10-03. 脳喰らいのハプト
更待月が地上から立ち上る炎に炙られている。
グレンダルが、赫々と燃えていた。町から辛うじて逃げられた人々が輪になって震え、祈るような声を上げながら崩壊しつつある町を見つめていた。太陽が西の山々に沈んで一時間も経っていないのに、空は不吉な暗黒を垂れ流していた。
「とても立ち入れないな」
吹き付ける熱風に顔を顰めつつ、俺は言う。しかしベスは納得しない。
「でも、レイミが」
「中にいると決まったわけじゃない」
「それはそうだけど、でも」
「俺たちまで炎にやられたら意味ないでしょ」
俺は頑としてベスの主張を却下し続ける。ヤミを見ると、その白髪を金色の熱風に靡かせながら、鋭い氷の瞳で空を見ていた。
「先生……?」
「感じないのかい、レア、ベス。アタシたちを見ている奴に」
「クラッドノウト、ですか?」
「いいや、その百倍はマズい奴さ」
なんだって?
俺は意識を集中して周囲の気配を探る。しかし、何も感じられない。
「不浄の魔神――脳喰らいのハプト」
ヤミが短くそう言った。
どこからつっこめばいいのかわからない情報量に、俺は狼狽える。ヤミは淡々と告げた。
「ジェイルムド魔導攻防戦の余波で封印を解かれ、魔法術師と呪術師数十名の犠牲の下で大深淵に再び封印された魔神の一柱さ。起源を辿れば一千年前の魔導大戦……」
古の魔神ハプト。その名前はディーレニア王国の者なら、誰でも知っている。吟遊詩人の歌う魔導大戦の英雄譚でも、必ず名前が出てくるからだ。
「どう考えてもアタシたちに勝ち目はない」
ヤミは、らしからぬ口調でそう言った。ベスが身を乗り出す。
「で、でも、師匠。レイミは……」
「とっくに死んでいる」
「そうと決まったわけじゃ!」
「真っ先に逃げ出していればあるいは助かっただろうさ。だけどね、レイミが人々や騎士を置いて逃げると思うかい」
その言葉には強い説得力があった。ベスは黙り込む。
「俺も先生の意見に賛成だ」
「でも、だからって! 生きてる可能性はゼロじゃない! 今も炎の中で助けを求めているかもしれない!」
「だとしたって、どうしようもないんだ!」
「レア、あんた、そんなに薄情な奴だったの?」
「そうじゃない!」
俺はムキになって言い返す。
その時、俺たちの背後にいた人々の方から、悲鳴が上がった。悲鳴? 違う……断末魔だ。
何本もの管が俺の頭に向かって伸びてくるのが見える――そう感じた瞬間に、俺はベスを押し倒していた。
「な、何するのよ」
「黙って立って!」
俺はベスを引き起こし、ゲミトルードを抜いた。状況を理解しつつあるベスも荷物を投げ捨て槍を構えた。
俺たちが見ている方向に、誰一人として立っている人間はいなかった。さっきまで数十名がいたはずなのに。目を凝らすと、その尽くが地面の闇色に同化していた。燃えるグレンダルから時々届く炎の輝きが、その凄惨さをまばらに映し出す。
人々はほんの一瞬のうちに頭を割られ、脳髄を喰われていた。
「とんだ貪欲さだ」
刀を収めながらヤミは言った。今の一瞬で抜刀し、管を弾き返したのだろう。
「奴はどこに」
俺は夜闇に目を凝らす。すさまじい死臭に意識が眩む。町の方からは人の営みが焼け落ちる臭いが、轟々と音を立てて吹き付けてくる。
『私の攻撃を躱すとは。これは少しは楽しめそうですねぇ』
流暢なディーレニア語が夜闇に響いた。しかもご丁寧にもこの辺りの南部訛りだ。高い男の声とも、低い女の声とも取れる、体温のない声だ。肌が粟立つ。
『私を封印したのは五人の魔法術師と七十二人の呪術師。皆殺しの対価として私は封印されてしまったわけですが』
「よくしゃべる魔神だ」
ヤミが吐き捨てる。皆殺しの対価……。全部で七十七人もの術師の命を使ってようやく封印させられた、だって? いや、神話にも残る魔神・ハプトだ。そのくらいであってもおかしくはない。
今、導き出せる答えは――絶望だ。
そんな相手に勝てるはずがない。
ゲミトルードの切っ先が、大きく震えているのが見えた。筋肉が固い。俺は完全に恐怖に捕われていた。
「しっかりしてよ」
隣に並んだベスが声を張る。
