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大奥~牡丹の綻び~  作者: 翔子
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第十章 お家を守る為

「まさか、私も身籠ることになろうとはのう」


 今しがた奥医師が去った御休息之間で、龍岡と万里小路が傍に侍る中、藤子がふと呟いた。


 豊姫と敏姫の嫁入り道具を調達し終え、あとは輿入れの日を待つだけとなり安堵しかけた頃、俄かに体調を崩した。その感覚に覚えがあった藤子は、不安の中、奥医師の診察を受けた後、身籠ったことを知ったのだ。安治十一年 (1917)十月の事。三月(みつき)になるという。


「どないするつもりえ? 姉上……いや、お楽の方と時を同じくして身籠るなど……」


「女中たちが噂しておりましたえ。宮さんと一之宮さんは姉妹揃うて公方さんに取り入ってはると」


「なんやて!? そないなこと、あるわけがないやないか!」


「わてが注意しようと廊下に出ましたら、恐れをなしてそそくさと去って行きましたわ。近頃は足が痛うて痛うて早く歩くことが叶わしません」


 足を摩りながら龍岡は眉を八の字に曲げた。関係のない話に飛んで万里小路は当てようのない怒りを必死に抑え込んだ。


 藤子は憤慨する姉をよそに、龍岡を気に掛けた。思えば、総触れへ出向く折、女中の誰よりも歩くのが遅くなっていた。勇み足で新御殿を出ても結局逆戻りすることがほとんどだった。そろそろ引退させようかと考えていた矢先にこの懐妊だ。

 

 次に万里小路の顔を見ると、しかめっ面で庭の方を見るともなく見ている。膝の上を見てみれば打掛の衿を握り締めていた。次姉は長姉のした所業を許せないでいるのだ。総触れで姉と対峙しても、決して目を合わそうとしなかった。万里小路の気持ちは痛いほどよく分かる。藤子自身も姉を許すことはできなかった。


「如何するつもりや?」


「はい?」


 急に問われて、藤子は思わず訊き返した。


「お匙さんから貰うたやろ。月流しの……」


 言葉を濁す姉を見て、藤子はあっと声を洩らし、枕元にある小さな薬箱を引き寄せた。医師が置いて行ったものだ。蓋を開けると、中には朱色の薬包── 子を流す、月流しの薬が入っており、手に取った。歳を気遣ってか、また面目を保つため、医師が処方したのだ。


 御台所付きの女中たちは、藤子が身籠ったことを知ると、めでたい気分にはなれず敬遠して距離を置くようになった。松岡でさえも、近頃よそよそしくなった。御褥(おしとね)すべりの歳を過ぎた三十四にして身籠るというのは大奥とって異例のことである故だ。


 しかし、藤子は手に取った月流しの薬を薬箱に戻し、万里小路に押し付けた。


「せっかく授かった命です。流す事はしません。そないなことをすれば腹の子が哀れや……このまま産みます」


 自身の腹を愛おしそうに撫でた妹を見て、万里小路はその覚悟と心意気に感心した。考えてもみれば。身勝手な都合で尊い命を殺めることなど、藤子には出来ないのは分かり切っていたはずだ。万里小路は己の浅ましさを恥じた。


 そして、安治十二年(1918) 五月二十日。


 御台所とお楽の方は、姉妹同時に元気な若君を出産した。

 

 藤子の子は徳松、そしてお楽の子は鶴松と名付けられた。


────────────────────


 御台所と側室の出産から間もなくのこと。中奥の将軍御座所で小さな騒ぎが起きていた。


 老中首座、阿部伊勢守正保あべいせのかみまさやすが唾を飛ばす勢いで将軍に異議を申し立てていた、


「罷り成らぬことでございまする! 諸大名家ならまだしも、公家との関係劣悪の今、徳川将軍家の御子息君を公家へ御養子に出されるなど、先例のない事に存じます!」


 家正はお楽の方の宿願である、腹の子を鷹司家へ養子縁組をするという聞き届けを、幕府に正式に認めさせるよう説得した。がしかし、公家を毛嫌いしている伊勢守がそう容易く首を縦に振るわけがなかった。間違った相手を首座にしたと、家正は少しばかり後悔した。


