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妖しい馨  作者: 月猫百歩
紅の屋敷
29/60

二十八ノ怪


「やめて放してよ! 放して!」


 真っ暗な中では全く目は効かない。でもすぐ目の前にいるのなら関係ない。とにかくこの憎たらしい重い体を退かせられるなら、なんでも良かった。


「離れてよ! 触らないで!」


 傍から見れば、猫が癇癪を起こして暴れまわっているように見えるかも知れない。鬼の顔や胸を何度も突っ張り、まだ空間のある足元を何度も蹴り上げる。

 でもビクともしない。なんの手応えもない。鬼との間にはまだ余裕はあるのだけれど、その距離が広がることはなかった。


「どいて!」


 二つの紅に向かって手を伸ばす。でも紅に届く前に、すぐに手首を掴まれ捻り上げられた。自分の口から悲痛な声が上がる。


「鈴音は懲りんナァ。無駄だと言ってるカナ」


「嫌だ! 鬼さんなんて、鬼なんて大っ嫌いだ! わたしに触らないで!」


 痛みを紛らわせるのもあって叫ぶ。たとえ喰われるんだとしても抵抗し続けてやるんだ! 怯えて何もしないで終わるなんて御免だわ!


 わたしの罵声に紅が不愉快そうに歪む。その直後、捻られた手首がさらに捻られた。筋がじ切れるんじゃないかと一瞬ヒヤリとして、強い痛みにさらに悲鳴を上げる。


「まだ自分の立場が分からンみたいダナ。お前は俺と死ぬまで共にいるんダ。ずっと未来永劫俺の傍で仕えるんダ」


「嫌だって言って……い、痛いっ!」


「お前に拒む言葉などない……大人しく喰われるんだナ」


 ブツっという何かがお腹の前で切れる音がして、強い力が帯を掴んで引き抜いた。その際に乱れた浴衣が肩と足を肌蹴させる。止める間もなく露わになった肌に、無骨な手が這わされた。


「やめて! 嫌だ! 嫌ぁっ!」


 抵抗も虚しく、肌触りの良い浴衣が裂かれていく。まるで家族や友人と過ごした日常を、鬼の手によって引き裂かれていったように。暗闇の中、布が切り裂かれる音が響いた。


「鈴音コッチを向け」


「嫌ぁっ!」


 顎を掴まれて反抗するように首を捻れば、暗い畳の向こう、かすかに浮かぶその場所に目がとまった。そこには無残にも投げ捨てられていた帯が、花弁の入った小瓶と共にスッパリ切られていた。その有様は、鬼さんとわたしとの間にあった、僅かな絆のようなものが切れたみたいだ。


「あぁ鈴音。お前の肌は美味いナァ……血肉もさぞ美味いんだろうナァ」


 今までとは比べ物にならない強い力が自分を押さえ込む。ほとんど身動きがとれない。ずしりとした物凄い圧力が自分にのし掛かっってきて息が苦しい。背中を掻き抱く爪の痛さに、歯を食いしばる。


「美味いナァ……ウマイナァ……」

 

 鬼の恍惚とした声が耳に届く。混乱と興奮のせいか、次第にその声だけでなく様々な音が聞こえなくなる。目に映る微々たるものも、霞んで見えなくなる。


 ぼんやりと闇に浮かぶ、割れた小瓶以外何も見えない暗闇の中。仄かに香る常闇の香りがわたしと鬼を包む。


 自分の体と精神が、自分以外のものに侵食され始めている。ただ暴力的な気配と乱暴な雰囲気が部屋と籠に充満して、嗅覚以外の感覚という感覚が薄れていく。

 

