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大奥~牡丹の綻び~  作者: 翔子
9/16

第九章 姉と妹

 春だというのに、照り付く陽の光が登城する人々の目を眩ませた。薄らと額に汗がかかり、襦袢の袖で拭うのも煩わしかった。知人の()()を頼り前日から江戸入りを果たした。


 二日ほど前、東海道の宿から大奥当てに文を出した。返事が届いたのは昨日、知人の家でだった。急ぎ開けると、登城を許可する旨が書かれていた。許可状を携えているのに身構える必要は本来無いのだが、何せ、因縁ある()()()()()がいる城の中に入るのはどうしても気が引けたのだった。


 御広敷と呼ばれる場所に到着すると、まず驚いた。男の役人が剛健な眼差しでこちらを睨み付けて来るのだ。身分を明かすようにと言われたので、許可状を渡すと、男の役人は少し上がった段縁に座る女中に手渡した。美しい織りの打掛を着た女中だった。名は聞き取れなかったが、雅な響きだったように記憶している。


 許可状に記された名を目にした瞬間、女中が表情を変えて平伏したのには小気味よかった。

 すっと華麗に立ち上がった女中は、小さな錠が掛けられた扉の前まで行き、鍵を開けさせた。鋭い眼光の女が錠を開け、扉を通ると、そこは女だけの世界になった。

 伽羅や白檀の香りが辺りを包み、別の世界に迷い込んだようだった。多少気分が悪くなりそうだったが、ここは平常を保たねばならない。


 ここで失敗しては後が無いからだ。


 長い廊下を通って、()()()()()に見つかったりしないか警戒しながら、何とか目的の人物と相対する事が出来た。


 広いその部屋は、殺風景ではあったが己が住んでいた屋敷に比べれば豪華であった。名画が描かれた屏風や、藤の色をした几帳、そして、鯉の滝登りを描いた掛け軸に、違い棚に飾られた調度品や細工物、どれもこれも素晴らしいものだと、余り詳しくない自分が見ても分かった。


 (にび)色に唐草が描かれた打掛に合着は黄蘗色(きはだいろ)。この人の名は、東崎(とうさき)──大奥を統括する総取締だ。髪に白いものが目立っていたが、威厳というものが入室と同時に備えられていて、身体が無駄に強張るのを感じた。


「鷹司正子殿……御台様と万里小路殿の姉君様でございますね」


 差し出した許可状と共に添えた身上書に目を通しながら、東崎が訝しげに睨め付けて来た。邪心を込めて睨み返すこともせず、ただ両手を付いて「はい」とだけ応えた。


「先日届いた文では、御台様に御目文字したいとのことでございますが、その理由は明記されておりませんでした……お聞かせいただけますか」


「ふと江戸に立ち寄ったので、せっかくと思い、妹たちに会いに伺ったまでのこと。大した理由などございませぬ」


「嘘ですな」


 核心を突く言葉に思わず顔を上げた。脇息に身体を預けながら東崎は続けた、


「”せっかく”にしては、品川宿からの急ぎの文とはなんとも不可思議なことでございますなぁ。江戸へお立ち寄りとのことですが、それなれば都から文をこちらへ寄越せばよろしい話。無理な嘘をお付き遊ばすのは得策ではございませぬよ」


 大奥とは、ただの守銭奴で金喰い虫だと思っていたが、飛んだ勘違いだった。理詰めで人を脅し落とし、自分の身に満足感を与えるための強い()というものがひしひしと伝わった。

 東崎は身上書を引っ掴み、畳み始めた、


「そもそも、御台様の御身内は何人(なんびと)たりとも入れることは叶わぬしきたりにございます。たとえ鷹司家で不幸があられようと」


 含みある言い方であった。


「御台様はご存じないのでございますか。父が……()()()()()ことを」


「いいえ。それと、貴女様が九条家へ養女に入られた事も御台様は存じませぬ。鷹司卿については間もなく、大御台様の知るところになりましょうなぁ」

 