「畏れながら、公方様は何かと(おなご)の願いを御聞き入れ過ぎる所がございまする! 御台様による竹千代君の守役・乳母の廃止。そして此度は御側室様の和子(わこ)様を鷹司家へ養子縁組なさるなど……目に余るものがございまする。願いを御聞き遊ばしても、決してそれを汲み取ることなく、抑えて頂きとうございます!」


 家正は反論しようと口を開きかけたが、伊勢守は突っかかった、


「それだけではございませぬ! 増大する大奥の女衆(おなごしゅう)の数を減らすどころかむしろ増大。長局の増築、そして合力金の増額、吹上の祝宴に掛かる費用……もはや幕府の予算は火の車にござい──」


「正保!!」家正が急に語気を強めた。なんとか抑え込もうとしていた怒りを止められなかったのだ。伊勢守は、初めて見る将軍の声色の変化に口を噤んだ。「わしに盾突くつもりであるなら、その方を罷免することが出来ることを忘れるでないぞ!」


 脅したくはなかったがそれしか方法がなかった。家正は続けた、 


「将軍は所詮、お飾りのような物じゃ……其方(そち)たち老中らが定めた事に目を通すだけの日々にはもう飽いたのじゃ。其方(そち)らの方針や案件を受け入れてあげてるにも関わらず、わしの頼みは聞けぬと申すのか!?」


 涙混じりに家正は、将軍としての在り方、権威の意味を訴えた。しかし──、


「公方様、私情を挟まないでくださりませ」


「私情じゃと?」


「大奥での諸事万端は公方様の御偉才で片を御付けくださりませ。(それがし)らは大奥について一切関与せぬと大御所様の時代より定めましてございます」伊勢守は露骨に顔をしかめ、両手を付いた。「この話はこれまでとしましょう。御伺い致しました内容は某のみが知ることとし、公方様の御一存にて、御果たし下されますよう……」

  

 二百数十年の間、表向が奥に対して口を挟み、改革を推し進めて来た。

 しかし、女中たちの度重なる理由付けと暴走に散々苦しめられ、とうとう先代家達の頃に見放される形となった。家正の代になっても、老中たちは給与に関すること以外、大奥へ介入するのを拒み、その責任一切を将軍に押し付けることにしたのだ


 伊勢守には斟酌(しんしゃく)するつもりなどないと悟り、御座所から退がらせた。将軍に就任して十七年──、今も尚、老中たちの背後に立つ父の影に家正は悩まされた。


────────────────────


「姉さま! この分の落雁はあたくしの物にございまする!」


「何を言うの!? (より)が多く取り過ぎたのではなくて?」


「さようなことはありませぬ! まあ? 姉さまが食いしん坊ですから? たくさんお取りしてもすぐ無くなるのでございましょう?」


 「なんじゃと~!」と敏姫が金切り声を上げて末妹の頬を引っ張った。順姫(よりひめ)は落雁がたくさん乗った自分の分の菓子皿を死守しつつ、やり返した。


 突如始まった姉妹喧嘩に、書物から顔をあげて様子を窺っていた豊姫はとにかく宥めようと「子供みたいに騒ぐでない」と二人に注意した。しかし、姉上は黙っていてください! と妹たちは声を揃えて突っぱねるので、溜息を吐くことしか出来なかった。


 仕方なく女中たちに菓子の催促しに立ち上がりかけると、部屋の前に嬉しい人物が柱にもたれていた。


「父上!」


 姉の声に反応して、敏姫と順姫が一斉に振り返った。両頬をお互いに引っ張り合いながら「いいうえ(父上)!」と嬉しそうに声を揃えて言った。家正は、娘たちの愛らしさに「お前たちは可愛いのう」と口元を緩ませた。


 

 家正は姫君付きの御中臈に命じて、ありったけの菓子が姫たちの前に出された。喧嘩の発端となった落雁は高坏二つ分、饅頭と羊羹、煎餅や最中、南蛮渡来のカスティラやぼうろもあった。

 

 豊姫以外の二人は飛び上がるほどに大歓喜した。


「余り食べ過ぎると歯痛(はいた)になるぞ?」


 貪るように菓子を手にとっては口に運ぶ妹たちに向かって注意するも、二人は目の前の菓子に目を奪われてうわの空で「は~い」と返事をした。呆れつつも、嬉しそうにしている妹たちを慈悲の目で見つめていた。


