二十ノ怪
自分の目の前で起こった事なのに、何も分からなかった。
顔に振りおろされた金色の刃が光ったのは見えた。だからてっきり自分の顔が真っ二つにでも割れるんだろうと、呑気にもそう思っていた。
でも予想と反して刃はわたしに到達すること無く、いきなり横へ流れて空を切り、はためいていた黄色い影は弾き飛ばされた。
「……え?」
間の抜けた声を上げて瞬きする。
ガシャンと乱暴な音が響いた向こうの瓦礫の上には、先ほどよりも痛手を負った時雨ちゃんの倒れた姿があった。
一瞬の出来事に唖然とするが、すぐに我に返る。
「時雨ちゃ」
駆け寄ろうとした。が、すぐに阻まれる。
腕を鷲掴みにされて顔が強張った。素早く掴まれた腕を見れば、腕には大きな赤焼け色の手。
「消えたと思ったら、こんなトコロにいたカ。俺はてっきり、死んだかと思ったんだがナァ」
後ろを見上げると、真横に悪鬼の笑みを浮かべた鬼さんの姿。……いつの間に。
瞬時に身体が強張るがそこでハッとする。もしかしてこの時雨ちゃんの数々の怪我は紫さんと戦ったせいではなく、鬼さんがしたんじゃ……
「うぅ……ぅ……」
うめき声が聞こえ瓦礫に目を向けると、よろよろと時雨ちゃんが立ち上がろうと、腕に力を込めているところだった。額からは血が止めどなく垂れて、瓦礫を血で染めている。
「おっとマダ動けるのカ。意外と丈夫カナ」
不意にわなわなと彼女の体が震えると、悲痛なうめき声を漏らしながら、また瓦礫の上に崩れ落ちた。
「時雨ちゃん!」
倒れた時雨ちゃんを鬼さんは片眉を吊り上げ、意地悪そうに鼻で笑った。わたしは身を捩って鬼の腕をはがそうともがく。
「離して! 時雨ちゃんは酷い怪我してるのよ! 早く手当しないと! ……離してよ!」
叫び声を上げるが、唐突に顎を掴まれて上を向かされる。見上げた先には皮肉に笑う鬼の顔があった。
「オイ鈴音。せっかく助けてやったのに随分な態度じゃないカ。お前俺が吹っ飛ばさなければ真っ二つになっていたところなんだゾ?」
「あの怪我は、時雨ちゃんにあんな酷い怪我をさせたのは鬼さんなの!?」
怖さも忘れて、妖しい紅に詰め寄れば、鼻で笑われる。
「先にアイツから俺に絡んできただけカナ。それにあの女を、俺が無事にしておくワケがドコにある?」
鋭さを含んだ紅には、底知れない怒りの感情が見えた。
鬼さんからしてみれば、事の発端は時雨ちゃんにもあるんだと思っているんだ。鬼さんは時雨ちゃんを殺す気なんだ!
「鬼さん離して!」
「駄目ダ」
「逃げたりしないから! 絶対に、もう二度と逃げだしたりしませんから!」
「黙れ」
「お願いです鬼さん。このままだと時雨ちゃんが死んで」
「黙れ鈴音っ!」
耳をつんざくような罵声に思わず尻もちをつく。鬼さんの腕から解放されたけど、わたしは鬼さんの気迫に完全に尻込みしてしまい、立ち上がれなかった。
「鈴音。俺がどれだけ腸が煮えくり返っているのか、お前分かっていないダロウ」
鬼さんがしゃがみ込み、わたしの顎を掴むと紅を細めた。
強制的に目を合わされたわたしは、石のように固まる。
「後で嫌というほど思い知らせてヤル」
低く言い置いてわたしの顎を離すと、素早く立ち上がり、鬼さんは瓦礫のほうへ歩いて行く。
い、行かせちゃだめだ!
「やめて! 殺さないで!」
左足が動かないせいで、もう鬼さんの足にしがみつくのが精一杯だった。蹴られるのを覚悟で、足首を抱え込むようにして縋り付く。
構わず鬼さんは歩き続けるが、わたしがしがみ付いたまま数歩進んだ所で足を止めた。
「……そうカ」
鬼さんの低い声が聞こえ、突如背中を掴まれ、体が宙に浮いた。背中が強く引っ張られたせいでパーカーの首が締まり、息が詰まる。
そして声を上げる間もなく、わたしの視界は大きくぶれて、体は宙に投げ出された。
「あっ」
悲鳴を出しかけ、目まぐるしく視界が回ると、なにかに体を強くぶつける。ガシャンと自分の下から音が鳴った。
「痛……」
意外にも怪我はなかった。衝撃はあったけれど、切り傷一つ無いみたいで、酷い痛みは感じられない。
体を起こそうとしたら、傍らになにかを見て目を見開く。すぐそばに、汚れた黄色の着物が目に入った。
「時雨ちゃん!」
向き直れば時雨ちゃんがそばで倒れていた。わたしがぶつかったのは時雨ちゃんだったんだ。そのおかげで切り傷を負わなかったんだ。
「時雨ちゃん大丈夫!?」
首の下に腕を通し、なるべく頭を動かさないようにして抱き起こす。酷くぐったりしている。
「しっかりして!」
顔色は悪い。目は開いているけれど、その目は何も見えていないように感じる。生気を感じない。
さっきわたしがぶつかったせいで、こんな瀕死な状態になってしまったの?
