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そもそもだ。おかしなことは昨日から続いていたのに。
大家さんの異世界どうたらという言葉、連絡先を交換していないのに水本との間で交わされていたラインの通知。大家さんが書いた小説を読んだ後に出て来たホームセンター・スパイラルの動画。気絶したように眠ってしまったことも、今朝キイと一緒に観た銀色のうずまきも。
そして極めつけ、職場の書店がホームセンター・スパイラルに変わっていた。
なんでもっと…。なんでもっと早く、と走りながら考える。なんで私はこのおかしさをおかしさとして受け止めなかったんだろう…。
大家さんの異世界どうたらの言葉も、七十四歳のコーポの大家の口から出て来るには変だなと最初は確かに思った。ネットで小説を書いていることも驚いた。でも石崎さんも知っていたし、そういう小説を書いているなら異世界の話くらいつい口をついて出るだろうと思ったのだ。歳をとっていてもそういう新しい感覚を持っているんだなくらいの感じで私も受け入れた。
連絡先を交換していない水本とのラインのやり取りも、もっと気味悪がるべきだったのになぜ、私は不思議がりながらも流したんだろう。そしてそれを石崎さんに相談したときにも、石崎さんを大好きな水本が私にこんな連絡をしてきたのを石崎さんに相談するのは気が引ける…、みたいな変な気の使い方をしたのもおかしい。
…私は嬉しかったんじゃないだろうか。石崎さんのことを好きな水本が私のことをまるですごく大事に思っているようなラインを送ってきたことが、気持ち悪いより先に嬉しいと思ったんじゃないだろうか。
もしあれが水本ではなく、どこかの知らない人だったらもっと断然、あらんかぎり気持ち悪がって、怖がっていたはず。水本だから私は不思議がりはしてもそこまで気味悪がらなかったのだ。
そしてこんな状況の中、私はなんだか自分が浮足立っているのがわかる。怖がってもいるし、すごく気持ちも悪い。それでも、そこまで切羽詰まっていないのはなぜなんだろう。
自分の想像を超えて来た変な状況に惑い過ぎて、どう対処してもいいかわからなくてヘラヘラしているだけなんだろうか。
バス停には誰もいなかった。
空は晴れたまま。今バス停の周りには人通りもないが、普通に車の往来はある。従業員の出勤時間とズレているとこんなものなのかもしれないが、人の姿が見えないことは気持ちが悪い。
息を切らしながらバスの時間を確認すると、五分後には来るようだ。良かった。二、三十分は待たなければいけないかと思った。
…いや、その五分後にやって来るバスは普通のバスなんだろうか。
乗ったら最後、さらに私の理解できない世界へそのまま連れていかれるかもしれない。
ジブリのネコバスみたいな…と考えて、なんて馬鹿なんだろう私はと思う。馬鹿だからヘラヘラして、まだ余裕があるのだ。
バッグからスマホを取り出して、水本とのラインを確認する。
やっぱりメッセージのやり取りはそのまま…。
あれ?…。水本のプロフィール画像が変わっている。…今朝見た時はウシガエルのビイだったはず。今は黄緑色の普通のカエル。確か…どうだろう…確か…確かだと思うのに曖昧な気がする。ビイではなかったとしても、今の黄緑色のカエルではなかったと思う。新しいカエルを飼い始めたんだろうかと、本当に今の状況にはどうでもいいことを考えてしまう。
頭をぶんぶん振ってその考えを追い出し、ラインを閉じる。
朝仕事に出て来るときには、休憩時間になったらに大家さんの小説の続きも読もうと思っていた。もう一度エピソード1を読んだら、ホームセンター・スパイラルの動画は出て来るだろうか…。
検索してページを開けたが…出て来ない。
出て来ないどころか、夕べと同じようにページの下の「つぎのページへ」がそもそもなかった。もう一度目次のページに戻って確認すると、夕べはエピソード3までは確かにあった記憶があるのに、昨日読んだエピソード1しかない。
大家さんが消したんだろうか。私に読んでおいてと言っていたのに、どうして消してしまうんだろう。…それともその記憶も曖昧で私の勘違いなんだろうか。
私の頭がおかしくなっているだけなんだろうか。
早くやまぶき荘に帰りたい。今私の身に起きていることを石崎さんに聞いて欲しい。菜月ちゃんは面白がってくれそうだけど、石崎さんは普通に聞いてくれるだろうか。今帰っても石崎さんは仕事中でいないはず。
今まで私がへんなコミュ障を出しても少し常識から外れたような行いをしても、石崎さんには嫌がる反応をされたことはないけれど、それでも今私に起こっていることをそのありのままで信じてくれるだろうか。気持ち悪いことを言い出したと思って、私のことを避け始めるかもしれない。
石崎さんに避けられたら嫌だな。すごく嫌だ。
昨日、水本が急に私のことを春ちゃんと呼び始めたことを話したときには、石崎さんはそれを何とも感じていなかったように見えた。あんなに石崎さんにアプローチしていた水本なのに。石崎さんが水本のことをなんとも思っていなかったからだと思ったけれど、大家さんの異世界の話をしても、石崎さんは大家さんのネット小説の話を知っていたからそれにも特別反応はしなかった。
だから石崎さんは、私の今日の話も受け止めてくれると思う。
…どうだろう。石崎さんに嫌われたら怖いけれど、それでも石崎さんに聞いて欲しい。他に聞いてくれそうな人が石崎さん以外にいないというのもあるけれど、もし他にいたとしても、私は石崎さんに聞いて欲しい。そしてどうして私にそういうことが起きているのかを一緒に考えてくれないかな。
…まあ話しながら、あまりにも石崎さんが引きはじめたら止めるけど。
だって本当は嫌われたくない。
あれ…もしかして…
やまぶき荘が消えててなにか他のものがそこに建っているってこともある?
…あるかも!あるあるあるある!
怖い。石崎さんに話をきいてもらいたいとかそういう次元の話ではもうなくなっているかもしれない。
帰ったらそこにはもう何もなくなっていて更地だけとか、全く違う豪華なマンションが建っているとか…。私だけが住む場所を失うのだ。昨日の明け方見た夢のように。
そして途方に暮れる。一人で。
バス来て!
私は願った。バスのやってくる方向に向かって。
早くバス来て!普通の、普通の私がいつも乗っているタイプの、普通に駅に着くバス来て!お願い!!
来た。
普通っぽいバス来た。
普通。たぶん普通。普通にいつもの制服の運転手さんも見える。もちろん運航しているバスは一台ではないから、乗るたびに側面や後ろの広告が違うけれど、それでもバスの正面にはいつも乗っている、『鳩川バス』のロゴと、水色の鳩が飛んでいるシンボルマーク。バスはバス停のすぐ横に立っていた私の目の前でブシューーーと音を立てて停まり、ブガシャッといつもと同じ音でドアは空き、運転手の制帽の真ん中にも同じ鳩のマークが小さく見えた。
乗るの?乗らないの?乗るの?乗らないの?乗って本当に駅に着くの?
一瞬のうちに何回も迷う。それにどうしたわけか、今すぐもう一度ショッピングモールの中に入って、書店が本当にホームセンターに変わっていたのか、他の専門店はどうなっていたのかを確認したくなったが、その考えは慌てて振り払った。
乗る。
私は今からこのバスに乗る。そして駅に着いたら自転車を劇漕ぎしてやまぶき荘に帰るのだ。