 そんなに長い時間が経ったわけではないんだろうけれども、わたしの中ではとても長い時間なぶられている気がして、次第に胸の中が部屋の暗さとは違う闇に染まっていった。

 必死に抵抗しながらも、現状の悲惨さに数々の苦い思いが溢れ、翳りのあるものが頭と心を染め始める。




 ……鬼さんのせいで家族とも会えない。友達とも話せない。

 陽の下で生活することも出来ない。


 全部、全部鬼さんのせいだ。

 お姉ちゃんを苦しませて、利用して、わたしを常闇に引きずり込んで。将来の夢だけでなく、わたしの過去さえも家族から奪った。

 そして今度はわたし自身まで。

 




 

 ……嫌い……


 ……鬼さんなんて嫌い。鬼さんなんて大嫌いだ。鬼さんなんて……鬼なんて……いなくなればいい。



 今まで経験したことのない、暗い、どす黒い感情が胸を占めていく。それはとても煮えたぎる様に熱くもあり、凍てつく様に寒々ともしていて、そしてなにより、とても痛々しくて悲しかった。



 そうだ。鬼なんて……こんな、紅い鬼なんて――――



 死 ン デ シ マ エ バ 良 イ ノ ニ




 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 暗い暗い、それこそ暗闇しかなかった。

 腹に落ちてくるのは悲鳴と絶望、恐怖、諦め。最後は誰も残らず消えていった。


 永らくいて、最初に覚えた欲は食欲だった。生き物が俺の中で死に絶えるたびに、その者が最後まで強く抱いていた欲の一つだったから。


 その次に性、酒。そして名声に富。どれもこれも甘美な欲だった。それらは全て人間が抱いていた欲で、人間は様々な欲を俺に覚えさせた。

 

 金銭欲、物欲、色欲、権力欲、名声欲。

 それらを満たせれば、さぞかし極上の快感を味わうことが出来るのだろう。己という者を、存在を、強く感じることができるに違いない。そうこの混沌として怠惰な、鬱々とした倦怠が蠢くこの場所から出ていけると強く思った。


 今思えば初めて己の中で生まれた欲は、外への渇望だった気がする。



 だから永年の願いが果たされ、やっと丁度いい繋ぎが手に入り、好き勝手に出来る己の体を手に入れた時はそれは爽快だった。




 ……なのに何故だ。

 全て奪って満たし続けていたはずなのに。この虚しさは……この無欲感は……。

 寄りにも寄って、最も嫌っていたはずの日向に渇望するとは。



 あぁ……だが。最早どうでも良い。

 やっと手に入った。食い尽くせばやっと、己の渇きも収まる。 


 ずっと傍に置いてやろう。泣き叫んでも、心を塞いでも、手足を折ってでも。闇に染まろうとも傍に置き続けよう。


 こいつは俺と添い遂げるんだ……永遠に……




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 ……なに、今のは。

 今のは一体何だって言うの。


 明暗の暗さとは違う、もっと深い、何かが蠢く闇の底。

 そこでおぞましい声と孤独に満ちた、渇望した思い。それは願いというよりも、執念に近かったような。……あれは鬼さんの、心の中?


 いきなり自分に入り込んだ視点に動揺してしまい、気づかない内に抗うのやめてしまっていたようで、手足がだらりと布団の上に投げられていた。

 紅い鬼は抵抗がなくなったわたしをこれ幸いと、先程より深くわたしを貪っていた。それに気づき、瞬時に我に返る。


 ……ううん、そんなの、それこそどうだって良い。……わたしには、関係ないっ。


 そうよ、鬼さんのことなんてどうでも良い。鬼なんて苦しめばいいんだ! 鬼なんて消えてしまえばいい!

 わたしの前からいなくなってよ!


