②
完全に、継母の胸元だけを爛々とした瞳で凝視している様に、ふと、ホールでされた挨拶を思い出した。
今思えば、あの時、夫人は公爵の傍に身を寄せ、半ば隠れるような位置に立っていた気がする。あれは謙虚とか人見知りとかではなく、こういう事態を防ぐ為に取った位置だったのだろうかと最近何度も繰り返されている、少々気が遠くなる状態になりながらも思い起こしているうちに、リロウは視線を一切継母の胸元から外さないままこちらに歩み寄って来て・・・、満面の笑みを浮かべてその口を開こうとした。おそらく、その視線の先の盛り上がりに関する何かを言わんとして。
しかしその口がどんな言葉を発しようとしているのか、それを僕よりもよほどはっきり察していたのは当然、家族である公爵夫妻だったようで、彼らの動きはほぼ本能的と言えるほどの素早さと、悲壮なほどの決意に溢れていた。
「でっ、殿下! 娘は・・・、リロウはっ、そのっ、少々あけすけなところはありますが、そのっ、根は素直で優しい子なのです! 我が子ながらとても優秀ですし・・・、ただ、ほっ、本当に少しだけ、ちょっと、アレなのですが・・・、でもっ、決して悪気はなく!」
「そうなのです! ライナス殿下! リロウは・・・、あのっ、後妻である私にもとても懐いてくれているのです! えぇっ! 懐いているのですわ! 懐いているだけですわ! 本当にそれだけで・・・、夫が今、申し上げました通り、本当に良い子ですのよっ! それは、それだけは確かなのです!」
「お父様? お母様も・・・、どうなさったのです? 突然」
「いいからっ!」
「いいからと申せられましても・・・」
「リロウ! いいのです! 旦那様の申す通り、少し黙って・・・!」
「殿下っ! リロウは本当に本当に良い子で、優秀で、それはもう、殿下をお傍で支えるに相応しいとは思うのですが、しかし生涯を連れそうということは能力だけではないと思うのです! あのっ、えぇっと・・・、つまりですな・・・」
「あっ、相性ですわ!」
「そう! 相性なのです! 人間、どれだけ能力があり、誠実で性格が良かろうとも、それぞれ相性というものがあります! あのっ、生涯を共にするにあたって、そういった相性というものはやはり大事だと思うのですな! しかしその相性を見る前にこうして婚約が決まってしまったわけで・・・、そのっ、えぇ、ですから・・・、万が一、ということがあると思うのです!」
「相性ばかりは仕方がないことですものね!」
「そうです、妻が申し上げている通りなのです! 相性の有無はこれから見るしかないと思いますし、その結果、こうっ、どうにも・・・、ということもあるかと思うのです。いえっ、べつにそうであるに違いないということではなく! そういうことではなく・・・、でも、その、本当に、万が一ということがありますので・・・、あの、その、万が一があった場合は、ですな・・・、」
どんな些細なことでも結構ですので、是非、遠慮なく私達に仰ってください!
「さっ、些細なことを見逃すと、あとでもっと大きな問題に・・・」
「貴方っ!」
「いえっ! 問題とかではなく・・・、えぇ、とにかく、どんなことでも些細なことと思っているうちに把握した方が良いかと思うのです! それですので、その、本当になにかありましたらどんなつまらないことでもどうぞ遠慮なく、仰ってください! お話いただければ、すぐにでも陛下と話し合いの場を設けますので!」
「殿下っ、殿下! どうぞ私からもお願いいたしますわっ!」
「・・・分かりました。その、胸に留めておきます」
留めておく、というか、グッサリ突き刺さる感じがしていたのだが、とにかくすでに習得済みで表情筋に刻みつけられている王子スマイルを貼り付けて、穏やかな声を意識してそう返事をした。
僕のそのスマイルと声はちゃんと僕が希望する通りの効果を発揮したようで、公爵は安堵の溜息を漏らしていたし、夫人は目元を潤ませて必死に泣くのを耐えているようだ。
ちなみに今の会話の全ての原因になっているリロウはといえば、いつの間にか公爵のすぐ傍まで近づいており、まだ細くて小さな体に公爵が庇うように片腕を回し、しっかりその腕の中に抱き止められている。
・・・全く、事情が分かっていないらしい、キョトンとした表情で。
僕の予想が全て的外れであったことは、その光景から火を見るよりも明らかだった。
リロウを抱きしめて安堵の溜息を漏らしている公爵も、目元を潤ませて必死に泣くのを耐えている夫人も、どちらもリロウをちゃんと愛していることがその様から痛いほど伝わってきた。