 家正は豊姫と肩を並べて、縁側で茶を啜っている。父に向き直り、豊姫は妹たちに代わって礼を言った。二人の前にも菓子は用意されたが、小さな大福が四つ。甘いものは余り得意ではない二人だった。


「急な御成り、如何なされたのですか?」


「何じゃ、急に参ったら悪いか?」


 家正が意地悪そうに聞く。時折、子供のような振りをする父が豊姫は好きだった。


「いいえ! 嬉しゅうございます」


 満面の笑みで応える豊姫に家正はふっと笑った。「妹を注意するしっかりした姉」から「父に甘える娘」の顔をして嬉しくもあった。家正は豊姫が成長するにつれ、母── 藤子に似て来ているのを実感した。


 こうして将軍と将軍の娘がゆったりとした時間を過ごすのはなかなか無かった。家正は政務に、姫たちは習いごとに勤しんでいたため、こうした機会を設けることが出来なかった。


 他愛ない話をした後、家正はふと切り出した、


「於豊」


「はい?」


於敏(おすみ)の嫁ぎ先が断絶の危機に瀕したらば、そなたは如何する?」


 豊姫が唐突に家正に縋り付くので、危うく持っていた茶碗を落としそうになった。


「上杉家が!? 断絶するのでございますか? 於敏が嫁げなくなるのですか!」


 その声は今にも泣き出しそうで、家正は悪く思った。言葉が足らないこと詫び入れながら優しく手を放し、付け加えた。


()()()の話じゃ。真に受けるな」

 

 たとえ話であると知って、豊姫はひとまず胸を撫で下ろしてからしばらく考えた。敏姫と順姫の「おいしい~!」という歓声が耳をすり抜ける。そして、ある結論に行きついた、


「私が生んだ子を夫に願って上杉家へ養子に出したいと存じます。たとえ、家臣らに認められずとも、私の独断で強引に事を運びまする」


「やはりそうなるか。やはりそちは賢いのう」娘を褒めてから家正は庭へ目を向けた。「それに比べて伊勢守と来たら……」


 溜息が漏れた。父が溜息を吐くのは珍しく、豊姫は初めてそのような姿を見て力になりたいと思った、


「何かあったのでございますか、父上。私で良ければお聞きしまする」


「いや……なんでもない。忘れておくれ」


 茶を飲んではぐらかそうとする父に、豊姫が真剣な眼差しになって呟いた、


「伯母上様……お楽の方の事でございましょう?」


「そなた、誰から聞いた?」


 心を読まれたのかと思った家正は目を剥いた。


「誰から聞いたわけではおりませぬ。されど、現状が現状ゆえ、ある程度察しが付くのでございます」


 家正は押し黙った。知らない間に小さかった娘が遠くに行ってしまいそうな気持ちになった。豊姫は父を見つめて言う、


「さしずめ、伯母上様の御子(おこ)を断絶の危機に瀕している鷹司家へ養子に出したいとお考えなのでございましょう。されど、伊勢守殿はそれを認めずにいる。かつての公家との関係良好の折ならいざ知らず、関係が悪化している今では……難しゅうございましょうね」


 家正は黙ったまま菓子を口に運び、茶を啜った。豊姫は俄かに(しとね)を退け、父に両手を付いた、


「畏れながら父上、(おなご)の身である事を承知の上で、私の考えを申し上げてもよろしゅうございましょうか?」


「ああ、言うてみよ」


 驚きつつも、ただならなぬ娘の進言を認めた。


「ありがとうございます」と豊姫が礼を述べてひと呼吸を置いて、身を正した。「母上を利用するのです」


「御台を?」


「ご承知のこととは存じますが、母上は御台所です。御台所は大奥の主、大御台所のお祖母様(ばあさま)をも凌ぐ程の力をお持ちです。伊勢守殿を召し出して、〈御台所の異存〉 として鷹司家直系である鶴松を鷹司家へ養子に出すのを認めさせるのです」