 首筋に顔を埋めている鬼の髪を掴んで、思い切り引っ張った。それでもやっぱり、鬼は身じろぎ一つしなく執拗に舌を這わしていた。


「放して! やめて!」


「……鈴音」


「わたしに触らないでぇ!」


 泣いて叫ぶと、耳元に鬼が口を寄せてくる。吐息が耳に掛かるたびに、ぞわりと背中が震えて気持ちが悪い。

 なんとかそれを振り払おうと首を左右に振れば、顔を押さえつけられる。


「鈴音。お前は俺のものダロウ? 俺のモノを好きにして何が悪い。大人しくしていれば手荒なマネなんざしないカナ。だから俺の眼を――」


「いい加減にしてよ! 鬼なんかこの世の中で一番大っ嫌いだ! 鬼なんかこの世からいなくなればいい! 死んでも一緒になんかなりたくないわ!」


 わたしの心からの叫びと、鬼のひどく歪んだ顔がわたしから離れたのと、それはほぼ同時だった。

 突然の閃光が走って、籠や部屋を一瞬にして真っ白な世界へさらっていった。

 目が眩むなんてものを通り越して、目を閉じているにも関わらず目蓋の裏は眩しく、目そのものがチカチカとして痛かった。

 

 わたしはどうなったのだろう。

 いつの間にかわたしを押さえ込んでいた圧迫感はなくなり、代わりにズキズキと頭や体のあちこちが強く打ったように痛かった。おかげで体を起こそうとしても、痛みが強すぎて動きたくても動けない。


 何が起きたんだろう。確かめたくても、頭が働かない。なんだか頭がくらくらする。思ったより頭を強打しているのか、だんだん意識が不安定になっていく。


 必死に神経を集中させれば、聞こえてくる何かの爆音と誰かの怒鳴り声。そして咆哮と破壊音。意識が遠くに流れていく中で、様々な大小異なる音が耳に入ってきた。


 うっすら目を開ければ、鬼の大きな背中が見えた。そして鬼に対峙するように見える、真っ白に輝く龍の様な姿も。

 もっとよく確かめたかったんだけれども、視界と意識をを維持出来たのはその一瞬で、すぐにわたしは気を失ってしまった。







 どれくらいの時間わたしは気絶していたんだろう。意識がのっそり起き上がれば、ふわりふわりと浮遊感がわたしを包んでいる。

 なんだか波の上に漂っているみたいで気持ちがいい。

 

「鈴音ちゃん」


 掛けられた声に目蓋が持ち上がる。なんだか辺りが明るいみたいで、わたしは何度も瞬きを繰り返した。


「……ここは、どこ?」


 まだ歪んでいる視界には満点の夜空。そしてわたしを覗き込むのは、綺麗な空に負けないくらい、整った綺麗な鬼女の顔。心配そうにわたしを見つめる彼女の顔をじっと見て、わたしはまた瞬きをする。


「時雨ちゃん?」


「うん。具合はどう?」


「ちょっと痛い」


 本当はちょっとどころじゃないのに、まだ呆けているのかそんな言葉が口から出た。少し頭をあげようとしたんだけれど、ズキリと痛みが走って断念する。


「まだ横になっていて。今私の屋敷に向かっているから」


「時雨ちゃんの?」


「そう」


 一度息を吐いて目を閉じる。ひどい脱力感が心にのしかかっている。痛む腕を持ち上げて、目の上に置く。


 なんだろう。全然頭が働かない。考えようとしても、体が痛いし、気持ちも凪いでいる。


「……わたし、鬼さんから逃げられたの?」


「うん。そうよ」


 こくりと小さな顎が頷いたのが見えた。

 それを見た途端、何故だかさらにどっと力が抜け、背中が密着している何かに吸い込まれていった。


 背中がふわふわしているということは、なにかの生き物か毛皮に横たわっているのかしら。状況を確認したいのに、今どうなっているのか知りたいのに。頭も体も、心も動いてくれなかった。


「疲れたでしょう、もう少し着くまでに時間がかかるから今は休んで。ね?」


「うん」


 わたしはゆっくり目を閉じた。

 とにかく今は眠ろう。それから色々話して、色々聞こう。今はとにかく……何も考えずに、寝てしまおう。


 引きずり込まれるように、夢に逃げようとしたその一瞬。目蓋の裏に紅い影を見た気がした。






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