 ならば好都合だ。まさか自身の姉が江戸城にいることなど気付くはずはない。


「東崎殿!」


「なんです、いきなり」


 急に大きな声を出して、東崎は目を瞬いた。人間らしい一面があるのだと一瞬思った。


「私を大奥に入れてくださりませ」


 畳に額を付けたのは人生で二度目だ。

 イ草の匂いがツンと鼻腔に届いた。新しく張り替えている証拠だ。なんという贅沢さであろうか。女中の楽し気な声が部屋の外からするだけで静かになった。東崎の視線と呆れ返っているであろう表情が頭越しでも感じる。そして読み通り、冷たい反応が返って来た、


「わざわざ遠路はるばる江戸へと渡られたのです、よほどのご覚悟とお見受け致しまする。ですが生憎、上臈御年寄の空きはございませぬ。ただでさえ、大奥の女中たちは増える一方なのです。貴女様を受け入れる余地も予算も残されておられぬのです」


「それでも構いませぬ」顔を上げた。東崎はこちらを冷たく見つめているが、気にせず続けた。「私にはもはや何処へも行く当てなどございませぬ。当主を亡くした鷹司を出て、母の実家である九条家へ養女となり身を寄せましたが、江戸の言葉を独学で学び、この千代田の御城まで参ったのでございまする。給与や高い身分など私には不釣り合いにございます。いつか、妹たちと目文字が叶うその時まで、誠心誠意勤めさせていただきまする……お願い申し上げまする」



 一年が経った。


 半ば急き立てるように東崎に雇い願いをした末、部屋方として出仕することが許された。


 部屋方には、〈(つぼね)〉、〈合之間(あいのま)〉、多聞(たもん)、そして小僧がいる。


 その中で、多聞という炊事洗濯を担当する役に任じられ、名も改めた。当初は承服しかねたが、この際致し方ない。”おらく”という、過去、将軍の側室に多く見られる由緒ある名を頂戴した。良い運を得たと考えを変えた。


 初対面で剣幕を繰り広げた東崎のことを〈旦那〉として扱い、コツコツと仕事を全うした。

 十一年間、二条家で過酷を強いられて来た経験が功を奏し、東崎に満足の行く食事を提供し、寝間着の糊付けも先に仕えていた他の多門たちより上手だと初めて褒められた。不覚にも喜んでしまったが、なんとか表情に出さないように堪えた。


 八人いる先人の部屋方からは、足を踏まれたり、着物を隠されたり、寝込みを襲われたりというくだらない苛めを受けたが、目的のためならばそんなのはお構いなしだった。今では懐柔し、皆それぞれ逆らうことが出来ないほどまでに服従させることに成功した。


 つい二月(ふたつき)前、すべての働きを認められ、(つぼね)という部屋の統括係に昇格することが出来た。

 

 部屋方は勤めの座敷以外を動き回ることが許されていなかったが、局は特別だった。長局一之側棟に限って移動することが出来るのだ。思い切って、東崎の出仕中、入側を練り歩いた。妹の佐登子の部屋を探してみたりもしたが残念ながら見つけることは出来ず、他の部屋方に出くわして会釈を交わすくらいで代わり映えのあることは起きなかった。

  

 収穫も無く、気を揉みながら持ち場へ戻ろうと引き返すと、声をかけられた、


「あ、おらく殿!」


 深緑の木綿を着た女中がこちらへ駆け寄って来た。この女中は確か、昨年の秋に東崎の部屋へ宿下がりの挨拶に訪れた御末だ。ふとしたきっかけで、顔見知りとなったが名は忘れた。御目見得以下の名を知った所で無駄だからだ。


「何用でございまするか」

 

