二十三ノ怪
「随分と可愛がられたようだナァ鈴音」
目を伏せて黙って応えると、特に鬼さんは気分を害したわけでも無く、うなじに舌を這わしてきた。
柔らかい地面に背中を預けるわたしに、鬼さんが跨って覆いかぶさっている。
明かりのない暗闇のせいで、鬼さんの妖しい紅しか見えるものがないけれども、体に感じる重さや息遣いで、自分の今の状況が頭に浮かぶ。
「鎖骨も脇腹の骨も浮かび上がって、そりゃ~お前の身体は痩せこけてタ。よくまあアノ体で現世まで行って戻ってこれたもンダ」
言いながらわたしの首元や胸の下をまさぐる。
そんなに酷い体をしていたのか。
確かにあの石の部屋から出る直前までろくに食べもしなかったし、殴る蹴るされていたから体力はガタ落ちしていただろう。
一応死なすための暴力ではなかったから、傷や骨折は治されてはいたのだけれども。それでも悲惨なことには変わらない。
今だってまさに、暴力がなくとも悲惨なのだから。
「今のお前を喰ったら死んじまうからナァ。ダガ夢でならマァ……良いダロウ?」
横を向くわたしのうなじから首筋へ、首筋から胸元へ熱い舌が動く。
「ちと感度は欠けるガ、それでもお前を味わえるなら構わないカナ」
鬼の手がわたしの白い襟元を掴むと前が肌蹴て、そこに鬼の顔が埋められた。ぬめりとした感触が胸や腹にめぐって、時折軽く牙を立てられる。
鬼さんがわたしの体を好きなようにしている間、わたしはただ横を向いて果てしなく続く闇を見ていた。
どこまでも広がるこの闇は常闇と同じくらい広いのだろうか。人の闇の深さと同じくらい、深いのだろうか。ここに光が差すことはないのだろうか。
現実逃避からか、そんな疑問ばかり頭に浮かべて考える。別に答えを求めていないし、分からなくても問題はないのだけれど、先の見えない暗闇にわたしはずっと問いかけていた。
貪ることに夢中になっている鬼さんがわたしに触れる度、ぞわりとした感覚や自分の口から呻くような、ため息のような声が漏れる。けれど、それも特に気にしなかった。
鬼も勝手に反応する体も、好きに任せた。
「……どうした鈴音? やけに静かだナ」
不意に鬼さんが貪っていた口と手を止めて、妖しい紅をわたしに向けてくる。目の端にぼんやり紅が浮かぶ。
いつの間にか鬼さんも前が開いているのか、自分の肌に布ではない筋肉質な体温が重なっていた。
「……いえ。なにも」
素直にそう答えれば、不機嫌そうな沈黙が流れた。
髪を撫でられ頬に触れられ、顎を掴まれる。そして真正面を向かされると、真上にある二つの妖しい紅にぶつかった。
「鈴音」
「はい」
「お前は俺を怨まないんダロウ?」
少し間があってから、あの場に鬼さんもいたのだと思い出す。そっか。鬼さんも聞いていたのか。
「……はい」
「それなら、ナゼ俺を受け入れない?」
不機嫌そうな紅に首を傾げる。鬼さんは何を、言っているんだろう。
たった今、散々好き勝手に体を良いようにしているのに。
前のようにわたしが露骨に抵抗しているのならともかく、今のわたしは何もしていないというのに。
「言っている意味が……わかりません」
抑揚のない声で正直に疑問を口にしたら、鬼の目が歪んで細まる。
「ナゼ泣くんダ?」
泣く? さらに眉を寄せれば、目尻をそっと撫でられた。
僅かに冷たさが触って、乾いていくのを感じる。
え? わたし……泣いていたの?