 気付けば、敏姫と順姫が菓子に伸ばす手を止めて、話しに聞き入っていた。豊姫は続けた、


「伊勢守に公家を許すよう命ずるのです。公家衆らを赦免(しゃめん)すれば、徳川は幕府としての面目が保たれましょう。そのために、公家、武家との友好の証として、五摂家の鷹司家へ徳川家から養子を捧げるのです」


 自らの考えを論じ終えて安心したのか、豊姫は手前の茶を一気に飲み干した。黙って話を聞いていた家正は娘による独自の見解をはね付けるわけでも、諫めるわけでもなく、納得すらしていた。


「そなた、何故(なにゆえ)そこまでのことを? お楽とは会うたこともないであろう。何故?」


 家正の疑問に、豊姫は衿を正し然も当たり前かのように応えた、


「同じ長女故でしょうか」


「長女故?」


「お家を第一に考える長女故、伯母上の考える事が分かるのかもしれませぬ」


「大したものじゃ。そなたが姫であるのが惜しい」


「私も、時々そう思う時がございまする」


 右手で口元に添えてふふ、と笑った。大人びた表情から打って変わり、無邪気な顔になる娘を愛おしく思った。茶のお代わりを御中臈に所望した後、家正は「御台がそう教えたのか?」と訊ねると、豊姫はかぶりを振った。


「子供の折、曾祖母様(ひいおばあさま)がおいでの西ノ丸大奥へ通い、教えを請いましてございます」


 六年前に初めて曾祖母と対面したあの日から、度々、西ノ丸大奥へと足を運んでは菓子を戴きつつ、天璋院が成した偉業や、故郷・薩摩の話などを聞き、和やかな日々を送った。話をしてなお一層、豊姫は曾祖母への憧れの念を強めた。


「どのような教えじゃ?」


 そう訊ねると、豊姫は心を弾ませた、


「役割についてでございます」


「役割とな?」


「人にはそれぞれ役割がございます。百姓が田畑を耕し、幕府が民を護る。父上が幕府を取り仕切るのが役割であるように、その殿方をお支えするのが女の、母上の役割なのでございます。私も……そうなりたいと念じております」


 家正はこんなにも娘が誇らしいと思った事はなかった。この世に生を受けた時から既に誇らしくはあったが、過ぎ去る時の中で、娘が成長していることに感激と共に寂しくさえあった。


────────────────────


 姫が論じてくれた案を胸に、家正はその夜、藤子を寝所へ呼んだ。


 二人で床を並べるのは()()()以来だった。御鈴廊下の鈴が鳴る余韻を耳に残し、家正は御小座敷に入った。すでにお辞儀をして待機する藤子を見ると、いつもの白の寝間着小袖に被布を纏っている。名の通り、藤色に唐草の文様が織られた姿が美しかった。


「徳松は息災にしておるか?」


「はい。良う乳も飲み、良う泣き、健やかに育っておりまする」


 三十を過ぎた藤子は今も尚、乳がよく出て徳松に飲ませていると東崎から報告を受けている。竹千代を産んでから十六年経っても、大切な我が子を自身の手で育てたいという信念を貫き通しており、感心した。


 しかし、いつもより、よそよそしい妻の反応に思わずたじろぎ「そうか」としか応えられなかった。こちらを見ようともせず、ただじっと次之間と上段を隔てた屏風の絵に目を向けている。

 しばらく沈黙が続いた。聞こえるのは御小座敷の庭で鳴く虫の音と池の水音だけだった。どう話を切り出せばいいのか考えあぐねている間に、藤子が徐に両手をつく。依然こちらを見ずに、


「申し訳ありませぬが、上様。私が今宵参ったは御褥(おしとね)すべりを申し上げるためでございます。東崎には話を通しておりまする故、どうか御認め下さいますよう」


 まさかと思った。無論、三十四にして身籠って出産したという体裁の悪さを恥じてのことだろう。しかし、今の家正は身体を重ねるよりほかに共に眠りにつく安心さが欲しかった。胸がざわざわした。


 「失礼いたします」と言って立ち上がる藤子を、家正は腕を掴んで引き留めた。


「御台、待て! 話があるのじゃ……お楽のことじゃ」


「……あの者の話は聞きとうありませぬ……っ!」


「頼む! この通りじゃ」


 両手を付いて頭を下げた。将軍が御台所に頭を下げるなど聞いた事がない。いや、むしろ、記録に残っていないだけでありふれていることだろう。家正は頭を垂れながらそう思った。