 さもこれから用事があるかのようににべもなく応えると、額に汗を浮かべた御末が力強く手を握って来た。ジトッと湿っており振り払いたかったが耐えた。


「すみませんが、湯殿番を任されてはくだされぬか?」


 湯殿番とは、貴人の背中を流す御役で、御末が務める仕事だ。しかし、そんな役を任される筋合いはない。


「湯殿番? 何故私が。私は東崎殿の部屋方で──」


「そこをなんとかお願いいたします!」


 御末は如何にも言いにくそうに片目を上目にして言った。


「実は……ほとんどの当番の御末が、豊姫様、敏姫(すみひめ)様のご婚礼の支度で、御道具の運搬係をしに出払っておりましてなぁ──」


 豊姫、敏姫……藤子の娘たちだ。その下に順姫(あやひめ)と三人の娘の上に竹千代がいる。自分にとっては姪と甥だ。複雑な思いに駆られたが、平静を装った。御末はつらつらと喋り続けていて、途中聞き取れなかった、


「──あたしは湯ノ木組みの任を仰せつかっておりまする故、おらく殿の他に頼める者もおらぬのです……。どうか! 礼は弾みまする故、お願い申し上げます!」


 つまるところ、良いところに自分が出くわしたということであろう。頭を深々と不格好に下げる御末の乱れた髪を見下ろし、溜息を一つ吐いた。


「お相手はどなたなのでございまするか。それ次第で力になるか否かを判断致しまする」


 勢いよく顔を上げた御末は神妙な面持ちになった、


「公方様でございます」


「参りましょう」

 

 即答した。


 湯殿へ向かいながら、御末は事情を説明してくれた。どうやら先ほど、公方様──徳川家正が乗馬の訓練に勤しんでおり、その汗を流そうとわざわざ大奥へ足を運んだのだという。


 突然のことだったので、表使も将軍付き御年寄も慌てふためき、急遽、御末に湯殿番を命じて今に至る。東崎はちょうど、老中たちと寄合に御広敷の御座所に出向いていてこの事を後で報告する手筈らしい。厳しい旦那のことだ、あとで公方様に一つや二つ小言を告げるに違いあるまい。



 大奥の御湯殿は中奥にほど近い場所に設けられている。着替えと髪を解き、番士の監視の下、先ほどの御末と共に御湯殿の入り口で将軍の御成りを待った。ほどなくして小姓の号令と共に家正が湯殿に入った。顔を上げないようにしながら。後を付いて行った。湯けむりが立ち込める中、早速作業に取り掛かった。


 糠袋を手に持って、将軍の手、背中、腹、足を一か所に一袋ずつ使い、洗い終わると捨てた。殿方の身体──特に家正は体格が大きく、思った以上に力が必要で、洗っている内に息が弾んだ。声を抑えようにもそれは人間の性、洩れ出てしまった。


 最後に、顔を洗おうと正面に跪くと、家正の口から「あっ」と驚いたような声が漏れ出た。


「み、御台!? こんなところで何をしておる?」


 思わず目を合わせてしまった。どうやら家正は私のことを藤子だと勘違いしておられるようだ。


 都で妹と住んでいた頃は、似ているなどと微塵も思った事はないが、他人の目からすれば似ているのであろう。私は糠袋を放り投げ、両手を付いて弁明した、


「公方様! 私は……御台様ではござりませぬ」


「声も似ておる……。そちは……何者だ?」


 声まで似ているとは予想外だった。思いもよらないことを言われ顔中が熱くなった。殿内に立ち込める湯気の所為なのかどうかすらも判断できなくなっていた。


「私は、御台様──藤子の姉、正子と申しまする……」


 真の名を名乗り、頭を下げた拍子に襦袢の衿元がはだけ、胸が露わになった。すかさず隠すも急に目の前が真っ暗になった。

 気付けば、家正の胸に抱かれていた。振り払おうと藻掻いたが力が強く、無駄な抵抗をするなとでも言うように両手の自由を奪われてしまった。押し倒され、首筋に温かい息が掛かるのを感じた。


