記帳されない署名
事件の後、世界は少しだけ不便になった。
中央台帳の演算速度は落ち、
理由不明の通信エラーが、静かにネットワークを走る。
完璧だったはずの同期は、もうどこにもない。
その代わりに。
人々は、以前よりも長く、互いの顔を見るようになった。
言葉にする前の、わずかな揺らぎ。
確かめるような、視線。
そこに何があるのかを、誰も定義しないまま。
地球ノードの片隅。
リナは、古い機械式時計の竜頭を回す。
カチ、カチ、カチ……。
指先に伝わる小さな抵抗。
少しだけ不規則なリズム。
台帳には記されない。
ハッシュにも変換されない。
ただ、一人の観測の中にだけ残り続けるもの。
「サク、聞こえる?」
返事はない。
それでも、リナは空を見上げる。
無数の星が、瞬いている。
変わらないはずの光が、どこか違って見える。
「……ねえ」
小さく、息を吐く。
「悪くないでしょう?」
微笑みは、誰にも証明されない。
その視線の先。
虚空に、ありえないはずの揺らぎが生まれる。
それが何かを、誰も定義しない。
ただ——
そこに、ある。
止まっていた時計の針が、動き出す。
不確かなリズムで、今を刻む。
リナは、その音に耳を澄ませる。
確かめるように。
見失わないように。
ずっと。
(完)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
『不変の残り香 -Last Memory-』、これにて完結です。
ゼノが求めた「完璧な正解」と、リナが選んだ「焦げたトーストのような間違い」。
皆さんの目には、どちらが美しく映ったでしょうか。
数値化できないもの、効率化の波に消えてしまうもの。そんな「0.0...01」の誤差の中にこそ、私たちが生きる意味があるのではないか。そんな思いを込めて、リナとサクの物語を書き終えました。
彼らの物語はここで一度幕を閉じますが、この世界のどこかで、今も不規則な時計の音が響いていることを願っています。
これまでの応援、本当に、本当にありがとうございました。