 ちらと顔をあげると、立ち上がりかけた藤子がそっと座り直した。余程のことだと理解したのだろう。膝の上で手を重ね、こちらに耳を傾けようとしてくれている。今度は家正の方へ身体を向けるが目は合わせてくれなかった。家正はひとまず安心し、ふっと微笑んだ。

 そして、家正は順を追って、お楽──正子の目的を明かした。


 話しながら反応を窺っていると、藤子は顔を上げ目には驚きに満ちているのが分かった。


「姉上が……鷹司家のために?」


 全てを知った藤子は、膝の上に置いた手をぎゅっと力を込めた。


「そうじゃ。やり方は多少乱暴ではあったが、人倫にもとる行動に出てまで家を守ろうとしたのであろう。この事を御台と二人が対面した折に話そうとしておったそうじゃが、そなたは怒って立ち去ったそうじゃな」


「それは……」藤子は恥ずかしそうに顔を背けた。「姉上が……貴方様と(まぐわ)ったという事実を聞かされて怒らぬ妻がおりましょうか……。一介の側室ならいざしらず、実の姉が妹の夫と通じるなど、誰だって許せませぬ」


 家正は「それはすまない事だった」と謝罪した。

 自身でも、あの日の事は一生の過ちだった。顔や声が似ているからと言って、身体が内側から熱くなり理性も失って襲ってしまった。あれから産まれたばかりの鶴松とお楽と対面した折、それほど似ていないと後から気付き、身体が違う意味で熱くなった。


「されど、仕方がありませぬ。過ぎたことはもうよろしいのです」


「許してくれるのか?」


 家正が弱々しく訊ねると、藤子は夫の目を見て頷いた。「しかし、二度目はありませぬからね」と悪戯っぽく笑い、不覚にも愛しいと思った。


「そこで、折り入って御台に頼みたい」家正は本題に取りかかった。「もはや私の力では難しいのだ」


「なんでございましょう」


「老中の阿部伊勢守を説き伏せてくれ。これは、御台所であるそなたしか出来ぬことなのだ」


「私が? 私なぞ、表の老中たちから疎んじられておりましょう。乳母と守役を廃止して身勝手な行動に出たのですから、それに……」


「それに?」


「私は老中たちを恨んでおりまする。あの者らは祖母の死と父の死をひた隠しにして参ったのです。そのような残虐非道な行いをしたあの者らと対面したくもないほど許せぬのです」


「御台の気持ちは良う分かる。ならば、その思いを貫けばよいではないか」


「え?」


「御台所の身内の死をひた隠しにするのは体裁を護りたいがための── いわば老中たちの悪足掻きじゃ。その足掻きを打ち砕く思いで、鷹司の復興を図ってみるのじゃ。どうじゃ、良い考えであろう?」


 藤子はしばらく考えた。姉がそこまで考えた上に、苦労をして子を産み落とした。これは、女中から聞いた話だったが、相当な難産だったという。初のお産だったのだから無理もない。


 徳川に嫁いで十七年になろうとしていたが、決して鷹司家を捨てた訳では無い。今でも鷹司家の断絶を恐れている。再興出来るのなら、この世が滅んだとしても成し遂げたいとさえ考える。


 藤子は家正の目を見つめ、ひとつ頷いた。家正は微笑んで藤子を抱き寄せた。


「案ずるな。御台所の命令を払い除けるやつらではない。お二方が戻ることは叶わぬが、少しは……気が晴れるのではないか?」


───────────────────────

 

 翌朝、藤子は老中首座・阿部伊勢守(あべいせのかみ)と会談した。


「阿部伊勢守、その方に来て貰うたは他でも無い。我が生家、鷹司家の事についてじゃ」


「は?」


 伊勢守はひれ伏した頭を勢いよく上げ、訝し気に御台所を見つめた。


「我が実姉、お楽殿の子・鶴松君を、鷹司家の養子とするよう取り計らって貰いたい」


「されど、こ、これは先例のない事でして──」


「我が命に逆らうつもりか?」


 御台所の発言は絶対である。たとえ、大奥を毛嫌いしている老中でさえ、話の腰を折る事は出来ないのであった。伊勢守はただただ押し黙り、畳に両手をついたまま一点を見つめている。