「公方様……!く、くぼうさまぁ……お止めくだされっ……」


「黙れ……」


 そう耳元で囁くと、自身の帯を解いて口を塞がれた。


 そしてそのまま、私は犯された。


 亡くなった夫とは営みなどなかった。三十六の歳にして操を妹の夫に奉げたことになる。しかし、それでも構わない……。この大奥に来た目的、それが成就したのだから。


────────────────────


 同じ頃、新御殿では二人の娘の輿入れの準備を、御台所自らが執り行っていた。


 ことは安治十一年(1917)二月、十三歳になった豊姫と十二歳になった敏姫(すみひめ)に、縁談の話を家正が持ち込んだ。娘を送り出す瞬間は覚悟はしていたが、いざ()()()が舞い込むと身の一部が剥ぎ取られそうな気分になった。


 数多くの大名家の内、老中たちと討議を重ねた結果、豊姫は松平家へ。敏姫は上杉家へと嫁ぐことが決まった。


 将軍家の姫君の婚礼は、諸大名家へ権威を示す大きな役割を担っており、嫁ぎ先の家に忠誠を誓わせるためのいわば政略結婚である。松平家はもとより上杉家は外様である。藤子は不安に思ったが、娘たちには不自由なく婚家で過ごせるよう、細心の注意を払いながら、婚礼道具を手配した。


 数百着に及ぶ打掛と小袖の生地見本を呉服之間頭の絹張と談義を交わしていると、泰子(ひろこ)が新御殿を訪ねて来た。その表情は強張っており、鬼気迫るものを感じた。どうしたのかと訊ねると、絹張たちを人払いさせ龍岡だけを残した。


 そして、藤子は鷹司家の悲劇を知った。


「おもうさんが……亡くなった?」


 泰子は震える手で、とある文を差し出した。

 封書には近衛家の家紋が描かれている。中を開いて読むと、間違いなく鷹司周煕が借金苦で五年前にすでに亡くなっており、鷹司邸は朝廷に返納され、もぬけの殻の状態であると書かれていた。五摂家が四摂家になるのではないかという、悔しさと焦りが文から伝わった。


 しかし肝心なことが書かれていなかった。母と姉の所在が記されていなかった。藤子が泰子に訊ねると、


「北の御方(おんかた)はご実家の九条家へ戻られたとのことじゃ。姉君の正子さんは、昨年の年明けから行方が分からぬらしい」


「行方が? 姉は二条家へ嫁いだと聞きました……二条家においでなのでは?」


 泰子は首を振った。


「お相手の二条定兼さんも五年前にすでに身罷れておられる。それと同時に離縁させられ、ご実家へ戻られた折に鷹司さんの死を知ったのやそうや」


「何故……今日まで教えて下されなんだのですか!? 祖母の時もそうじゃ、将軍家の正妻だからという理由で、身内の死を聞かされぬとは……」


「御台、耐えるんや……! 幕府いうんはそういうものなのや」


 藤子の手を取って泰子は諭した。泰子自身、同じ経験をしていたこともあり同情していた。幕府のやり方には甚だうんざりしていたが、追求するつもりはなかったのだった。

 しかし、藤子はそう容易い考えを持てなかった。


 母が無事であることについては安堵したが、姉の消息不明の報せにいささか不安が押し寄せ、輿入れの準備に時間が掛かってしまっていた。



「御渡り? 上様が」


 その日の夕刻、準備が終わり御休息之間でくつろいでいると、松岡から家正の御渡りがあることが告げられた。父の死と姉の所在に不安が募り、一人で寝に入りたいと思っていたが、久方ぶりに夫の胸に縋りたいと考え、受け入れた。


 とうの家正は、湯殿での出来事で罪悪感に苛まれていた。妻を裏切ったという事実と、妻の実姉に手を出してしまったことへの背徳感に呑み込まれそうになり、御台所を閨房(けいぼう)に呼んだのだ。

 

 三女の順姫(あやひめ)を産んで以来、およそ十年ぶりの夜伽であった。二人は御寝することはあっても、それは夫婦としてではなく家族としての御寝であった。しかし、今宵の将軍と御台所は熱い夜を迎えた。三十路を渡る(おなご)でありながら、藤子は以前より体格が素晴らしくなった夫の身体付きに燃え上がってしまっていた。


────────────────────


「月の物がない?」

 