「時雨ちゃん!」
あまり揺さぶっても良くないかもしれない。ぎゅっと抱きしめて、胸に彼女の頭を抱える。
額やところどころある傷から流れている血が止まらない。服の袖で傷口を押さえてもすぐに真っ赤に染まる。
「時雨ちゃん、わたし、気に障ることばかりしていて、ごめんね。全然気づかなくて、ごめん。……でも、絶対に助けるから」
もう過去みたいに、二度と同じようにはしない。
そう、今度こそ絶対に
「絶対に助けるから!」
思わず叫べば自分の目から涙が出る。
中学の頃、黒い河で見たあの光景。あの瞬間。辛い思い出が反芻され、感情までもが呼び起こされる。
「わたしが何とかして」
「……嘘ツキ」
動いたピンク色の唇が、憎々しそうな声を出したのを見て目を見張る。虚ろな金色が、吊り上がって歪んだ。
「偽善者は嫌イよ。本当は、ドウデモ良い癖ニ……」
「そんな」
「アナタの、ソノ、心が、言葉が、気ニ障ルのヨ」
先ほどとは違って、わたしを見る目は憎悪に満ちていた。
一緒に暮らしていた日々の生活でわたしを見ていた時の頃とは違う、恨みに満ちた眼差し。悲しさが垣間見える、怒りと憎しみに染まった金色の瞳。
「皆、憎イ。誰モ彼モ怨んでヤル。……アナタも死ンでシマエバ良い」
「時雨ちゃん……」
呪いの言葉を吐く時雨ちゃんに、胸が痛んだ。そっと目を閉じて、きつく口を結ぶ。
いつも時雨ちゃんは、光子ちゃんは誰かのことをずっと想っていた。考えていた。鬼になっても、光助くんを心配していた。
いつもいつも、誰かのことを。
それは恨んでも同じ……結局は相手にばかり気持ちを向けていることに変わりはない。
「……気に障ってばかりでごめんね。でも、これだけは言わせて欲しいの」
目を開けて、彼女を見下ろす。鋭い爪は血で汚れ、欠けていた。わたしはボロボロになってもなお、綺麗なその白い手を握り締めた。
「わたし……わたしも、怨むのをやめる、から。これからどんなに酷いことをされても、酷い目に遭わされても。わたしは紅い鬼を恨んだりしないから」
嗚咽がこみ上げてくる。歯を食いしばってギュッと目を閉じる。
「……だから……だから」
込み上げてくるものを涙と一緒に飲み込んで、顔を上げて時雨ちゃんを真っ直ぐ見る。
「時雨ちゃんも……みっちゃんも……誰かを怨むのをやめて……これからは自分の幸せだけを見て欲しいの」
誰かを好きになるのも、恨むのも、結局心は外を向いたまま。
みっちゃんはいつだって、誰かに気持ちを向けて、自分の気持ちを見つめたことは一度だってなかったはずだ。
「怨むのは仕方ないよ。最低な人たちだったから。……でも、でも、また気に障るような事を言ってしまうけれど。怨んでいる間、いつだって幸せじゃなかったはずだよ?」
金色の目が大きく見開かれる。その瞳の中心に、人間だった頃の光が見えた。
「もう良いよ。もう良いから。ずっと長く怨んで疲れたでしょう? 相手をどうしたいだとか、どうしようとか。でも、もう他人なんてどうでも良いから。これからは自分がどうなりたいか、自分自身のことを考えて」
一度大きく息を吐いて、煤で汚れた長い髪を梳く。
驚愕に強ばった顔に、目を細めて見つめる。
「お願いだから、もう、幸せになって。……お願い」
わたしは心から願った。
一人の女の子の、最初の願いを。彼女の幸せを。
丸い髪型をした小さな女の子は、鬼になることを願ったんじゃない。幸せになることを願ったんだ。
彼女がみんなに願ったと同じように、わたしも彼女の幸せを願いたい。
沈黙が流れる。さわさわと草花や木のざわめきが聞こえて、無残な瓦礫の上を色とりどりの花びらが通り抜ける。
まつげの長い目蓋が、金色の目を隠した。それからわたしの胸に押し付けられ、小刻みに彼女の体が震えた。
「……泣いてるの?」
問えば答えるかのように、わたしの体に彼女の腕が回された。
