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石崎さんから大家さんの小説をあげているサイトを教えてもらい、大家さんのペンネームも教えてもらった。大家さんのペンネームはビイビイといった。若い女の子のペンネームのようだが、そう言えば水本の弟が今、大家さんの使ってない方の浴槽で飼っているウシガエルの名前がビイだといっていた。
大家さんはやまぶき荘の一号室と二号室を使っているのだが、その二号室の風呂場の浴槽で水本の弟が、背中にアルファベットのBの字の形に黄色いイボがあるウシガエルを飼いはじめたのだ。
それでも大家さんが投稿を始めたのは三ヶ月ほど前だそうだから、ウシガエルより大家さんの方が先だ。そして、石崎さんによると水本兄弟は大家さんが小説を書いていることは知らないらしい。
「まあ、おかしいよね」石崎さんが言った。「直接この目で見たわけじゃないからどのくらい変かは想像だけど、水本の弟の髪が伸びるのが異様に速いっていうのも普通じゃないし、そんな背中に変な形にイボがあるカエルなんて自然界にはいなさそうじゃん。そう考えるとさ、やっぱこのコーポってみんな変わってるかも。木本さん以外」
曖昧な作り笑いをしてしまう私だった。「そんな…石崎さんと菜月ちゃんこそ一番ちゃんとしてます。私が今まで会った中で一番」
「えーーー。なんか嬉しいけど」
私は変だと自分でも思うし、私の心は結構暗い。
もう少し石崎さんの部屋に居たかったが、デザートまでいただき終わった後、小学生の菜月ちゃんがいるところに長居させてもらうのもはばかられ、お暇する。
部屋に戻って、大家さんの書いた小説も速く読みたいと思い、小説サイトで大家さんのペンネーム、ビイビイで検索しようとスマホを操作しようとしたら、ラインのメッセージに気付いた。
水本からだった。ラインを交換してもいないのに水本から…。
開くと、私と水本は三日前からラインしていた。
三日前!?
昨日は午後石崎さん親子がうちに来てくれて、一緒におやつを食べていたところに水本がやって来て、その時にカエルを見に来ないかと誘われた。見にはいかなかった。ドアも開けていない。モニターで水本と水本の後ろにいた髪の長い弟を見た。弟の方が気を使って誘うのを辞めるように促してくれたのだ。
駐輪場で会って挨拶をしたのは四、五日前。先週は一回私の職場の書店に、塾の講師の仕事で使う高校生用のテキストを見にきた。
最近で顔を合わせて話したのはそれだけ。私は水本と連絡先を交換してはいない。
ラインのメッセージは水本の、「よろしくねーー」からはじまり、それに私が、「よろしくお願いします」。
普通だ。普通の始まり。それから昨日、「これがビイだよ」とあって、クリーム色の浴槽にぷかりと浮かぶウシガエルの写真。
ほんとだ。背中にアルファベットのBの形に黄色いイボがある。
それに対して私が、驚いた顔のスタンプを送っている。
そして今日だ。水本から、「なんか急に曇って来て だいぶん暗い 帰り降らなきゃいいね」。「急に激しいの降り始めた! 僕は今日休みだからゆっくりカレーでも作っとくわ」。「良かったら一緒に食べよ!」。「いや雨すごいわ! 風も雷まで」。「一人でいたら寂しいし ちょっと怖いくらいだわ」。「心配だから仕事終わったら一応連絡ちょうだい」。そして私がやまぶき荘に帰り着く前くらいに、「春ちゃん?」
…これ、本当に水本本人かな。水本も確かに返信なかったから心配したと言っていたけれど、これは水本の振りをしたなりすましなんじゃないかと思うくらいに、今日は急にメッセージが入り過ぎている。スクショして石崎さんに送ってみたかったが止めた。昨日まで水本は石崎さんを好きだったのだ。なぜ急に私にこんなメッセージを送って来るんだろう。実際夕方も、水本は私のことを本気な感じで心配してくれていた。
確認の意味で水本に何か送ってみたらどうだろうかと思うが、それもなんだか怖くて出来ない。
目を瞑って考えて、そして私はスマホを再起動させたが、やっぱり水本とのやりとりはそのまま。
実際、身に覚えのないやり取りは怖いと思うのだが、そしてそのやり取りをした相手が壁を隔ててすぐ隣にいるのだが、「怖い」や「気持ち悪い」より「不思議だ」と思う感覚の方が強いような気がする。おかしいとは思うが、引っ越して来てからのそう長くはない期間にも、水本の人懐っこそうには見えても深くは立ち入り過ぎないところとか、石崎さんに対する一途な感じとか、水本の屈託のない爽やかなイケメンの外観が私にそう思わせているのだと思う。
人間て不公平だなんだろう。前に石崎さんも言っていたが、水本が脂ぎった不潔な中年より上の男だったら、小学生の娘を持つシングルマザーの石崎さんに近寄るのも気持ち悪いし、もちろん私だって今日のメッセージみたいなものが来ていたら、速攻逃げ出していただろう。
この世界の不公平さを思うと、私は暗い気持ちに囚われる。ここに引っ越してきてからは出さないようにしていた、良くない感情が出てくる。人は生まれて来た場所で、その後の人生も運もある程度は決まってしまう。水本のような生まれもって外見も良い、人から好かれる立場にいる人間と、私のようにどんな日の当たるところにいても暗い感じがする人間とはどうやっても交わることはないのだと思う。
私が幸せな幼少期を送れなかったのは私のせいではないのに、私は一生、それに囚われてしまっているのだ。囚われているからどんなに楽しいことがあっても、こんな楽しいことがあったら後で必ず嫌なことがあると考えてしまって、本当に嫌なことが起こる。そして、あーやっぱり、と思う。表には出さないようにしているけれど、ずっと他人を羨ましがって、ずっと他人を妬んできた。世の中の自分より不幸な人をずっと探しているのだ。
母が死んで、ここに一人でやって来て、石崎さんや大家さんの奥さんから温かく接してもらえてから、そういう気持ちも出来るだけ持たないようにと思っていたのに。
私はもう一度水本から送られてきたラインのメッセージを見た。三回繰り返して見ているうちにピロンとメッセージが入った。水本から、「おやすみ 明日は晴れたらいいね」
「ふえっ…」と一人で変な声を出してしまった。どうしよう!水本とのトーク画面を開いていたから瞬時で既読を付けてしまった!恥ずかしい、どうしよう!…と慌てても、もうどうしようもなくて、カエルがおやすみなさいを言っているスタンプを送ってしまった。
送ってしまった!と慌てているうちにまたすぐ水本から来た。ウシガエルのビイの顔のドアップの写真ともう一度「おやすみ」。
どうしよう。普通にやり取りをしている。
今、私にメッセージを送って来たのは、すぐ隣、壁の向こう側にいる本物の水本なんだろうか。