「あんたのこと好きじゃない。けど、頼りにしてる」
「でも」
『その恐怖も一瞬で終わりますよ。楽に死にたければ、抵抗などしないことです。ああ、そうそう』
俺たちの前に何かが転がってきた。それが何なのか、俺たちは数秒間、理解ができなかった。
それは頭だった。半分叩き割られたそれは、まぎれもなくレイミのものだった。
「レイミ……!」
ベスががっくりと膝をつく。苦悶に歪んだそのレイミの顔は、ほんの一瞬で俺の記憶の中に焼きつけられた。
息を吐く。吸う。
吸った倍の量を吐き出す。
肺が空になる――意識がクリアになる。
全ての臭い、風の温度が何倍もの感度で感じ取れるようになっていく。足の裏に伝わる草と土の感触が仔細に理解できるようになった。
「ハプト……なぜこんなことをする」
無駄だとは思う。だけど、訊かずにはいられなかった。
『私は無理矢理にこの世界に引き摺り出された。こんな陳腐な世界にねぇ。全てはゲドルタの仕業。私の目的は、ゲドルタからの搾取者、あなたたちの言う魔法術師の殲滅と、ゲドルタの本体の破壊……!』
「ほう?」
ヤミが声を発した。殺気を孕んだ鋭い声だ。
――アタシの願いはね、レア。全ての魔法術と呪術の終焉なのさ。
先日のヤミの言葉が、頭の中で反響する。そしてこのハプトの言葉だ。
『私たちはねぇ、元の世界に戻りたいだけなんですよ。そして再びその門が開かぬようにするために、ゲドルタそのものを破壊する。あなたたちにとっての新たな悲劇を生まないようにねぇ』
「それはわかった」
俺は虚空に答える。
「だが、なぜこんなに多くの人を殺した!」
『楽しいじゃないですか』
「楽しい、だと……!?」
『子どもを殺せば親が泣く。妻を殺せば夫が泣く。生き延びたと思って一息ついたところで殺されればそこには絶望が湧く。死に物狂いで武器を取った人間を嬲り殺しにするのは、得も言われぬ快感。屈辱の封印の対価としては、まーだまだ不足ですけれどね』
「この邪神……!」
ベスが槍を支えに立ち上がった。
「誰も、あんたに殺されるために生まれてきたわけじゃないわよ!」
『それは異なこと。現実、私に殺されているのですから、そこらへんの命だった矮小な事物は、私に殺される運命だった。それだけのために生まれてきた卑小な命だったということの証左じゃぁないですか!』
「なんですって!」
ベスは槍を構えた。俺も意識を集中する。
「それは許されない発言だと俺は思う」
『許されないですって?』
「誰かに無理矢理、その命を終わらせられること。その責任を自分で負わず、運命というやつに帰結させようとすること。それは、残忍で独りよがりで、そして弱い精神のすることだ」
『弱い精神ですって?』
怒らせてどうするのよ! ――ベスの悲鳴が聞こえた気がした。
それと同時に、俺はベスを抱えて横跳びし、死の一撃を回避する。その未来が見えていなかったらやられていた。
ベスを助け起こすなり、ゲミトルードを一閃する。何かが弾き返された。
「先生!」
「時間を稼いだっていいことは起きないと思うけどねぇ」
ヤミにはお見通しだった。数秒でもいいから時間が欲しかった。だから挑発したのだ。そして俺は諦めない。俺はまた闇に向けて怒鳴った。
「そうやってコソコソ隠れて、弱い人間を一方的に葬って悦に浸っている! その悲しみ、慟哭、怒り、絶望、そんなものを吸い取って! お前だって結局人間に依存している弱者だ!」
伝承の中で、ハプトは一個軍団相当の兵士すら壊滅させたと言われている。伝承なので相当に盛られているとは思うが、それでも恐るべき手合いとして描写されている。
千年前の魔導大戦に於いては、最終的にはオベリアナ・モルフェアスの魔法術によって撃退された、とある。オベリアナはこの功績を以て、勇者の一員として認められたのだ。
そして――。
『死になさい!』
一瞬先、一瞬の未来。その全てで俺は死んでいた。
だが現実には、俺はベスを守りながら生きている。
姿は見えなくても、どんな攻撃がどこから来るのかが見えている。回避の最適解がわかる。
『私の攻撃を読めている、とでも言うのですか』
そう言ったハプトの声は、冷静だった。




