第1章 銀灰の理性
凍てつくような会議室に立つ、一人の男――鷺沼蓮。
完璧さを追い求める彼の言葉は、仲間の心を静かに締めつける。
その中で環と凪は、まだ見えない“違和感の兆し”に触れはじめる。
会議室の空気は、凍りつくように静かだった。
エアコンの音すら聞こえない。
ただ、蛍光灯の白い光が天井からまっすぐに降り注ぎ、
机の上の資料を銀灰色に染めている。
鷺沼蓮の声が、その沈黙を切り裂いた。
「第七工程、再提出です。論理構成が甘い。
このままでは品質基準を満たしません。」
短く、抑揚のない声。
それは“判断”ではなく、“命令”に近かった。
言葉の温度が低すぎて、誰も反論を思いつけない。
沈黙が、さらに一段と重く落ちる。
環は、呼吸を整えるように胸の奥で小さく息を吸った。
空気が硬い。
人の声があるのに、生きていない空間。
――完璧なのに、どこか怖い。
そう思ってしまう自分に、戸惑いすら覚える。
隣で凪が視線を落とした。
「……やっぱ、すごいな。」
その声はかすれていた。
不破恭介は、その言葉に小さくうなずきながら、
ひたすらノートに文字を刻みつづける。
ペン先が紙を削るような音が、
この部屋で唯一“生きている音”のように響いていた。
鷺沼は誰の表情も見ない。
モニターに視線を固定したまま、
完璧に整った資料を淡々と切り替えていく。
「では、タスクを再配分します。
ミスを防ぐため、個人裁量は制限します。」
その言葉に、会議室の空気がさらに冷えた。
窓の外では、昼の光さえ鈍く曇っている。
凪の顔にも、不破の肩にも、
柔らかさというものが一片も残らない。
環は、無意識に両手を握りしめていた。
“誰も息をしていない”ような錯覚。
この完璧な秩序の中に、自分の声を置く場所が見つからない。
――人は、こんなにも静かに、冷たく働くものなのだろうか。
その思いが胸に浮かんだとき、
環の視線の先で、鷺沼がわずかに眉を動かした。
誰も気づかないほどの、小さな動き。
けれど、そのわずかな揺れに、
“人間”の影がほんの一瞬だけ見えた気がした。
鷺沼は、整然と並んだ数字の羅列を見つめながら思う。
――人の感情など、プロジェクトの精度を下げるだけだ。
それは自分に言い聞かせるような言葉でもあった。
完璧でなければ、誰かが傷つく。
そう信じてきた。
だが、なぜだろう。
最近、その“正しさ”が、
ほんのわずかに胸の奥で軋む気がする。
それが何の感情なのか、鷺沼にはまだわからなかった。
ただ、理性の奥で、凍った歯車が
かすかに動こうとしていることだけは――
彼自身、気づいていた。
銀灰の冷たさの中で、わずかな揺らぎが生まれた。
誰も気づかないその変化こそ、
やがて“心が動く”ことになる最初の亀裂だった。