そしてリロウをなんとしても守りたいと願っていることも、先程の会話から伝わってきている。それはもう、切実なまでに、胸に突き刺さりそうなレベルで。
今もリロウに回されている公爵の手は、リロウを守りたいという気持ちの現れなのが分かっていて、だからこそ、そこを直視するのが憚られる気がしたのは、先程までの自分の邪推が申し訳なかったことと、守らなくてはいけない事情があり、その事情に苦しんでいる公爵夫妻があまりにも哀れで不憫だからだった。
彼らが守らなくてはいけないもの・・・、というか、隠しきりたい、もしも少しでもバレてリロウに何か不利なことが発生するくらいなら、潔く王族と縁続きになるというメリットを捨て去るという決意すら固めさせているそれが何であるのかなんて、考える余地もないほど明らかで、それが分かってしまうからこそ、本当に、目頭が熱くなるくらい胸にきてしまうのもがある。
それが、リロウのあの女性に対する欲まみれの本性だと分かってしまうからこそ。
当然といえば当然のことで、彼らはリロウのあの言動を把握しているのだろう。そして王城内でリロウが女性に対してどんな目をしてどんな感情を抱いていたのかも分かっていたのだろうし、母上に対してどんな目を向けていたのかも予測済みだったに違いない。
だからこそ、そんなリロウが僕の婚約者に選ばれることを恐れていたし、出来ることなら回避したがっていたのだ。婚約者に選ばれ、リロウのあの言動がバレてしまい、お咎めがいくことを恐れていたのだ。
勿論、自分達にお咎めがいくかもしれないという恐れではなく、愛している娘にお咎めがいくのではないか、という恐れだったのだろう。
しかし彼らの願い虚しく、リロウは選ばれてしまった。そう、選ばれてしまったのだ。選んでほしくないと切実に願っていただろう彼らの願いは踏み躙られてしまった。
・・・僕の、浅はかな行動の数々によって。
確かにリロウは最初から最有力候補ではあったが、それでもきっと、回避する術はあったのだ。最有力候補ではあっても他にも候補者を揃えてくれていたのだし、僕がその中から気が合いそうな令嬢を見つけ出せていれば、その令嬢が選ばれていたに違いない・・・、のに、僕が取った行動が裏目に出続けた結果、こういう、悲壮な顔をして娘の安否を気遣うという不憫な親を生んでしまっている。
目の前に突きつけられた現実が、ただひたすらに申し訳なかった。夫妻二人揃って今、縋るような目を向けてくる、その視線に晒されてるのも居た堪れない。どうか許してくださいと言わんばかりのそれに、こちらこそ許してくださいと言いたくなる。
ただ、そんな許しを乞う台詞は口にできなかった。王族は簡単に謝罪するわけにはいかない・・・、とかいう理由ではなく、ここで謝罪をしてしまえば、その行動が更に公爵夫妻を追い詰めてしまうと分かっていたからだ。
謝ってしまえば、彼らは気づくだろう。僕がすでにリロウのあの問題ある言動の数々を知っていることに。そうして謝り出すだろう、それこそ死を覚悟した表情でもして。
ただ純粋に娘を愛しているだけの親に、そんな酷いことをさせて平然としていられるほど、僕は冷酷な人間じゃない。
これはもう、言えない。絶対に言えない。何が言えないかといえば、当然、リロウの言動のおかしさに気づいています、知っています、という事実だ。
勿論、あの言動はどうにかなりませんか、なんて相談もできるわけがない。そんなことをしたら彼らは死ぬほど謝った後、彼ら自身が口にしていたように父上や母上に事情を説明して謝罪するだろう。その結果、婚約の話がなくなるのは構わないとしても、彼らやリロウに何か不利益が降りかかってしまうようなら、申し訳なくなってしまう。リロウに対してというより、今は主にこの不憫な公爵夫妻に対しての申し訳なさだが。
つまり、僕は絶対にリロウのことに気づいていることを公爵夫妻に知られないように振る舞わなくてはいけない、ということだ。
元々、リロウをどうにかするというミッションが発生していたというのに、そのミッションクリアの為にやって来た公爵家で、新たなミッションが発生してしまったようだった。しかも元々あったミッションの達成を新たなミッションが少々邪魔する、というか足枷になる、みたいなミッションだ。
心のどこかで、最初のミッション、リロウをまともにする計画にリロウの周りの人間の協力が得られないかという期待が生まれていたことに気がついたのは、その期待が打ち砕かれたこの瞬間だったというのは本当に皮肉としか言いようがなかっただろう。
それでも、もう誰の助けも借りられない。
