おまけ1 板付き遺跡の説明はまちがっている。
先日、福岡市の板付遺跡を見てきました。
ここには写真が入れられないのですが、興味のある方は検索してみてください。
資料館に展示されてあるジオラマを見ますと、遺跡の中央に楕円形の溝が掘られてます。溝の内側にいくつかの竪穴式住居があります。その楕円形の溝が何なのかについては結論が出ていないそうですが、結論が出ないのは状況認識が間違っているからでしょう。
丸く囲んだ溝は防御のためのものです。ただし、敵は村の外にはいなかったようです。支配層である縄文人たちが溝の内側に居住し、奴隷であった弥生人たちは溝の外側に住んでいたのではないかと思います。
が、板付遺跡の説明員は溝があった時点では溝の外には人は住んでいなかったと言っていました。で、溝が埋められてから(弥生中期以降)は溝があったところの外側にも人が住むようになったと言っていました。
しかし、これは、調査の不備ではないかと思います。
発掘調査を行った人たちには、「環濠集落では、環濠の外には人は住まない」という固定観念があったと思います。
V字型の深い溝が丸く掘られていたのは、村の外に敵がいたから、というのも固定観念です。敵は村の中にいたのです。支配層は奴隷の反乱を怖れて自分たちの居住区を溝で囲んだのです。
もしも、村の外に敵がいたのなら時代が移って米の生産量が増えた段階で外敵の攻撃が激化するはずですが、この溝は弥生中期頃には埋められてしまってます。村の外には敵はいなかったのです。
アメリカに奴隷が連れられて来た際には、やはり奴隷の反乱があったようです。なので支配層は柵で自分たちの居住区を囲んでいたようです。が、時間の経過とともに奴隷の反乱はなくなったようです。奴隷たちも世代交代すると生まれたときから奴隷となり、奴隷としての境遇を受け容れるようになり、反乱しなくなるのです。同じ状況がこの板付遺跡でもあったと思われます。
尚、この楕円形の溝には一部別途に区切られている部分があります。これは作物を貯蔵していた区画だそうです。そして、これは、収穫した作物が個々の住人のものにはならず、集落全体の管理となっており、そこにいた支配者が分配を決めていた証拠でもあります。
ちなみに、この板付遺跡は工事現場で発見されたもので、発見された時点ですでに住宅街になっており、表面の土はすでに削られていて浅い穴の痕跡などは見つけられなかった可能性があります。支配層の住居は堅牢につくられていたでしょうが、奴隷たちの住居は粗末なもので、竪穴式住居の柱の穴も浅かったと思われます。
つけ加えておきますが、この遺跡の早期には溝はなかったようです。おそらく、その時点では水田稲作は縄文人だけで行われていたでしょう。で、ある程度の生産力ができたところで奴隷を導入したと思います。ある程度の生産力がなければ連れてきた奴隷に食わせる米がなかったでしょう。余力ができてから奴隷を導入して水田の規模を拡大したのだと思います。