驚いて僅かに目を見開いてしまう。そんなつもり、全然なかったのに。
「俺をこの先怨まずに、傍にいるんダロウ? なのにナゼ泣く必要があるンダ?」
軽い感じで言ってはいるけれど、目は焼け付くようにわたしを見ている。絡み付いてくる視線がいつかの夢のように、わたしの体を雁字搦めにしている。
「これから先、俺を想って、仲睦まじく過ごすんじゃナイのカ?」
「想っ、て……?」
……あぁ、そう。そういうことか。
熱のこもった声に漠然と納得する。
紫さんも言っていたけれども、わたしが鬼さんに対して好意を抱け、ということか。体も心も捧げて奉仕しろということか。
でもそれは――
ひたりと妖しい紅を見つめる。
「怨みません……でも、想ったりもしません」
「……なンだと?」
「怨んだりしませんけれど、鬼さんのことは……好きになれません」
抑揚のない声で答えれば、カッと紅が大きく見開かれた。
肩を鷲掴みにされて、顎に添えられていた大きな手が、顎を砕く勢いで力を込められる。
「鈴音っ……お前!」
先の続かない罵声が呻き声とともにわたしへ牙をむく。
痛さに顔が歪み、さすがに朦朧とした感覚は消え去った。
痛いっ……!
わたしは悲鳴を喉に止めつつ、今まで放り投げていた両手を持ち上げて、顎を掴む筋張った手を掴んだ。
「わたしは好きでっ……鬼さんを怨んだんじゃないんですっ! 鬼さんが望む形とは違うけれど、最初は仲良くなろうと努力しました。自分から、怨みたくてっ……したんじゃありません!」
顎に鬼の爪が食い込んで痛い。
自分が喋れば喋るほど、鋭い指先が肌に深く刺さっていく。痛みに負けて話すのをやめようかと一瞬思ったが、わたしは口に力を込めた。
「それと同じでっ……自分の意思で、相手が誰であろうと、簡単に想いを寄せるだなんて無理です!」
「ムリだと?」
「怨むのだって、そうじゃないですかっ。好き好んで怨む人なんて、いません。好きになるのだって、機械じゃ、からくり人形じゃないんですからっ。……簡単に好きになれと言われてなるだなんて、出来ません。……少なくとも、わたしには無理です!」
叫び終えれば、急に顎が解放された。
肩も掴まれたままではあるけれど、力は緩められ圧迫感はない。
それでも顎の方はジンジンとした痛みが残って、ひどく辛かった。顎に何かが垂れているのを感じるところ、血でも出ているんだろう。
鬼の眼差しが向けられる中、肩で息をして深く息を吐き出す。
それから頭を力なく地面に預けて、また果てしない暗闇に視線を投げ出した。
「鬼さんがわたしの、この態度が気に入らないのでしたら、最初の頃に言っていたように、記憶をとって鬼さんの望むようにしてください」
「ほぉ? 親兄弟を、現世を忘れても構わないのカ?」
喘ぎながら言えば、蔑んだものを含んだ鬼の言葉が降ってくる。
言われた途端、思い出す日向の記憶。
ほんの一瞬なのに、生まれた時から常闇に来る前の日までが走馬灯のように思い起こされる。
今まで悲しい時や落ち込んだ時、寂しくなった時に支えにしてきた元の世界での暮らし。大事な思い出。
わたしがなんとか正気を保って今日までこられたのも、その思い出たちのおかげだ。
あまりみんな揃うことは少ないけれど、優しくていつだって助けてくれた家族。一番年下なわたしに、厳しい時はあるけれども、一番甘やかしてくれたお姉ちゃん達。
大学に行くわたしを心配しながらも、応援してくれた両親。
もちろん家族だけじゃない。
喧嘩や言い合いもしたこともあるけれど、協力して励まし合って、笑いあった学校の友達。
お小遣いを出し合って雑誌を買って読んだり、恋愛相談や勉強会もよくした。大学が違ってもまた会おうと約束してくれた子達。
近所の世話好きなおばさんや、いつもおまけしてくれた小さなお菓子屋さんのおばあちゃん。威勢の良い挨拶をしてくれたパン屋のおじさん。
他にもたくさん関わってきた人たちの大事な思い出がある。
「忘れるのはとても嫌です。良いですとは言えません。でも、とても嫌ですけれど……わたしが悪いから仕方ないです。鬼さんが望むのなら、潔く……諦めます」
そうだ。今回ばかりはどう考えても自分が悪い。
