第二話 未知の世界
裏長屋の自分の家に近い路地から、猫に様子を探らせる。
「どうだ……誰かいるか?」
「とりあえずは見えぬな」
それを聞き、一息に部屋に駆け込んで、戸につっかえ棒を立てた。
そして漸く背負い続けた謎の女を畳に下ろすと、伊織は土間にへたり込んだ。
走り続けて息も絶え絶えといった風である。
「はぁ……死ぬかと思った」
「女子一人背負って走っただけでこの体たらくとは。やはりまだまだ修行が足りんな……と言うであろうな、幻様は」
「その名を出すなと言うに」
「その上、あの逃げ口上は無様にも程がある。呆れて言葉を失ったわ」
「そうか? 俺は結構上手くいったと思ったんだが」
「…………」
「黙るな!」
伊織のあげた声に反応したのか、横たえた女が、小さく唸りながら身動いだ。
「!! ……気づいたか?」
伊織は近寄って女の顔を覗き込む。
女の青白い瞼が何度か微かに動き、そして最後にゆっくりと開いた。
ぼんやりと天井を見つめてた瞳は、やがてのろのろと右へ、そして左へと揺れ、左脇から食い入るように見つめている伊織に気付いた。
互いの視線がぶつかり、一瞬の間が空く。
そして-。
女は悲鳴を上げて飛び起き、伊織から離れるように後ずさった。
「おっ、おい! 静かにしろよ、隣に聞こえるから」
「なっ、なんなんですかっ、誰、あなた?」
「…………」
「近寄らないで!」
「……いや、いやいや。ちょっと待て」
背後で猫が笑いを堪えているのが手に取るように分かる。
この日何度目かの溜息をついて、伊織は何とか自分を律した。
「あのな……ちょっと落ち着け、女。あんたが誰なのか聞きたいのはこっちの方だ。あのまま放っておいたら、あんたは間違いなく同心にしょっ引かれてた。こっちとしちゃ、助けてやった礼の一つも言って欲しいくらいなんだが」
「…………」
女は伊織の話を聞いているのかいないのか、辺りを見回している。
そして、何かに気付くとはっとしたように伊織を見た。
「わ、私のカバン……どこ?」
「か、ばん?……ってなんだ、猫」
「ワシに聞くな」
「鞄、私の荷物が入ってたでしょ」
「荷物って……荷袋のことか?いや、あんた以外には何も無かったぞ」
「じゃあ、スマホも」
「……は?すまこ?」
「スマホも無い……どうしよう」
女の様子が明らかに先程よりも一層動揺しているのが分かり、伊織は眉を顰めた。
猫は相変わらず土間に立ったまま無言だ。
「とりあえず名前くらい名乗ったらどうだ。最低限の礼儀だろうが」
女はしばらく目の前の二人を交互に見比べた。
そして、伊織はともかく猫を見て、人攫いの類ではないと判断したようだった。
「……彩、です」
「なんで空から落っこちてきたかは自分で分かってんのか?」
「空から落っこちてきた? ……私が?」
彩は伊織の言葉をそのまま繰り返した、意外そうに。
「私……学校から帰ろうとして……っ!」
彩が突然頭を抱えて顔を伏せた。
「おい、大丈夫か」
「頭が、痛い。……分からない……でも、帰らなくちゃ」
そう言うとふらふらと立ち上がるが、足元が覚束ない様子だ。
慌てて伊織が体を支えた。
「待てよ、そんなんじゃ無理だって。うちはどの辺だ?」
「分かんない……けど、塾に行かなきゃ……。外に出ればきっと分かる」
「仕方ないな。俺が送ってくから。猫、戸開けてくれ」
猫はおとなしくつっかえ棒を外し、戸を開けた。
彩を支えて、一気に光の射す方へ近づき、そして一歩外へ足を踏み出そうとした時。
「……え」
「わっ!」
彩の足が、戸をまたぐ寸前で突然止まった。
思わず体勢を崩しかけた伊織は、文句を言おうと彩を見たが、そのまま口を噤んだ。
明らかに震えながら戸に手をかけ、恐る恐ると言った感じで辺りを見回す彩。
伊織からすれば、目の前にもその左右にも、何の変哲もない長屋が広がっているだけだ。
もしかして、長屋にも滅多に来ないような本物のお姫さんだったりするのだろうか。
それならば、服装も言動も、自分には理解できなくても仕方ないのかもしれない。
そう考え、彩に声を掛けようとした時。
「あの……ここ、映画のセットか何か、ですか?」
「……は?」
「ここ、どこ? 東京じゃないの?」
「おい、さっきから一体何の話だ」
「ここは江戸、じゃ」
奥にいた猫が、初めて彩に向けて言葉を発した。
彩は、そして伊織も驚いたように猫を見返す。
「お主からは見知らぬ時の匂いを感じる。お主がどこから来たかは存ぜぬが、それは恐らくこの世の先であろう」
「この世の、先……」
「猫、何言ってんだお前。俺に分かるように」
「馬鹿への説明は後じゃ」
「おいっ」
「彩、お主も気づいているはず。そこから見える景色は元いた世のものとは違っておるのだろう。だが、それが真じゃ」
「江戸……って、江戸時代ってこと、なの? なんで? どうなってるの? 早く戻らないと。戻り方を教えてください!」
彩が伊織の手を押しのけて、猫に縋ろうとする。
が、一歩踏み出したところでその場にへたり込んだ。
猫は、面白そうに笑って言った。
「戻り方などワシも知らぬ。だが一つだけ言っておこう。お主の運は未だ尽きてはおらぬようじゃ。そこの馬鹿は……まあ、正真正銘の馬鹿ではあるが」
「何回言うか」
「一応、時をつなぐ、つなぎ屋などという看板を掲げているような男だからな」
猫の言葉に、彩が振り返った。
うっすらと涙の滲んだ大きな瞳が、伊織に訴えかけている。
-猫の奴、初めからこうなるって知ってたな-
伊織は猫を睨みつけたが、猫は涼しい顔でそれを受け流した。
今日最後の溜息となるように、そう祈って伊織は深い溜息をついた。
「話は聞く。でも力になれるかは分からない」