辛いのだろうか。
わたしの思いが届いたのだろうか。
ううん。なんでも良い。
わたしも抱き返そうとした、その瞬間。
「きゃっ」
突然突き飛ばされて瓦礫の上に尻餅をつく。ガシャンという音がわたしの下から鳴る。
「し、時雨ちゃん……?」
不安に眉を寄せて彼女を見上げる。どうしたと言うんだろう。
ふらりと彼女が不安定な足場に立ち上がり、長い黒髪で顔は隠れて見えないが、肩は未だ小刻みに揺れていた。
「どうし」
声をかけた次の瞬間。辺りに甲高い、狂ったような女の笑い声が響いた。
体を大きく仰け反らせ、髪を振り乱して笑うさまは狂気に満ちて、底知れない恐怖感をわたしに抱かせた。
「ま、待って。どうしたの? なにが」
「マルで茶番ダわ」
ひくひくと体を震わせ、汚れ乱れた髪をかき上げた。
その下にはいつか見た般若顔。吊り上がった金色の瞳。裂けるように笑った口元は黄ばんだ牙が覗き、まさに醜い鬼女の顔が目の前にあった。
そんな……
絶望にも似た感情が湧き上がる。
彼女には、わたしの言葉は届かなかったというの?
呆然としている間にも、まるで昔映画で見たゾンビのような動きで、わたしの方へ歩み寄ってくる。
「ねぇ、ネェ。ふふ、そこマデ言うナラ、死んでヨ。フフフ、私たち、ねぇ親友でショウ? 一緒に死んデヨ」
ひくついたおぞましい声は片言で、正気なんて微塵もない。ふらふらと血のついた片腕を、わたしへ伸ばしながら近づいてくる。
「ねぇ、死んデ。死んで、よ。一緒に」
黄色い影が目の前まで来た。視界いっぱいに彼女の顔が映る。ふわりと妖しい馨が立ち上り、強い力が強引にわたしの体も持ち上げた。
そして――
「死ンデ」
どすんとした衝撃があった。
目の前は真っ暗。胸には鈍い痛み。動かない体。
立ち上る妖しい馨に包まれて、時間が止まったなか。わたしはただ立ち尽くした。
「…………ナンで、逃げないの?」
長い沈黙の後、か細い声が聞こえた。
その瞬間、時が動き出したかのように花の香りが通り抜け、真っ暗だった視界は細い髪となって払われていく。
わたしはぎゅっと、汚れた体を抱き締まる。
「みっちゃんこそ……なんでやめたの?」
目を閉じて静かに訊いた。
死んでと迫られ、顔いっぱいに般若顔が広がったとき、金色の目は泣いていた。それを見たとき、わたしの恐怖心はなくなってしまった。
ただ彼女の願いを叶えてあげたい。わたしを殺したいのなら、そうして欲しい。
それだけしか考えられなくなったのだ。
でも時雨ちゃんはわたしを殺さなかった。殺すのをやめた。
気づけば、懐に飛び込んできた体は次第に大きく震え始め、今度はすすり泣く声が聞こえてきた。
首筋に顔が埋められれば、血とは違う暖かな滴がわたしの首を濡らした。
「う……あ……うぅ……」
言葉にならない泣き声が耳に届く。
本当はもっと先に流すはずだった涙が、今止めど無く溢れている。そんなふうに、不思議と思えた。
「おかえり、みっちゃん」
自分の目尻からも涙が溢れてくる。
やっと会えた。思い出の中のみっちゃんが戻ってきた。
「みっちゃん」
名前を呼んで、もっと彼女を強く感じようとさらに強く抱きしめたとき、違和感を感じた。
ぬめりとした、生暖かい感触。
抱きしめる彼女の体から、流れている。
「……え?」
そろりと顔を上げて目線を彼女の背後に向ける。肩ごしには何も見えなかったけれども、目の端に気配を感じて、ぎこちなく横へと目を動かすと、そこには筋張った逞しい紅い腕。
その腕が、彼女の黄色い着物の表面を貫き、真っ赤な血が下へと大量に伝わり、瓦礫を赤く染め上げていた。
「お、鬼さ……何して」
わたしの呟きに、見えた紅い鬼の顔は無表情だった。
震えながらもう一度みっちゃんの背中を見て、やっとわたしは理解した。
鬼さんが背後から、彼女の体を貫いたのだ。