 ある夜の事、勤めを終えた東崎が部屋へ戻ると、おらくは二人きりで話がしたいと言って他の同僚たちを下がらせた。そして、月の物が出ないことを告げると眉をひそめた、


「お匙には見てもろうたのか」


 東崎の不安な問いに応えるでもなく、おらくは途端に押し黙った。ちらとこちらを窺うその表情を見て、東崎ははっとした。一五〇〇人余いるこの大奥で総取締を務める東崎には、一瞬の表情や声色の変化を敏感に捉えることが出来た。


「どこの誰じゃ? 添番(そえばん)か、五菜(ごさい)か!?」

 

 下男を引き合いに出されたが、おらくは首を振る、


「いずれの者でもありませぬ……十七代将軍、公方様にございます」


 家正の名を示した時、恭しく頭を下げたおらくは事の次第をすべて打ち明けた。誰にも言うな──そう家正に口止めされていたが、とうに三月(みつき)は経過していた。

 おらくの告白を受けた東崎は息を呑んだあと予想通り、烈火の如く怒った、


「情を通じたと……? いったい何ゆえ湯殿番などに! そなたは部屋子ぞ? 私の許しなく然様なことを……」


 俄かに立ち上がって辺りを行ったり来たりしていた。その混乱様に、おらくは笑いそうになるのを必死に堪えた。つい先ほどまで毅然としていたのが嘘のようにたじろいでいる。正子にはその姿が滑稽に映った。


「この事が表方に漏れでもしたら私はどうなる? 咎を免れることなどできまい!」


 ご公儀と天下に触れ回ってしまう事もさりながら、行方不明と言われている御台所の姉を一年間匿い、部屋方にしていたことが御台所に知られれば、罪を免れる事はまず無理であろう。将軍からも見放されるに決まっている。


 東崎は当初、正子の存在を隠し続け、折を見て自身の拝領屋敷に退がらせようと考えていた。その思惑は虚しくも崩れ去った。

 将軍の子を授かった。これを公表せずにいられるわけがない。事の重大さに身の毛がよだった東崎だった。


「そなた……私に恨みでもあるのか?」


 よもや、初めて相対した日をこの一年間根に持っていたというのか? 続けて東崎がそう言うと、正子はとうとう笑いを堪えることが出来なくなった。


「とんでもないことでございまする。旦那様を裏切るなど以ての外──」


「黙りゃ!! またもや私を(たばか)ったな。よもや、側室になり、権威を(ほしいまま)にしたいと思うたのであろう!」


「お察しのよろしいことで」正子は唇の端を上げた。東崎は細い目を丸くした。「しかし、多少見当違いをしておられまする」


「なんじゃと?」


「私は鷹司家再興のため、公方様の御種を拝借致しました。ご案じなさいますな、東崎殿の地位が危ぶまれぬよう、公方様に申し述べておきましょう。何の、容易い事にございます」


 自信ありげに微笑む正子に東崎は力なく脇息に寄りかかった。それ以上二の句を告げる気力が無くなったのであろう。正子は両手を付いた、


「妹に御目文字させてくださりませ。事の子細を東崎殿ではなく、公方様でもなく、この私の口から申し上げまする。そのためには、私を部屋方から御中臈に御役替えさせてくださりませ。公方様も私をお抱きなられたうえは、捨て置くなどということはせぬはずにございます」


 その瞳は力強く、人生を投げ打つ覚悟を持った人間の目だった。

 

────────────────────


 翌日、東崎は松岡に命じて、御台所に御対面所へ赴くようにと伝言を託した。姉君のことについて分かったことがあると真実に近い旨を告げて。


 しばらくして、御上段に続く廊下から駆けてくる足音がし、御台所が小袖姿で現れた。本日も姫君の婚礼の準備に勤しんでおり、御用商人たちと装飾品の類についての会合を途中で退散して来たのだろう。よほど焦って来たのか、息を弾ませていた。

