逃走劇の始まり 2
ビクッと肩を跳ね上げたララは、パッと振り返る。
背が高く、がっしりした体つきの男性が立っていた。
焦茶色の短髪に、左目を覆っているのは黒い眼帯。
その眼帯からは、はみ出るほど縦に伸びる傷があり、思わず目がいく。
おそらく傷によって視力を失ったのだろうと思われた。眼帯に覆われていない左目は、少し緑がかったブルーの瞳だ。
相手は怪訝そうにしながら、ララのそばにある小屋の中を覗き込む。だが、すぐに呆れた様子で、
「居眠りしてるのか? おい、起きろ」
慣れた様子で小屋に入ると、ララが眠らせた若い門番の両肩を揺する。当然ながらそれくらいでは目覚めない。
眼帯の男性は困り果てたように、
「すまないな、いつもはこんなことなどないのに……。で、あなたは?」
「あの……?」
「ああ、失礼。私は怪しい者ではなく、城の者です。今日は私用で外に出ていたので私服ですが」
ララが不審な目を向けたからだろう、男性はそう説明した。
内心、ララは冷や汗を流す。タイミングの悪さを呪いたくなる。しかし努めて愛想よく話しかける。
「そうでしたか。じつは急ぎの用があって外に出たいのですが、門番の方がぐっすり眠っているので、どうしたものかと……。代わりに門を開けていただけないでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。身分証などを見せてもらっても?」
「身分証──」
ララは動揺する。可能な限り足跡を残すことは避けたかったので、あえて神聖力を使って門番は眠らせたのだ。
しかしここで断れば逆に怪しまれる。
ララはワンピースのポケットに手を入れると、あらかじめ持っていた一枚の紙を取り出し、男性に渡す。
男性はじっと紙を確認するように見たあとで、顔を上げて言った。
「ああ、これは許可証ですね。なるほど、城内に滞在されているご令嬢の付き人の方ですか」
「ええ、お嬢さまには軽い持病がおありなのですが、持参していたお薬が足らなくなってしまいまして。急ぎ家の者が城下に持って来ているので、わたしがそれを取りに行くよう申し付かりました」
先ほどララが提示した紙は、今回聖女選定のために城内に滞在する令嬢の付き人に渡される一時的な滞在許可証だ。
身分証とは違って個別に識別できるようなものではなく、共通する許可証のようだったので、ここからララの身元が特定される可能性は低い。
とはいえ、提示しないで済むのならそれに越したことがないと思っていた。城外に出る理由については、ほかの令嬢の使用人の誰かが言っていたのを使わせてもらった。
「なるほど、そういうことでしたか」
男性は納得したようなそぶりを見せるが、真偽を確かめるように、こちらの表情をじっと窺ってくる。
どうやらかなり勘の鋭い者のようだと感じる。立ち姿や手の形などからも、おそらく剣も使えるだろう。
最悪眠らせるしかないか、とララが考えていたとき、
「──では、こちらへ。門を開けますから」
男性はひとまず納得できたのか、スタスタを歩いて門のかんぬきを横に引っ張ると、あっさりと門を開けた。
「あ、えっと……、ありがとうございます」
やや拍子抜けしながら、ララは男性に向かってお礼を言う。
引き止められないうちに、小走りで男性の横を通り過ぎようとしたが、ふと足を止め、男性を仰ぎ見る。
「あの、その目……」
ララが口にすると、男性は眼帯に手を当てる。
「ああ、これは昔、遠征訓練の際の事故で……」
その表情がわずかにくもる。
ララの目には、彼が昔と言いながらも、今でもその傷を引きずっているようにも見えた。
ララは少し迷ったあとで、
「……ちょっと失礼します」
そう言うと、男性の片方の手を両手でそっと握る。
そして、調整しながら神聖力を相手の体に流した。
男性は何かを感じたのだろう、パッと手を離す。だがすぐに、
「──ッ、すまない」
女性の手を無遠慮に振り払ったことを詫びるように言う。
ララは軽く首を横に振って微笑む。
「いえ、こちらこそ、急に触れてしまってすみません。通していただいてありがとうございます、では」
そう言って、急ぎ早に門を通り抜ける。
城門から少し離れたあとで、宙を飛ぶフィーがララの顔を覗き込む。
「目、治したの?」
「ええ、あまり怪しまれるといけないから完全にではないけど、前よりは見えるようになるはずよ」
ララは微笑んだ。