「上様からは御許しは頂いておる。ただちに表へ戻り、この話を通して万事滞りなく進める様に」


 伊勢守は尚も苦虫を噛み潰したような顔をしている。藤子はその表情を目にし、透かさず胸の内を明かした。


「将軍家から公家へ養子縁組をするは、公家に力を与える事になるのではないかと懸念しておるのであろう。されど、鶴松君の御身体に流るるは徳川の血じゃ。案ずるには及ばぬ。私が連名で義母上と共に、五摂家が徳川家を利用しないように約束させよう。無論、他の公家衆らもじゃ。──それで文句無かろう」


「は、はぁ……近衛家の大御台様にも御尽力頂けるならば、相違ないかと……」


「ただし、制限ばかり突き付けられては向こうも黙ってはおられまい。あらぬ考えを企て、徳川に牙を向ける事にもなろう。これよりは、公家衆を許すのじゃ。公家衆らに手当金を与え、暮らしに不自由ない様にさせるのじゃ。さすれば、幕府の面目は保たれるであろう。公家、武家との友好の証として、五摂家の鷹司家へ、徳川家から養子として捧げば、争い無く事が運ばれよう」


 伊勢守は何か言いたげに何度も膝立ちを繰り返したが、御台所の節々にある言葉の力強さに断る事も跳ね退けるでも無く、頭を下げて承諾することしか出来なかった。


 そして、時を経て十月一日。鶴松君が鷹司家へと養子縁組される事が正式に決められた。


 徳川将軍家が公家へ養子に出される。それは過去において例の無いことであり、全国の諸藩にも広まった。それもそのはず、公家から養子や猶子を受ける事はあっても、ほとんどが女性で、公家の男子は宮門跡であったりと、力を帯びない公家の子息ばかりであった。

 徳川がなにかしらの目論見を抱いているのだと疑念を抱かない者は居なかった。


────────────────────


 産まれたばかりの鶴松は一歳も満たない赤子であったため、後見人が付けられた。藤子は家正と相談したうえ、鷹司家の事を良く知り、御所にも通じることから万里小路が後見人として選ばれた。しかしそれは、大奥から出ることを意味していた。


「おねいさん、急な話で誠に申し訳ありまぬ……」


 藤子は上段の襖を閉じ、次姉と二人きりになった。そして、此度の急な件について低頭した。万里小路は藤子の肩を抱き、頭を上げるよう促した、


「謝る必要ない藤子。私も去り時だったのや……。姫様達もご立派に成長遊ばされた、私はもう用済みじゃ……」


「その様な……」


「ただのう、姫たちが嫁いで行かはるのを見送れないのだけは残念やったなぁ」


 藤子は言葉も出なかった。そして徐に、万里小路は言った、


「姉上と仲良うするんやで、藤子」


「え?」


「嫉妬する気持ちは、さすがに分かってやることは出来ひんが……姉上はそなたの姉上や。鷹司家の為にここまでしやはった事を、努々(ゆめゆめ)、忘れてはなりませんえ?」


 少し悩んでから藤子は微笑んだ。


「分かりました……おねえさんのためにも、いつか話をしてみようと思います」


「その意気や」


 ゆっくりと立ち上がり、万里小路は妹と膝を突き合わせて手を取った。藤子はその暖かな手を握り返した途端、惜別の涙が止めどなく流れた。


「ほな、また」


 柔らかで少し低い声、藤子はその声が好きだった。江戸と京、二人を分かつ距離……御台所は城を出る事が許されないが、再びこうして相見えますようにと藤子は御仏に祈った。


 斯くして、万里小路改め、鷹司佐登子は乳母・中島と甥御の鶴松を連れて京・鷹司家へと上った。


 祖母・万寿子(ますこ)の代理で大奥に入って十七年。藤子と苦楽を共にし、時に主と配下として、時に実の姉妹として支え合った。その姿は大奥においても注目の的となり、二人の考えとは裏腹に女中たちから慕われ続けたのだった。


