第三十六話 生きてこそ
香奈は小学校からずっと一緒の親友だった。
大人しく目立たない自分と違い、香奈は活発でいつもクラスの中心にいた。
それでも香奈は、いつも自分の手を引いて、その輪の中に自分を導いてくれた。
中学に行ってもその関係は変わらず。
やがて当然のように同じ高校に進んだ。
だからとても自然に、これからもずっと一緒だと思っていたのだ。
けれどある日、偶然に聞いてしまった会話。
その日は委員会だったけれど、忘れ物をして偶々教室に戻ると、そこには香奈のお供で入れた、クラス一目立つグループの皆が集まっていて。
-彩ってノリ悪いし、邪魔じゃね? すぐ親が厳し
い、塾がなんだとか、うっせぇっての-
-ほんとほんと。香奈、よく合わせてるよな~-
-まぁ……正直ちょっと辛い時もあるけど-
-ずっとお守りしてやったんでしょ。そろそろ見限
ればいいじゃん-
-いや……でも、それじゃ彩がかわいそうだし-
-仏かっ!……でもマジで香奈まで切られるよ、こ
のままじゃ-
-え……それは、やだなぁ-
あの子たちが自分とは全然違うタイプなのは初めから分かっていた。
ショックだったのは、香奈が自分を”かわいそう”だと言ったこと。
香奈にとって、私は友達でも親友でも無かった。
その日を境に私は自分から香奈との距離を置いた。
理由が分からない香奈は初めは心配していたけれど、そのうちに諦めたようだった。
グループから見限られた自分は、彼女たちの視線を気にしたその他の生徒からも敬遠され、いつか完全に孤立していた。
学歴だけで人生が決まると信じる母のいる家。
授業で指名されなければ一日声を出すことも無く過ぎる学校。
息をつける私の居場所は、どこにも無かった。
ただ、それでも自分は大丈夫だと思っていた。
もともと友達は多い方じゃなかったし。
それに、そこまで自分は弱くないと思っていた。
けれど、実際には違っていた。
夜眠れなくなって、いつも体が重く感じられた。
どうしても涙が止まらなくなったりした。
それまで楽しいと思っていたはずのものまでが、急に色褪せて見えた。
そしてある日、ふと思ったのだ。
-なんでこんなんで生きてるんだろう、私-
涙は枯れずに出るのに、自分の中は既に空っぽだった。
学校が終わって、塾に向かうための駅。
大人の帰宅ラッシュにはまだ早く、この時間の人通りはそれほど多くない。
電車がまいります、というアナウンスと音楽が、妙に心に響いた。
直前まで打っていたスマホと鞄をベンチに残し、呼ばれるように線路に向かって歩き出して、そして。
***
「……そこからは、今でも思い出せないの。気づいたら、ここだったから」
「…………」
話し終えてしばらく、伊織も猫も無言だった。
電車も知らない彼らに状況を説明するのは難しかったけれど、少なくとも自分が死のうとしたことは分かってもらえたと思う。
「ごめんね。色々助けてもらったのに……こんな弱い、人間で」
「何言ってんだよ。彩は絶対にその周りの奴らが言うような人間じゃない。俺は、彩に会えて良かったと思ってる」
「ありがとう」
「だから、もう泣くな」
「……うん」
笑おうと思ったが、涙が止まらない。
「私、ここに来られてよかった。誰かにこんなに優しくしてもらえる日が来るなんて、思わなかったよ。……あはは、もしかして私死んじゃってるのかな」
「それはないぞ、彩」
いつの間にか、猫がぴたりと寄り添っていた。
「お主の体は温かい。心の臓の音も聞こえる。お主は確かに生きておる」
「そうだね。生きてたから二人に……ううん、この世界の皆に会えたなら、私、本当に死ななくてよかった」
***
翌日。
伊織と彩、そして猫は揃って幻の元を訪ねた。
宝は苦楽に三味線を教えてもらっていたが、彼らの顔を見ると駆け寄ってきた。
「宝ちゃん、昨日はごめんね」
「ううん。お姉ちゃんはもう大丈夫?」
「……?」
「清兄ちゃんが言ってた。お姉ちゃん、具合が悪いから来れないって」
「ああ、うん。もう、大丈夫だよ。心配かけちゃったね」
