二十一ノ怪
体を少しだけ離して見下ろせば、自分のパーカーも黄色い着物も真っ赤に染め上がっていた。
彼女を抱きしめていた自分の手も赤く染まり、肌の色が見えないくらい濡れていた。
ぐらりと傾く汚れた体。支えきれず、左足も使い物にならないわたしは、その場にしゃがみこんで抱え込んだ。
確かに見た。彼女の横っ腹を、背後に居る紅い鬼の腕が貫通していた。
妖しい馨に混じって鉄の匂いが充満する体を、驚きながらもなんとか両腕で支える。
「な、なんで!? 鬼さん! どうして!?」
髪の毛を逆立てながら、先ほどからずっと無表情な顔をしている紅い鬼を、わたしは黄色い肩ごしに責めた。
鬼さんは血まみれになった片手を払いながら、金切り声を上げるわたしをただ睨み返す。
その見下した態度に再度怒鳴ろうかと口を開きかけるが、胸元を引っ張られ、強張った顔つきのまま顔を下へ向けた。
視線を向けた先に、あの般若顔はすでになくなっていた。
そして綺麗なあの鬼女の顔もそこにはなかった。
そこにあったのは以前見た瞋恚の蒼い鬼のような、長い年月を生きてきたかのような老いた鬼女だった。
頬紅をさした顔は痩せこけ、肌はカサカサに乾き、艶やかなピンク色の口は皺が浮かんで血が滲んでいる。
まるで一瞬にして老け込んでしまったようだ。
どうしてこうなったの? 何があったの?
驚いて見開いていると、穏やかな眼が『これで良いんだ』と語っていた。
金色だった瞳は黒く霞み、淀んでいる。そこには確かに、死の気配が感じられた。
「い、嫌! 嫌だよ!」
きつく抱きしめて泣いて縋った。
こんなのは嫌だ。これじゃあ、あの時と変わらないじゃない。また繰り返し、助けることが出来ずに終わってしまう。
「みっちゃん!」
死んでしまうの? このまま?
ううん。そんな理不尽なことがあって良いわけがない。でも、どうしたら、どうしたら良いんだろう。
神様でも仏様でも、誰でもいい。なんでも良い。みっちゃんを助けてくれるならなんでも良い。
「誰かっ……助けて……!」
噛み締めながら強く呟く。
こんなのあんまりだ。どうしてみっちゃんがこんな目に遭わなければいけないんだろう? どうしてここまでの仕打ちを受けなければいけないというの?
例えあの三人や主の使いのことは責められても仕方ないとは言え、今まで我慢してきた事や耐えてきたことは見過ごされてしまうというの?
「みっちゃん、みっちゃん!」
何度も名前を呼んで、けれども、どうすることも出来ずにただ弱っていく彼女の体を抱きしめる。
そうするうちに、抱きしめていた体が急にしぼみ始めた。
生ぬるい風が彼女の長い髪をかきあげると、枯葉のようにパラパラと髪が抜けていく。
骨と皮だけになりつつあるみっちゃんの鬼の体。顔を上げて自分の涙と彼女の血で濡れたその頬を何度も擦っても、彼女の状態は治りはしない。
もう、もう人間には戻れないの?
あのとき人間の、元の体を捨てたから?
「誰かみっちゃんを助けて……願いを叶えて」
どんなに願っても呟いても、誰も返事をしてくれない。傍にいるはずの鬼さんも、何も言わない。
花々の花びらが舞う風の音しか聞こえてこない。
いくらか経ったとき、鬼さんの身じろぐ気配がした。反射的に体を強ばらせる。
いまさら鬼さんが何とかしてくれるとはとても思えなかった。みっちゃんを庇うように覆いかぶさる。
すぐそばで瓦礫を踏む足音が止んだ。そして上から息を吸う音が聞こえた。
何をされるのか息を呑む。
でも、その時だった。
「まったく困ったものだ。瞋恚の鬼殿の琵琶に飽き足らず、こちらのまで壊すのか」
聞こえた笑みを含んだ声。
光助くんと一緒の時に聞いた男の声。
「ははぁ、なるほど。やはり愚かしい人の娘よ。そこまで時雨のために涙するか」
ぎこちなく声のした方へ顔を向ける。
風が舞う中現れたのは、元の世界で見たばかりの愚痴の黒鬼。
長い白髪を風になびかせて、この場には似つかわしいとは思えない、上機嫌な顔をしてこちらに笑みを向けている。
「な、なんで」
思いがけない黒鬼の姿を目にして凍りつく。
今回ばかりは偶然ではないのは一目瞭然だ。わざわざここに来たということは、何かしら企んでいるということなのか。