───────────────────────


 安治十三年(1919) 一月、竹千代が十七歳になり、元服の儀が執り行われた。そして名を【家英(いえひで)】と改め、次期将軍として世に示された。そしてその夜には、大奥の御広座敷で祝いの宴が催された。


 上段には、藤子と家正、そして家英、泰子、お楽の方が座っている。その少し段が下がった所には豊姫、敏姫、順姫の三姉妹と御付きの御中臈に抱かれた徳松が座っている。龍岡は体調不良で欠席していたが、東崎他、大奥女中たちは舞や踊りに秀でた御次が庭に設けられた大きな舞台上で祝いの舞を披露した。


 舞が終わってしばらくしてから、家正が立ち上がり、愉快そうに上段から宣言した、


「今宵は無礼講じゃ! 皆、思う存分に楽しむ様に」


 公方様の言葉に全員が沸き立った。そして、皆それぞれ、酒宴を思う存分に楽しんだ。


 次期将軍擁立の祝いに寿ぐ女中たちを眺めながら、藤子たちも上機嫌になって行ったのだった。鳴り響く囃子の音、忙しなく交わる言葉の賑わい、分け隔てなく上級下級女中がそれぞれ思い思いに楽しむ姿、それはまるで全盛期の大奥を思わせ、泰子もかなりの出来上がりぶりを披露したのであった。


 藤子は舞台上で楽しそうに舞う泰子に笑いかけながら、お楽の前に座り、酒を酌み交わした。それはおよそ、初めての事だったがこの状況でないと出来ないと思ったのだ。

 鷹司家の邸では互いに酒など嗜んだ事は無く、夕餉の時には口喧嘩ばかりしていた思い出しかなかった。お楽は拒否することなく盃を差し出し、一口、二口と受け入れてくれた。藤子は思わず家正のほうを向いた。ずっと見守っていてくれたのか、微笑みながら藤子に向かって盃を掲げた。


 しばらく経って、酒宴が解散となると、女中たちはそれぞれ上段の主たちに一礼してから続々と去って行った。三姉妹と徳松は御付きの女中達に連れられ、部屋へと帰って行った。


 最後の一人になった東崎が、将軍、将軍継嗣、御台所、大御台所、側室の前に両手を付いて恭しく頭を下げた。酒を含んでいるからか、いつもより優しい目つきだった。


「公方様……折り入って御話がございまする」


「なんじゃ、改まって」


 大層、酒を呑んでいた家正だったが歳を重ねていくにつれ強くなったためか、少し陽気に見えるだけでいつもと変わらぬ調子だった。


「不肖、東崎。大奥から退がりとう存じまする」


 その一言で、藤子たちは酔いが醒めた。虚ろな目になりながら脇息に凭れていた泰子さえも顔を上げた、


「どうゆうことや? 東崎」


 藤子も身を乗り出して義母の後に訊ねる、


「何故今であるのか、聞いてもよいか?」


「こう見えましても、私は六十を過ぎた老体にござりますれば」そこにいた全員が声を上げた。到底六十を過ぎているようには見えなかった。「これよりは、次の世代へ総取締の座を引き継がせようと考えておりまする」


 現在の大御所である家達の代から総取締の任に当たって、五十数年。大奥をまとめ上げ、相手が御台所や大御台所、将軍でさえも臆せず進言する力強さがあった東崎局。出会ってから十八年だが、一度も弱みを見せたことがなかった。寂しくさえ感じたが、労をねぎらって送り出そうと考えた。


「期日と、次期総取締の指名は追ってご相談させて頂きまする……何卒、宜しくお願い仕り──」


「上様!!」


 俄かにお楽の方が上段から降り、東崎の隣に両手を付いた。急な出来事に家正は思わず藤子のほうに身体を仰け反らせた、


「なんじゃ藪から棒に!」


 家正の驚きの声を気にするでも無く、お楽ははっきりとした声色で告げた。東崎は突然の行動に目を瞬かせている。


「私に……大奥総取締の称号を戴きたく存じ奉りまする!」


 お楽の方の発言にその場にいた全員が耳を疑った。藤子は姉に対し更なる疑念を抱いた。



つづく



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