「うん。でも代わりに清兄ちゃんが遊んでくれた」
「そうなんだ、よかったね」
楽しそうに話す二人に、伊織が声を掛ける。
「俺はとりあえず、経緯を師匠に報告してくる。彩は宝と遊んでるといい」
「うん。猫ちゃんも行く?」
「ワシは今日は伊織の面倒を見ようと思う」
「……人聞きの悪い言い方をするな」
「お主一人では道に迷うばかりじゃからな。ほれ、行くぞ」
言いあいながら二階に上がる伊織と猫を見送る。
そして何気なく戻した彩の視線が、苦楽と合わさった。
ぎこちなく笑って目を逸らし、宝に話しかける。
「宝ちゃん、今日は何しようか?」
「あのね」
「うん」
「母ちゃんといた、川原に行きたい」
「…………」
彩は目を瞠った。
だが、すぐに思い直す。
まだこんなに小さいのだ、当然だろう。
自分たちは、宝が寂しくないようにとあれこれ気を配ったけれど。
どうしたって寂しいに決まっている。
「ごめんね。連れて行ってあげたいけど、私、場所がよく……」
その言葉に、苦楽が笑って言った。
「よかったら、その川原までは私が案内しましょう」
「え? 苦楽さんは伊織達の話を聞かなくていいんですか」
「幻様がお聞きになられれば十分です。それに私も、あなたにお話ししたいことがあったので」
「……そう、ですか」
川原までの道を、宝を間に挟み三人で歩いた。
宝は周囲の店の様子に興味深々のようだった。
これまで、きっと酒屋に酒を買いに行くくらいしかしていなかったのだろう。
「今度は買い物にも来てみるかい?」
「うん」
苦楽の言葉に、宝は少し表情を緩ませて答えた。
きょろきょろする宝が転ばぬように、彩はその手を握ったが、宝は気づかぬ様子だった。
そんな様子を見て、苦楽はいつものように穏やかに口を開いた。
「昨日、清之助君から簡単に話は聞きました。記憶が戻ったそうですね」
「はい。全部ではないんですけど」
「記憶が戻って、気持ちは定まりましたか?」
「……まだ、分かりません。伊織には、少し時間を欲しいとお願いしました」
「そうですか。参考にはならないでしょうけれど、不公平にならないよう、私の方もご報告しておきます。……幻様は、私のことは全てお見通しでした」
「え? それって、あの」
「その上で、しっかりと私のやるべきことをしろと仰られた。あの方は、強くて、優しくて、悲しい人です」
「苦楽さんは、これからどうするんですか」
苦楽は、小さく笑って言った。
「今の私は幻様の僕です。僕のやるべきことは……主をお守りすることだけですよ」
***
辿り着いた川原には、涼やかな風が流れていた。
宝と母親が暮らしていた小屋はそのままになっていて、それを見た宝は彩の手をすり抜け駆けて行った。
そして小屋の中に飛び込んで行く。
咄嗟につなぎの光景を思い出した彩は息を呑み、慌てて後を追いかけた。
「やっぱり、いないね。母ちゃん」
小屋の中で宝が一人座っているのを見て、彩は内心安堵した。
宝は、母親が使っていたのだろう古びた化粧机にそっと手を伸ばした。
「勝手に触ったらすごく怒られるんだ。……でももう、怒られないね」
「宝……」
引き出しの中には、いくつかの化粧道具。
それをひとつひとつ取り出していた宝の手が、ふと止まる。
戻した手の中に収まるのは、青くて丸い小石だ。
「これ……母ちゃんにあげた石だ」
川原で母親の仕事が終わるのを待つ間、偶然見つけた綺麗な石。
手渡された母は、酒の足しにもならないと言い、ろくに見てもくれなかった。
それからは一度も話に出ることも無かった。
だからとっくに捨てられたのだと思っていた。
なのになぜ、ここにしまってあるのか。
なぜ、自分が見つけた時よりも一層、磨かれて綺麗になっているのか。
結局、その石だけを持ち出して小屋を出た。
そして小屋が見える位置で腰を下ろす。
先程から変わらず、風が吹き続けていた。
「母ちゃんって……悪い人間だったのかな」
ぽつりと宝が呟き、思わず彩と苦楽は顔を見合わせた。
「……そんなこと」