しかし自分の将来、国の将来、そして哀れな公爵夫妻の心労を解消する為にも、リロウをどうにかするというミッションに対する責任感のようなものは自然と高まり・・・、相変わらず一人だけ事態が分かっていないリロウと共に心配そうな公爵夫妻を残してお茶の用意がされた庭に向かう頃には、僕の中には強い決意にも似た使命感で満ち溢れていたのだった。
冷静に考えてみれば、高位の貴族の侍女達も容姿は重要視されるのだ。
勿論、容姿が優れていなければ雇ってもらえないというほどではないが、客に接し対する、つまり家の顔になるような仕事には有能で且つ、容姿の美しい者をつけるのが普通だった。
その為、王城に負けず劣らずの美さを持つ侍女達がこの有り余るほどの財力を持つ公爵家にはいるわけで・・・、当然、王族の僕がいるお茶会で給仕するのもそういった美しい容姿を持つ侍女達になるわけなのだが、そんな彼女達を目にするのは本当に居た堪れなくて。
理由はリロウがお茶を入れる為に傍に控えていた美しい侍女の胸元に視線を固定していたから・・・、という理由もあるにはあるが、それよりもっと居た堪れなかったのが、視線を胸元に固定されていた侍女が、不安そうな目で僕を見たり、心配そうな目でリロウを見つめているからだった。
それは公爵夫妻と同じ状態で、つまりリロウのこのおかしな振る舞いが王族である僕に気づかれないか、気づかれた結果、リロウに何かお咎めがいくのではないかと心配しているのだと分かったからこそ、その視線が居た堪れなくなってしまったのだ。
すぐ傍にいる侍女だけではなく、少し離れたところにいる侍女達からも同様の視線を向けられていて、それが皆一様にリロウを心配しているのが分かる。彼女達の視線が語る、『私達の大切なお嬢様に何もありませんように』という切実な祈りが伝わってくるので、何とも言えない心境になった。
絶対にあの欲に塗れた視線に晒されているだろうに、それでもこれだけ、リロウは家の者達に愛されているのだ。
まぁ、確かにあれだけあけすけな欲まみれの言動されたら、負の感情すら吹っ飛ぶかもしれないけど、と王城でのあからさまな発言を思い出しつつ、零れそうになる溜息をお茶と共に喉の奥に押し込めた。
今、溜息なんて零そうものなら、侍女達の悲痛な眼差しが突き刺さること請け合いで、そんな悲惨な目に好き好んで遭いたいわけがないのだから、どれほど大きな溜息だろうと根性で飲み込むしかなかったのだ。
そうして香り高いお茶の香りを全く楽しめないまま一口飲み込み、そっとリロウの様子を伺えば、相変わらず視線は女性の胸部を目指して方々へ向けられている。向ける眼差しはキラキラと輝き、それが欲望に塗れたものだと分からなくなるほど、ある意味潔く美しかった。
視線を向けられいる侍女達の様子をもう一度伺えば、やっぱり嫌悪や恐怖を感じている様子はなく、ただリロウを心配し、人によっては視線にその気持ちを込めて小さく首を左右に振っている姿も見られる。
たぶん、こちらを見てはいけません、という注意なのだろう。勿論、リオウを思っての、注意。誰もが同じように、リロウを本当に大切に思っている。
・・・こんなアレな感じの子なのに、それでも愛すべき存在だと思われるような部分があるってことだよね。
いくら自分達の主の娘とはいえ、使用人である侍女達が本当の愛情を持って接することができるかどうかは相手によるだろう。それがこれだけ愛情深く思われているなら、思われるだけの理由がリロウ個人にあるわけで。
確かにあんな言動していても、嫌悪していたり嫌ってはいないな・・・、と、翻って自分のリロウへの印象を直視ししてみれば、困惑やら動揺やら疑問やら、とにかくありとあらゆる今までにない感情が重なり合ってはいるが、でもだからといってリロウを嫌っているのか、あの言動を嫌悪しているのかと聞かれればそれはなくて。
あまりに凄すぎる言動なので、そんな感情が湧き上がる隙すらなかったのかもしれない、と思いつつも、周りの侍女達の縋るような視線に気づかない振りをしたり、リロウの出かかるトンデモ発言を回避したり、それでも回避しきれなくなりかけたらすぐさま侍女を下がらせたりしつつ・・・。
そうしてとにかく、気を使いまくるお茶会をどうにかギリギリのところで無事、終えたのだった。
当初の目的である、リロウをどうにかするというミッションには何も成果をあげられないまま、顔には出さないがぐったりしつつ終えたお茶会の帰り際、ふと思い出して聞いたのはその段階まで姿を見せないリロウの異母兄弟である弟のことだ。