「腹黒」
「お前の雀は活きがいいな、紅いの。こちらにも欲しい限りだ」
舌打ちをして鬼さんの顔が嫌そうに歪む。
別段その態度を特に気にしないようで、黒鬼はにこにこと鬼さんにも笑ってみせている。
白い夜叉のような風貌をした鬼が、わたし達がいる瓦礫の上にあがってきた。
でも鳴るはずの瓦礫は音を立てず、愚痴の鬼は滑るように静かに鬼さんとわたしの近くへ寄ってくる。
「壊されて困るならキチンと繋いでろ腹黒ぉ。俺が今回どれだけ迷惑千万を被ったカ」
「時雨は既に常闇の鬼よ。わざわざ傍に置いておく必要もないだろうに。それに紅いの。ひよっ子の鬼女に出し抜かれるとは、お前もまだまだよなぁ」
若干青筋を立てている鬼さんは、愚痴の鬼の言葉にさらに顔を歪ませるが、苛立った息を吐いてそっぽを向くだけだった。
鬼さんはこの愚痴の黒鬼に対してどうこうする気はないみたい。
「さて人の娘」
呼ばれてギクリと肩が飛び跳ねる。
黒鬼は袖から黒い扇子を取り出してゆらりと扇ぎ始める。
「そなたのお望み通り時雨を人間に戻すとしよう。そしてそなたら人間云う幸福を時雨にやるとしよう」
ほんの一瞬、黒鬼の言葉に気持ちが持って行かれそうになるが、危険な笑みにぐっと構える。
そんなわたしの様子に目を細めて笑を深くすると、そっと口を開く。
「富に恵まれ見目麗しく人に愛され、常に人々の中心にいる者になったとしよう。……しかし、それで時雨は本当に幸福になると思っているのか?」
「え?」
突然訳の分からない幸福論のような事を言い出した目の前の黒鬼に、意味がよく分からず呆然としていると、黒鬼はクスッと笑って扇子の先を唇に当てた。
「深く想われ過ぎた結果、無体を強いられた挙句殺されるかもしれぬぞ? 富に恵まれたせいで妬まれ憎まれるかもしれぬぞ? 人々の関わりが深いが為に利用されるかもしれぬぞ?」
なにを、言っているんだろう。人間すべてが悪いと言いたいの?
何もかも悪い方にしか傾かないとでも言いたげな鬼の言葉に、自分の顔が歪む。
「いや、それだけではなく、己を取り合う者たちを見て時雨が傾国の美女よろしく高見から嘲笑するかもしれぬ。または自らを囲う者たちを駒のように扱い、使い道がなくなれば切り捨て、新たに調達するようになるかもしれぬな。嗚呼なるほど、確かにこれなら時雨は幸福であろうな」
「違う!」
自分の中でブチッと何かが切れた音がした。
未だに黒い笑みを浮かべている愚痴の鬼に激しく叫び返して、強く左右に顔を振った。
「みっちゃんはそんなこと望んでいない! ただ家族と、友達と、仲良く過ごしたかっただけ! 笑い合って助け合って励まし合って……生きて」
ぎゅっと口を結ぶ。
「それにあなたの言う最低最悪なことばかりじゃない! そんな悪い人ばかりじゃない! ふざけないで!」
「ほお?」
「人を利用するだとか、ちやほやされて嘲るとか、あなた達鬼が言う幸福なんて、そんな幸せ、みっちゃんは望んでなんかいない。誰だって欲しくなんかないよ!」
必死に言い返すも、まだ笑っている愚痴の鬼。
涼しげに扇子を動かしているその様子に、完全に頭に血が上ったわたしは、過去の自分の裏切りも忘れて黒鬼を睨みつけた。
「いい加減に、人間を馬鹿にするのもいい加減にしてよ!」
叫び終えれば、ぜぇぜぇと自分の荒い息遣いが聞こえた。
生ぬるい風が運んでくる花の香りがわたしの頬と鼻を掠めていく。
「く……くくっ」
愚痴の黒鬼の顔が扇子に隠れる。堪える様な忍び笑いをして、そしてすぐによく通る声を上げて笑い出した。
一瞬何が起きたのか分からなくて呆然としてしまう。姿に似あわない豪快な笑い声が辺りにこだましている。
しばらく固まっていたわたしだったけれど、すぐにこの期に及んでまだ馬鹿にする黒い鬼に、今度はわたしの血管が切れそうになった。
「鈴音ぇ……」
傍らでは呆れた様子で顔を左右に振る鬼さん。腕を組んで片眉を上げると、妖しい紅はどこか蔑んだ眼差しを含んで、わたしを見下ろした。
この二人の鬼はどこまでもわたし達を馬鹿にする気なんだ。
みっちゃんがこんな酷い目に遭っているのに、今にも死にそうなのに、よくも平気で……っ!