「酒買いに行ったり、母ちゃんの仕事中にここで待ってたりすると、よく言われた。……かわいそうな子だって」
「……!」
かわいそうな子。
その言葉に彩は香奈を思い出した。
「母ちゃんが悪い人間だから、あたしがかわいそうなのかな? ……悪い人間だから、母ちゃん死んじゃったのかな?」
宝の問いかけに、彩は俯いた。
自分の覚悟を決めるために。
そして、ゆっくりと瞬きをして、顔を上げた。
「宝。……私も、あなたに初めてあった時、かわいそうだと思った」
「…………」
「でもね、宝がかわいそうかどうかを決めるのは、宝自身なんだよ。……他の人がどんなにそう思ったとしても、宝がそう思わないなら、あなたはかわいそうじゃない。お母さんもそう。宝の心の中に残っているのが優しいお母さんなら、お母さんは絶対に悪い人じゃない。……ただ、きっとお母さんは、選ぶ道を間違ってしまったんだと思う」
宝は驚いたように彩を見つめた。
その視線を受け止めて笑うと、目の前が滲んで見えた。
「私も……ずっとそのことに気づけなくて、大切な人や幸せだった日々を自分から全部手放してしまった。……ううん、それどころか、自分さえ失ってしまうところだった。……馬鹿だよね。私も宝のお母さんと同じで道を誤っちゃったんだ。たまたま……本当に運よく私は死ななくて、宝のお母さんは死んでしまった。そう考えると、生き残った自分がすごく恥ずかしい。でも……でも、今生きているおかげで、私は新たに大切なものを見つけることが出来た。……もちろん、宝もその一人だよ」
「お姉ちゃん……」
彩は宝を抱きしめた。
「宝に会えて本当に良かった。私、宝に会わせてくれたお母さんに感謝してる。それに、今、こうして生きていてくれる宝にも。……本当にありがとう」
彩の言葉を聞いて、宝は大きく声を上げて泣いた。
それは母親を失って以来、彼女が初めて流した涙だった。
***
幻の家への帰り道。
苦楽の背には、泣き疲れて眠ってしまった宝。
横を歩く彩の手には、宝の手から落ちないように預かったあの青い石がある。
「宝の母親を悪だという人は多いでしょう。ただ、そう生きざるを得ない人間が多いのも現実。その石は……宝の母親に残っていた母性の欠片かもしれませんね」
苦楽は、宝を起こさぬように静かに口を開いた。
「そうですね。……そうだといいな」
「彩さんは、少し変わりましたね」
「そうですか?」
「初めにお会いした時から比べるとずっと強くなったように見えます。もちろん初めは不安が大きかったせいもあるでしょうけれど。……これから彩さんがどんな決断をするのかは分かりませんが、今のあなたが決めるのならば、どのような決断でも私は賛成します」
思いがけない言葉に驚いたが、彩は小さく笑って返した。
「ありがとうございます。あの、私も苦楽さんの決断に賛成します。幻さんを守れるのは、苦楽さんだけだと思うから」
その言葉を聞いた苦楽は、嬉しそうに笑った。
帰宅すると、伊織がぐったりして待っていた。
幻と猫に相当やり込められたようだ。
「遅い。それに苦楽までいなくなるなんて話が違うぞ」
苦楽は笑って、背負った宝を見せた。
伊織が目を丸くして口を噤む。
「すまない。こちらも色々あってね。宝は、きっともう大丈夫だと思う。彩さんのおかげだよ」
「……そうか。よかったな、彩」
「うん。でも私、何もしてないよ」
幻は目を細めて、一向に起きる様子の無い宝と彩を見比べた。
「宝に必要だった切欠を作ってくれたのは間違いなく彩だろう。ありがとう、彩」
「いいえ。……皆さんにお礼を言わなきゃいけないのは私の方です」
出会えて本当に良かったと思える人達。
苦楽が言うように自分が強く変われたとするならば、それは彼らのおかげだ。
幻、苦楽、猫、そして。
苦楽の背から宝を預かり、二階に運んでいく伊織。
その背中を見ていると、何故か彩の胸は痛んだ。
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