この国のために 2
テオはそのアーヴィンの顔を見ながら改めて、この鬼上官と本当は血縁関係にあったことがいまだに信じられなかった。でもこれまで感じていた以上に、彼の存在が心強い。
「……あの、また公爵夫人から、父の話を聞かせていただいてもいいでしょうか……?」
「いちいち俺に確認を取る必要はない。リック叔父上の話ができるなら母も喜ぶだろう、お前の好きにしたらいい」
テオはほっと胸を撫で下ろす。アーヴィンが言葉遣いを元に戻してくれたのもありがたかった。
アーヴィンの母であるローイエン公爵夫人は元皇女で、亡き皇帝の妹であり、テオの父にとっては姉にあたる。皇帝がいない今は、公爵夫人がテオの父のことを最もよく知る人物だと言えた。
あの日、魔の森から帝都に帰還した数日後、テオはアーヴィンが場を設けてくれたおかげで、公爵夫人と会った。
元皇女で公爵夫人という高い身分もあり、テオにとってはかなり遠い存在の方だったが、それは一瞬で取り払われた。
部屋に入るなり、唐突に抱きしめられたからだ。
そのときテオは、ずいぶんと前に忘れてしまっていた母のぬくもりを思い出した。
公爵夫人は涙ながらに、皇弟がどんな人物か、どんな幼少期を一緒に過ごしたか、この国のため、そして皇帝となった兄のために、どれほど力を尽くしていたかを、時間も忘れるほど語ってくれた。
それだけでなく、父が命を落とした当時のことも教えてくれた。
彼は魔獣と魔の森について強い危機感を持っていたことから、自ら皇帝に申し出て、三年という期限付きで帝都を離れる許可を取り付けたそうだ。
表向きは遠方への長期遠征と称して、聖騎士も含めたごくわずかな護衛騎士らとともに魔の森近くの場所へと向かい、当時空き家になっていた領主の館を借り受け、そこを拠点に密かに調査と研究を進めていたということだった。
それはある程度の進展を見せてはいたものの、すべてが解明されるのにはまだまだ時間が必要だった。
そのうえ予想外なことに、調査と研究以上に、父にはもっと譲れないものができてしまった。
帝都を離れていられる三年という期限が迫る中、父が母を残して突然どこかに出かけて行ったのも、母と一緒になるために帝位継承権の放棄を求めるためだった。
愛する人ができたから──。
父は公爵夫人にそう伝えたという。
そして、帝都に来る前に、自身の紋章指輪をその女性に渡したとも──。
公爵夫人は皇弟の葬儀が終わってからも、長い間ずっと悲しみに暮れていた。
しかしふいに、皇弟が心を許した女性がいたことを思い出し、急いでその女性を探した。だが、名乗り出る者はおらず、有力な情報も得られなかったそうだ。
結局どれだけ探しても見つからず、その女性が身籠っているとも知らないまま、皇弟が滞在していた館に残された研究資料を回収したのち、すべて引き払い、以後女性の捜索が行われることはなかったらしい。
皇弟の紋章指輪の在処については、亡くなる前に彼自身が女性に『渡した』と言った言葉の意思を受け止め、公爵夫人は兄である皇帝と相談したのち、事実は自分たちの胸の中に留め、魔獣に襲われたせいで行方不明になったことにしたのだ。
それらの話を聞いたとき、テオには思い当たることがあった。
母と暮らしていた村では、誰もテオの父のことを知らなかったからだ。
その当時、村人の中にはごくわずか、母の家に出入りする知らない男を見かけたという人もいたが、その男については本当にわからないようだった。
唯一、近くに住む母の姉である伯母が、父と母との関係について何か気づいている様子だったが、それを生きている間にテオに語ってくれることはなかった。
おそらく、父と母はなるべく人目を避けて会っていたのだろう。
もしかすると母は、父がいなくなったあと自分が名乗り出ることで、父を思い起こさせる日記と指輪さえも失ってしまうと思ったのかもしれない。
母は父の素性は何も知らなかったようだが、父が村の近くにあった領主が管理する館に住めるような身分の者だったことからも、平民ではないことには気づいていただろう。
もし父が貴族で、その実家に妊娠していることを知られれば、不要な子だとして亡き者にされるか、無事生まれたとしても子どもを取り上げられるかもしれないことを恐れた、というのも十分あり得るようにも思えた。
テオにとって唯一の肉親だった母は、彼が宿舎のある騎士学校に通っている頃に亡くなった。
それからは、ずっと天涯孤独だと思って過ごしてきた。
それを特別不幸だと思ったことはない。色々苦労はしたと思うが、騎士という誇りある職を得られたし、心を許せる仲間も周りに多くいた。幼い頃とは違い、寂しく思うこともなかった。
それでも、ずっと心の底で引っかかっていたのはきっと、顔も素性も知らなかった父のこと。
でももう、今は違う──。
テオは顔を上げて、控えの間に飾られている肖像画のひとつに目を向ける。
大聖堂の中にある控えの間、その壁には初代皇帝アルトリウスから始まり、歴代の皇帝の肖像画が左から年代順にずらりと飾られている。
にわかには信じられないが、初代皇帝の何代かあとには、妖精とつながりを持った者もいたという。
多くの肖像画、その一番右端は、先頃崩御した前皇帝の肖像画があるはず──、だが今は、その前皇帝の右側には本来並ぶはずのない、一枚の肖像画があった。
その肖像画は、ほかのものよりもひと回り小さいサイズで、描かれた人物の服装も皇帝らしい仰々しい軍服とマントではなく、ジャケットとタイという日常着姿。
象徴となる帝冠も装飾杖の帝笏も見当たらず、歴代の皇帝がずらりと並ぶ中でひとつだけ統一感に欠ける。
だからこそ、それが今日だけ特別にここに飾られているのだとすぐにわかる。
優しげに微笑んでいる、温厚そうな若い男。
前皇帝の弟、エーリックス、──テオの父だ。
前皇帝の遺品として大事に保管されていたものを、その後、公爵夫人が譲り受けたと聞いている。
そして今度は、テオに託されるもの──。
初めて父の肖像画を見せてもらったとき、公爵夫人からは傷みがないか確認したあとで渡すから、それまで待っていてほしいと言われていた。
でも、ここに飾られているということは、きっとアーヴィンの指示によるものなのだろう。
戴冠神聖式が始まる前は、緊張のあまり控えの間の中を確認する余裕がなく、壁に父の肖像画がかかっていると気づいたのは部屋を出る直前。
テオはじっと、亡き父の顔を見つめる。
壮年だった前皇帝と比べると、弟にしてはずいぶんと年が離れて見えるのは、彼が早くに命を落としたためだ。
どこか自分と似ているところはあるだろうか。ああ、瞳の色が似ている、この青みがかったグリーンの瞳は父譲りだったのか。共通点を見つけてうれしくなる。
髪の毛の色は少し違う。でも違う点に気づけるということは、相手を知っているからこそ可能なことだ。
それがただただうれしかった。
もし自分が生まれたときに父が生きていたら、どんな表情を見せてくれただろうか。成長するたびに、どんな言葉をかけてくれただろうか──……。
とりとめなく言葉があふれる中、テオはその肖像画にじっと見入る。
戴冠神聖式が終わったこのあとには、参列者たちを招いた即位祝賀会が催される予定になっている。
その準備のため、すぐにでもこの控えの間からは出なければいけない。
扉の向こうから急ぐようなノック音が響いているのはわかっていたが、テオはしばらくその場から離れられなかった──。
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