ホールへ向かいながら、公爵夫妻もそこで見送りをしてくれるんだろうなと思っているうちに、ふと、まだ会っていないエンバー家の最後の一人のことが頭をよぎって、それで何気なく話題を振ったのだが・・・、リロウが小首を傾げながら口にした返事に、公爵夫妻の苦労が忍ばれてまた頭が痛くなり、聞かなければよかったと後悔する羽目になった。
「よく分かりませんのですけど・・・、まだ幼いから、ご挨拶は控えさせると両親が決めたようですわ」
「二歳くらいだよね?」
「えぇ、私としては、ご挨拶くらいできると思うのですけれど・・・、なんでも、幼すぎて言っては良いことと悪いことの区別がつかないとか、素直にありのままを言いすぎるとか・・・、私は素直であることもありもままに物を言えることも素晴らしいことだと思うのですけど、殿下の前にはまだ伺えないそうですわ」
「・・・そう」
「でも、ご挨拶くらい、やはりさせるべきですわよね?」
「・・・公爵ご夫妻がそう判断なさったなら、僕は気にしないから、べつに構わないよ」
「そうですの?」
「素直であることもありのままを話すことも決して悪いことではないけれど、貴族はそういう素直な言動だけでは許されないことも多いからね、そういったことが分かるような教育をしてから、という方針なら、それはそれで立派だと思うからね」
「なるほど、流石殿下ですわっ!」
リロウの朗らかな声を聞きながら、素直でありのままの発言が貴族としてどうかっていうのはキミにも当てはまるんだけどね、という言葉が口から出そうになったのだが、あまりに満面の笑みで賞賛されるので、毒気が抜けてしまい、出そうになった言葉も喉の奥に転がり落ちてしまった。
そうして転がり落ちてしまった言葉を拾うことができないまま、ホールに到着してしまい、顔面を引き攣らせて心配そうにリロウと僕を見つめる公爵夫妻に激しく哀れみを感じつつ、とにかく色々と取り繕って公爵家を後にしてしまう。
王城に戻る馬車の中、他に人がいたら絶対にできないほどのぐったりとした体勢で全身の力を抜いていたのだが、押し寄せる公爵家での出来事の中、混沌とした記憶の中で一番鮮明に残っているのは、リロウの何の計算もない朗らかな声と笑みで。
だいぶどうかと思う発言をする際に聞こえてくる声と笑顔なのに、あまりにも素直すぎるそれらは確かに誰にもない輝きを放っていたから。
その後、何回か公爵家での交流は行われたのだが、結局、当初の目的を果たせないどころか、リロウを愛するあまり彼女を心配する公爵夫妻や使用人達の疲労を激しくするだけのものになってしまう。
愛する者の為にボロボロになっていく彼らを見るのは忍びなかったし、リロウを心配して下がるように言ってもリロウと二人っきりにさせたがらない、させたとしても事あるごとに用事を作って様子を見に来る公爵家ではリロウに言動を改めるように指導する時間もあまり取れず、何も手が打てない状態が続いてしまうだけだった。
どうしたものかと思っていたところ、公爵家で交流を持つのも良いが、そろそろ王城にも慣れていかないといけないという忠告もあり、悩んだ末、リロウを再び王城のお茶会に招くことにしたのだ。
王城の侍女達や母上のことは勿論、心配だった。それはもう、心配で仕方がないままではある。・・・が、暫し公爵家に通う内に、まだ王城の方がマシだという結論に達していて、周りの忠告に従う気になったのだ。
公爵家の侍女達と違って、下がれといえばそのまま下がっていてくれるし、母上だってお忙しいのだから、そうそうは様子を見に来たりしないだろうしね。
リロウの言動を心配し、疲労していく公爵家の面々よりずっと負担も危険も少ないに違いないと判断したわけなのだが、しかし公爵家にリロウに会いに行った際、次の交流は王城でと誘った時のその場にいた面々の様子はちょっとしたトラウマになるレベルのそれだった。
満面の笑みを浮かべて喜ぶリロウのその様はあらかじめ予想済みだったのでいいとしても、公爵夫妻や使用人達の絶望を絵に描いたような表情は想定していなくて、ただでさえ疲労が溜まっている彼らを追い詰めてしまったようで本当に申し訳なくなってしまう。
冷静に考えれば、僕との婚約すらリロウの為に断りたがっていた彼らなのに、王城にリロウを通わせるなんて何か起きるのではと心配で仕方がないに違いない。
きっと婚約者選定期間のお茶会の時もこんな表情を浮かべていたのだろうな、と今更ながらの当時の彼らの心痛を思って胸が痛むのを感じながらも、何をどういう選択をしても彼らを追い詰めてしまうのだと知って、本当に申し訳なく思いながら改めて誓わずにはいられなかった。
リロウを一刻も早くどうにかしよう、と。