つめながら、何も言わず着信拒否を押した。