ひとしきり笑い終えた愚痴の鬼は、両目を閉じて俯きくと、ふぅーっと満足げに息を吐いて扇子を畳んだ。
「あい分かった」
「え?」
呟いた黒鬼の声に眉を寄せ、目を丸くする。
なにが、分かったというの?
黒鬼がわたしのすぐ目の前にくる。それから扇子を広げるとみっちゃんの体に向かって、ひとつ大きく扇いだ。
扇子の風を受け、ずいぶんと軽くなってしまったみっちゃんの体が浮き上がる。それからふわりとわたしの腕からすり抜け、宙に浮いた。
ちょうど鬼の目線の高さまで浮き上がる形だ。わたしも立ち上がろうとするが、左足が動かず、そのまま瓦礫の上から彼女を見上げた。
「娘。そなたの願い引き受けよう」
黒鬼がみっちゃんの体に両腕を差し出すと、その腕の中にみっちゃんが沈み込み、鬼に横抱きされるような形になった。
「みっちゃん」
「オイ腹黒っ」
不安が残り思わずみっちゃんの名前を呼ぶと、鬼さんが眉間に皺を寄せて黒鬼に詰め寄った。
顔つきは険しく、今にも噛み付かんばかりの表情は怒りと牽制を表している。
「まぁ良いではないか。久方ぶりに面白い雀を見た。それだけで駄賃は充分だ。お前さんの雀を盗ろうなど、思ってはおらんよ。……ではな」
黒鬼がみっちゃんを抱えながら片手で宙をなぎ払う。すると辺りに黒雲が立ち込め、雨がポツポツと降り始めた。
雨は次第に強くなり、箱庭にある草花や木々を濡らし始めた。わたしの頭や服にも強く雫を強く落とし、痛いぐらいに大粒の雨が辺りを激しく叩き始める。
「みっちゃん……」
背を向け歩き出した愚痴の黒鬼と、その影から見える黄色の裾。二人の姿は視界の悪くなった雨の中に消えていった。
わたしはもはや豪雨になった雨に打たれ、ただその後ろ姿を見送りながら座り込むしかなかった。
完全にふたりの姿が見えなくなる。
全てを押し流すような激しい雨が降っているのにも関わらず、みっちゃんの残り香がふわりと漂いわたしを包み込む。
妖しい馨を吸い込むと、不意にあの夜のことを思い出した。
小学生の頃にわたしの家でしたお泊まり会。その時に言ったみっちゃんの花屋さんの名前。
――お店の名前なにが良いかな。みっちゃんは何にする?
わたしの問いかけに、すこし照れながらわたしに耳を寄せたみっちゃん。
――あのね、『香』にしようと思うの。お母さんの名前だから。
頬に流れているのは雨粒か涙か、自分自身分からなかった。 纏う馨が宥めるようにわたしに寄り添うが、次の瞬間には重い風の塊がわたしから引き剥がしていった。
ずぶ濡れになって、箱庭にある花々の場所から色鮮やかな花びらの洪水が瓦礫へと流れてくるのを見る。
きっとこの雨で、みっちゃんが育ててきた花も全て流されてしまうんだろう。家も何もかもが壊れてしまった今、全てこの場には何も残らない。
妖しい馨も、何もない。
わたしのした選択は正しかったのだろうか。あの愚痴の黒鬼に任せて、大丈夫だったのだろうか。
わたしがしたことは、みっちゃんを幸せにすることが出来たのだろうか。
それとも――
「鈴音」
呆然と瓦礫の上に座っていると肩を掴まれる。怒っているわけでもないが、柔らかい気配もない。感情の読み取れない起伏のない声音が雨と一緒に上から降って来る。
こんなに近くに紅い鬼がいるのに、怖くはなかった。
怒りも悲しみもなかった。先の事も今の事も頭には無かった。
ただただ何もなく、空っぽだった。
掴む大きな手が、いつまでも動かないわたしに対してこちらを向けと肩を強く引いた。
でも応える間もなく、わたしの意識は途絶えてしまった。
引かれるままぐらりと大きく傾く自分の視界と体。
鬼さんも思いがけなかったのか、少し慌てた気配が感じられ、ガッシリとした腕の中に抱きとめられた。
それから暗闇に吸い込まれるように、自然なくらい眠りに落ちていくように、わたしは体も意識も手放した。
どうかみっちゃん。
今度こそ、幸せに――
そう、ただひとつの願いだけは手放さず、鬼の下へ堕ちていった。