 御下段まで降りて座し、東崎を見つめた、


「東崎! 姉の行方が掴めたと聞いたが、真の話か?」


 昂る気持ちが声色に出ている。藤子に対し東崎は心苦しく思った。そして重い口を強引に開いて語った、


「姉君である正子様は昨年の春よりこの江戸へ参られました。縁あって私の元へ頼り、我が部屋方として雇い入れました。そして……──開けよ」


 外に控える御中臈に声をかけると、障子が勢いよく開かれた。

 東崎に疑問を呈したかったが、急き立てるように圧され、顔を反射的に上げた。染めの打掛に身を包んで平伏している女中が入側に控えていた。訝しげに眺めていると、ゆっくりと身体を上げその顔が露わになった。心臓が飛び上がった。


「おねえさん……!」きりっとした目元、真っ直ぐに結ばれた口許。間違いなく姉の正子だ。「よくぞ、よくぞご無事で」


 膝を突き合わせるように駆け寄り、手を取った。正子は力なく笑ったあと、一歩後退り、再び両手を付いてゆっくりと身体を折った。藤子は訳が分からぬと言いたげに見下ろした、


「御台様におかれましては御機嫌麗しゅう存じ奉りまする。この度は、姫君の婚礼の御支度に御自ら執り行われているとのこと、真に御心労のほどはいかばかりかはさりとて、至極目出度く存じ奉りまする」


「おねえさん?」


「本日まかり越しましたるは、私が今、御台様の御前にこうして座していることへの御詫びと申し開きをするためにございます……」


 流暢な江戸言葉で、正子は藤子に事の仔細を打ち明けた。


 九条家を家出し、知人を頼って一年前に江戸へ参ったこと。東崎の部屋方として勤め上げたのちに通りかかった御末に呼び止められて湯殿番として家正の背中を流したこと。そして……、


「誠に恐れ多いことながら、湯殿にて公方様が私めと御台様を御人違い遊ばされ……手籠めにされました」


「え……?」


 一瞬これは夢かと疑った。目の前にいる姉は夢枕に立った何者かで、この話は己が作り上げた偽りだと。しかし、下段にいる東崎に顔を向けると目を伏せられた。初めて見るその顔を夢で見ることが出来るだろうか。現実であると悟った。


 家正が裏切った。


 側室のお由利の方とは、あれ以来夜伽に呼ばず、御台所である私を呼び続けてくれた。親身に愛し、慈しんでくれていると思っていたが、他の(おなご)の身体を求めていたということなのだ。よりにもよって相手は実の姉……。人倫にもとる行いに、悪寒が走った。


 藤子は、祖母の死を幕府からひと月の間もひた隠しにされた事を思い出した。父の死、姉の所在を己の知らぬところで蠢いていた。今日まで徳川家に尽くして来た我が身が愚かに思えた。人の浅ましさ、業の深さを再三恨んだ。


 姉はどこかで野垂れ死にしているかもしれない。途方に暮れ、見知らぬ者に拾われたかもしれぬと、不安で眠れない夜が続いていた。このような形で打ち明けられ、気付けば藤子は東崎の頬を叩いた。身を崩した東崎は畳に手を付いて伸びた。すぐさま体勢を立て直して額を畳に打ち付けた。そして、ただひたすら御台所に向かってブツブツと詫びを述べている。


 震える右手を押さえながら涙が頬を伝ってくる。藤子は必死に見せまいとして天井を仰いだ。


「御台様……? ……藤子?」


「み……だい……」


 ややくぐもった声になり、聞き取りずらかった。藤子は再度はっきりと、しかし涙声で正子を睨み付けながら言った、


「私のことは御台様と呼べ。其方は……もはや血の繋がる姉では無い。所詮そちは私の下に着く身分じゃ……。側室になることは認めよう、されど、上様の御子を身籠ろうとも……私は認めるわけには参らぬ!」


 踵を返し、藤子は御対面所を去って行った。


 異様な空気と、ひたすら謝り続ける東崎の声だけが辺りに響いた。

 

