大澤りず編③
「うーーん。うーーん」
新しいベッドに枕のせいで、私はすぐに目が覚めてしまった。
「えっ?」
体に重たさを感じる。
「嘘でしょ?」
隣のベッドで眠っていた沢村陽に何故か抱き締められている。
「ちょっ、ちょっ。ちょっと待って。離して」
腕をほどこうにもほどけない。
どうしよう。
最悪だ。
でも、抱き締められてるだけならセーフだ。
とにかく、起きてもらおう。
「沢村さん、起きてください。沢村さん」
抱き締められている手を叩きながら声をかける。
「桜川先生の本名何て言うの?」
「えっ。あの、離してもらえますか?」
「本名は何て言うの?」
「言ったら離してもらえます?」
「うん」
「大澤りずです」
「りずって可愛い名前だね」
「離してくれます?」
「いや」
「いやじゃなくて。困ります」
困りますと言いながら、私の心臓はドキドキしている。
だって、私は彼のことは嫌いではない。
いや、むしろ好きだから。
彼の歌声に救われたわけだし。
そんな彼に抱き締められているのだから、ドキドキして当たり前だ。
「りずさん、俺ね。りずさんの【香炉】って小説に救われたんだ」
「えっ?」
香炉は、私が不妊に悩み泣きながら書いた作品だ。
苦しくてもがいて産み出した作品に沢村陽が救われただなんて。
「絶望の先を抜け出して希望があるというのなら、私はいつまでこの絶望の淵をさ迷えばいいのだろう。この先に本当に希望があったとしても、今の私には星を掴むより遠く難しいのではないだろうか……」
「それは、良太郎に捨てられた美月の台詞ですね」
「そう。子供がいなくても2人で生きているだけで幸せだと思っていた美月。もちろん、良太郎も同じだと思っていた。だけど、良太郎は不倫相手に子供が出来て美月に別れを告げる。美月の絶望は海の底より深い。読んでいて、俺は美月の気持ちがよくわかった」
「沢村さん……」
「美月の孤独も絶望も痛みも。俺は全部理解できた」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「りずさんの気持ちだったんじゃない?」
「えっ?」
「香炉を読んでいたら、気づいたらずっと泣いていたんだ。まるで、誰かの実体験を読んでいると思った。あれは、りずさんの感じた気持ちでしょ?」
「沢村さん、離してください。酔いすぎですよ」
「ねぇ、教えてよ」
彼の言った通りだった。
香炉の美月は私自身を織り混ぜたもの。
夫が良太郎のように酷い存在だったらよかったのにって思って書いたのだ。
だから、希望は星を掴むよりも遠く難しいと書いた。
「言ったら離してくれますか?」
「うん」
「美月は私の分身みたいなものです」
「やっぱり、そうなんだ」
沢村さんは私をもっと強く抱き締めてくる。
「ちょっと離してください」
「りずさん。俺、嬉しかったんだ」
「嬉しい?」
「そう。俺の気持ちを代弁されているみたいで嬉しかった」
「沢村さん、離してください」
「背中を触られるのが苦手なんですよね」
「えっ?」
「前にりずさんが、雑誌のエッセイの夜言で書いてたでしょ」
「それは……」
「苦手ってことは、くすぐったくなるとかゾワゾワするとかってことでしょ?もしも、くすぐったいなら感じるかも知れないってことだよね」
「何言ってるんですか」
「試してみていい?」
彼は私の右手を掴んで背中に回す。
たぶん、暴れられないようにするため。
「りずさんの小説に出会うまで、俺は孤独だった。友達といても、彼女といても、仕事をしてても。ずっと孤独がまとわりついて。誰にも理解される日なんてこないって思ってた」
彼の言葉を手に取るように理解できる。
それは、美月として深く潜った感情だから?
それとも、私自身が感じていた気持ちだから?
