第6章 再会の光 ― 溶けゆく理性 ―
灯が語る“選ばれた意味”。
その言葉は鷺沼の理性をかき乱し、
心の奥の氷を溶かしはじめる。
午後のレビュー会議。
アルカディアの会議室とアークシステムズのモニターが繋がる。
柊、凪、環、永峰、そして灯の姿が映っていた。
鷺沼は軽く顎を引き、いつもの調子で会議を進める。
声は冷静、テンポは一定。
その正確さは、まるで時間そのものを支配しているようだった。
だが、灯の声が入ると、
そのリズムがほんのわずかに揺れた。
「……鷺沼さん。
“想定外の動作”について、
少し“人の誤差”を許容してもいいかもしれません。」
「誤差を? それでは品質が下がります。」
鷺沼は淡々と答えた。
理屈では正しい。だが灯は、首を横に振る。
「人の誤差って、“不具合”じゃないと思うんです。
その人にとっては、精一杯の“正しさ”ですから。」
その一言に、凪も環も、ゆっくりと頷いた。
灯は、ほんの少し間を置いてから、続けた。
「私ね、左手が動かなくなってから、
全部右手で作業するようになったんです。
最初は何もかも遅くて、間違いも多くて……。
でも、毎日続けていたら、右手だけでも少し速くなってきました。
前みたいにはいかないけど、知識は残ってる。
それがあるから、今もパソコンと向き合えるんです。」
鷺沼は、わずかに視線を上げた。
「できなくなったことを数えるより、
今できることを使いたい。
どうせなら、右手だけで前より速くなってやろうって思ってるんです。」
灯は、少し笑って言葉を足した。
「どちらかが使えなくなったことは、悪いことじゃないと思うんです。
そうなっても明るく前を向いて歩ける人――
神様が、『この人なら立ち上がって幸せをつかむだろう』って選んだんだと思ってます。
……勝手な考えですけどね。」
会議室の空気が、静かに揺れた。
凪がモニター越しに微笑む。
環も、胸の奥にあたたかい何かが広がっていくのを感じていた。
鷺沼は視線を落としたまま、何も言わなかった。
だが、その胸の奥で、確かに何かが音を立てた。
(……選ばれた? そんなものがあるはずが――)
否定の言葉を探しても、見つからない。
心が小さくざわつき、理性が軋む。
会議が終わると、
モニターの電源が落ちる瞬間、灯の声が聞こえた。
「鷺沼さん。お疲れさまでした。」
その声は柔らかく、
まるで冬の陽だまりのように、
冷たい理性の表面に光を落としていった。
部屋に残るのは、静寂だけ。
鷺沼は背もたれに身を預け、
さきほどの言葉を反芻していた。
――神様が選んだ。
(……選ばれた?)
喉の奥で小さく笑いが漏れた。
そんな曖昧なものを、信じる人がいるのか。
努力も、計算も、積み上げた理論も、
“選ばれし者”の言葉ひとつで塗り替えられるというのか。
だが、否定しようとすればするほど、
胸の奥がざわめいた。
完璧を求め続けてきた自分は、
もしかすると誰にも“選ばれなかった”のかもしれない。
その思いが、胸の奥で小さくはじけた。
「……くだらない。」
吐き捨てるように呟き、目を閉じる。
だが、瞼の裏に浮かぶのは、
灯の穏やかな笑顔と、
右手でキーボードを叩く姿だった。
冷たく凍りついた理性の奥で、
またひとつ、氷が音を立ててひび割れた。
「選ばれた」という言葉を否定しながら、
鷺沼は自分の中に一度も感じたことのない温度に気づく。
静かなひび割れは、やがて大きな光へとつながる。