 妹のあの様な表情を初めて見た。親の仇を見るようなあの目つき、子供の時とは違う泣き方だった。しかし、正子はこれで良いのだと気を落ち着かせた。

 鷹司家を護る為には未だ成熟していない腹に宿いし子を公家の次期跡継ぎにする事が肝要なのだ。妹から絶縁宣言に似た言葉を吐き捨てられようと、実家を失くすわけには参らぬのだった……。


 その後、正子は部屋方としての名である()()()をお楽の方と改め、家正の側室となった。この事を知った龍岡と万里小路は驚きと共に失望した。



────────────────────


大奥・吹上ノ茶屋 ───────


「ねえ、姉上様?」


「なんじゃ? 於敏(おすみ)


 茶筅を振りながら、豊姫は妹をちらと見た。菓子を載せていた丸高坏がいつの間にか空になっていて目を見張った。敏姫の口許に目を移すと歯に詰まった菓子片を必死に舌で取ろうとしており、呆れて物も言えなかった。


 この頃、姫たちは茶の湯の稽古を自発的に行っていた。母が娘のために輿入れの準備に必死になっており、また、()()()()もあって指南をしてもらうに忍びなかったのだ。


「近頃の母上様と父上様、機嫌悪うございませんこと?」


「於敏、そちは知らぬのか?」


 茶筅を止めて豊姫は顔を上げた。妹はひどく世情に疎い。この女だらけの大奥でこんなにも呑気に暮らせるなんて逆に羨ましいほどだ。菓子器の残っていた餅菓子を一口で頬張りながら、敏姫は肩をすくめた、豊姫は思わず笑ってしまったがすぐに取り繕った、


「伯母上様が、父上様の側室になられたのじゃ」


 咳払いをし、再び茶碗に視線を落として茶筅を振った。


「え、お万里が?」


「っ……違う!!」


 つい大きな声を出してしまい、誰もいない事を確認したあと、声を潜めて説明した。


「お万里のもう一つ上の姉上様じゃ……。噂ではのう、御湯殿で父上様の手が付いたらしいのじゃ」


 敏姫は、母にもう一人姉が居る事を知らなかった。そのため、自分達の()()といえば万里小路だけだと思っていたのだ。

 茶碗を妹の前に置いた後、女中たちで話し合っていた噂話を伝えた。人の口に戸は立てられぬもの。噂は回りまわって姫付きの女中たちにまで達し、歓談している所を豊姫は盗み聞いたのだ。


「あぁ~! 姉上様! ま~た、盗み聞きなさったのですね?」


「あやつらが悪いのじゃ。せめて私らが眠ってから自室で話せば良いのじゃ」


 敏姫は作法の手順に沿いながら茶碗を口に運んだ。豊姫はこの瞬間が好きであった。茶の出来はどうだろうかと期待して待つこの瞬間と、外から聞こえる鳥のさえずり、池の流れる音、そして室内に響くこの静けさが。


「結構なお点前にございます」


 茶を飲み干し、茶碗を柄前で置きながら両手を付いて敏姫は述べた。


「どうであった?」


 茶碗を受け取りながら妹に感想を求めた。


「ん~、もう少し濃くてもよろしいかと思いますわ! 母上様も濃茶でありましたでしょう?」


「そうか、まだ足りぬか……母上の様に抹茶を多く入れたつもりだがのう……」


「さりながら濃くも無く薄くも無い。菓子の甘さが消える程でございます故、きっと未来のお殿様に好まれましょう!」


 励ますでも褒めるでもない相変わらずの妹に、豊姫は思わず笑みが零れた。


 子供の時分は煩わしく思っていたが、今では、妹たちは互いを慕い、敬い合っていた。これから先、離れ離れになってしまう運命だと知っているからこそ、姫たちは一緒にいる日々を多くした。ふと、茶屋の隅を見やると、順姫は壁にもたれて眠っている。


 いがみ争い、綻びが生じる姉と妹と、仲睦まじく稽古し合う姉と妹。人の人生とはこうも違うものなのであろうか……。


 安治十一年 (1917)十月、藤子の腹に子が宿った。



つづく



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