わからないけれど。
彼を蹴飛ばして離してって言えるような気持ちではもうなかった。
「もし、りずさんが何も感じなかったらやめるから」
そう言って、彼は私の背中にキスをした。
くすぐったい。
くすぐったい……だけじゃなくて。
「沢村……さん」
私の手に彼のが当たる。
10歳以上も離れているおばさんなのに興奮しているの?
彼の世界にいる人は、もっと綺麗で可愛くてスタイル抜群で。
私みたいなおばさんとは違うのに……。
「りずさん」
反射的に体が反る。
それを感じていると捉えた彼は、さらに背中にキスをした。
「ぁっ……」
小さく声が漏れてしまった。
それが聞こえたのか彼は、私の右手に自分のものを握らせた。
「沢村さん」
「陽って呼んで」
「陽……これ以上は駄目だよ」
「駄目じゃない」
彼の右手が私の下半身に触れる。
「りずさん、もっとして欲しいって体は言ってるよ」
「陽……だめ……」
夫に申し訳ない気持ちを抱えながら、私は沢村陽を受け入れてしまった。
「りずさん」
「今日のことは、もう忘れましょう」
「忘れない。嫌だよ」
「でも、もう会わないから」
「会わないことなんてない。時間を作って、俺が行く。りずさんが、こっちに来る時は連絡してくれたら会いに行くから」
「シャワー浴びてくる」
ただの火遊びだと思った私は、これ以上彼の話を聞かなかった。
シャワーを浴びながら、「ごめんなさい」と夫に何度も謝っていた。
信頼して送り出してくれたのに、まさか裏切るなんて。
母親になったのに、私は最低だ。
シャワーから上がると沢村陽は、窓側のベッドで眠っていた。
顔を覗き込むとさっきと違って、少し微笑んでいる。
彼の中にある闇が1つでも晴れたのだろうか?
冷蔵庫から水を取り出して飲む。
さっき脱いだパジャマは着れないから、新しいパジャマに着替える。
芸能人は孤独な職業だと聞くけれど、彼の言葉を聞いて本当にそうなんだと思った。
さっきので疲れた私はベッドに横になるとすぐに眠る。
ピピピピ
スマホのアラームを止める。
あのあと、彼がベッドに入ってきてなくてホッとした。
窓側を見ると彼はまだ眠っている。
私は起き上がって洗面所に向かう。
歯磨きをしながら、昨日のは夢だと言い聞かせようとしたけれど。
床に落ちてある2枚のタオルが真実だと告げていた。
最悪だ。
私は、やはり夫を裏切った。
歯を磨き終わってから、冷蔵庫にある水を取り出す。
朝は基本的に白湯を飲みたいけれど、備え付けのポットは嫌だ。
服を着替えて、コンビニでも行こうかな。
うん。そうしよう。
少しだけ温くなった水を飲んでから、服を着替えた。
財布付きポシェットを下げて、スマホを持つ。
部屋から出て、エレベーターを待っている間にメッセージを読んだ。
【今日も1日頑張ってね!俺も友里亜も頑張ってくるから】
ごめんなさい。
夫のメッセージを見て涙が込み上げてくる。
私は、なんて愚かなことをしたのだろう。
込み上げてくる涙を抑えられない。
エレベーターが開いて、乗り込むと涙が見えないように下を向いた。
【ありがとう。頑張るね】と打つ文字が震える。
私は、最低だ。
だけど、彼の言葉を聞いて拒むことは出来なかった。
あの闇は、根深い。
誰といても何をしていても、飲み込まれていく。
その闇をあの人気者が抱えていたなんて。
きっと誰も知らないだろう。
ホテルから5分ほど歩いた場所にあるコンビニで、適当に朝ご飯を買う。
本当は、朝食ビュッフェが食べたかったんだけど。
さすがに、有名人の彼を連れていくわけにはいかない。
適当に買ってからホテルに戻る。
11時には迎えに来てくれるなら、もう2度と会わない。
夫や娘を裏切ることは絶対にしない。
だから……。