約束を破って、逃げ出して。怖くなって鬼さんから逃げた自分が悪い。
腕で顔を覆って嗚咽を堪える。
泣いて悲しいと感じるだなんてお門違いだと分かっている。分かっているんだけれども……涙が止まらない。
「鬼さんの好きなようにしてください」
泣いて、覚悟を決めて、鬼さんにわたしの審判を任せた。
そうすれば長い沈黙が流れた。何も言わず、動かない鬼さん。
わたしの嗚咽が少し止んだ頃、唇に指が添えられた。
「……飽く迄、俺に想いを寄せない気カ?」
顔を隠した腕の向こうで呟かれる感情のない声。
わたしはようやく止まりかけた涙がまた溢れ始めたのを感じて、ひくつく首をすくませた。
「ごめんなさい……」
学校で、男の子から告白された時に必ず口にした返事。
今は鬼さんに向けて、絞り出した声が闇に響いた。
返ってくる声はなかった。
しばらくして顎を舐められ、両腕を掴まれて顔の左右に縫い止められた。
何度も何度も舌が顎を舐め上げると、痛みが引いていく。
鬼さんの行動が分からず、強制的にさらされた暗闇しか見えない視界を見上げる。
ふと暗闇に浮かぶ紅と目が合った。
じっとわたしを見つめるが、すぐにそれは闇に消えて、まだ身に纏っていた部分の着物を剥がし始めた。
あぁ、ついに覚悟を決める時が来たんだ。
大きな手や腕が絡みついて這わされ、硬い膝頭が両足の隙間に入り込んでくる。
足元の裾は上げられ、太い腕が入り込み大きな手が撫で上げてきた。
わたしは大きく息を吸って止めた。
口に力を込め、目も強く閉じ、耳を塞げない代わりに『我慢だ、我慢だ』と頭の中で念仏のように唱え続ける。
今度は確実にわたしが約束を果たす番だ。
鬼が飽きるまで。体が続くまで。わたしを差し出す番なんだ。
体が跳ねるほど痺れる感覚や、胸が悪くなるような悪寒が走るたびに唇を強く噛んだ。
それを何度も繰り返せば、気づかないうちに口の中で血の味が広がって、口から僅かに血が垂れた。
怖い……気持ち悪い……嫌だ……
もうやめて……触らないで……
自分の心が悲鳴を上げる。体も何かしらの悲鳴を上げている。口からもうめき声が溢れる。
でもわたしは、どれも無理やり黙らせた。力任せに、強引に押さえ込ませた。
前触れもなく口元の血を舐められる。これ以上固くできないと思っていた体がさらに強ばった。
何度か口元を舐められ、それが終われば口をこじ開けられて熱い舌が入り込んできた。すでに血で充満した口の中を、鬼の舌が歯列やわたしの舌を舐めて絡みとってくる。
どこを切ったのか分からない上に、痛みもない口の傷。
鬼の舌はそれを探しているのかひたすら口の中をなぞり続ける。そして絶え間なく体を寄せて、いたるところに手を這わせてくる。
上半身はすでに何も着ていない。腰から下は乱れてはいるがまだ白い布に覆われている。それでも片足はたくし上げられていて何度も鬼の大きな手が撫で上げてくる。
わたしはそれでも息を止めて我慢した。我慢し続けた。手の平が痛くなるくらい握り拳をして耐えた。
これからこんな時間が延々と続くんだ。
今のうちに慣れないと。耐えないと。約束を果たさないと。我慢しないと。
鬼が飽きれば終わる。飽きなくても、体が壊れれば終わる。体が壊れなくても、老いれば終わるんだから。
必ずこの地獄にも終わりが来るのだから。
それまでは、それまではなんとか……我慢しなければ……
きつく結んでいた拳に鬼の手が重なる。長い指がわたしの手の平に割って入り、絡めてくる。
そして舌が繋がったまま太い腕が背中に回り、より体が密着した。恐怖がまして、息をより詰めた。
突如ぐらりと視界が回った。そして唐突に、わたしの意識は宙に放り出された。
体が急降下する感覚。高い高い高層ビルの屋上から突き落とされたかのような、急な落下。それと同時に首が絞まる感覚。
そして地面にぶつかる衝撃が来ることもなく、いきなりコンセントを抜かれたテレビのように、わたしのすべての感覚が途絶える。
痛みもなく、恍惚としたものもなく、いきなりの無の空間。なにもかもから解放された突然の途切れ。
夢の中にいるはずなのに、何故か理由もわからないまま、わたしは意識を失ってしまったのだった。




