ここでは猫は好かれない
某小説投稿サイトを数年間眺めていて、一つ分かったことがある。
そこでは猫のような作品は好かれない。手っ取り早い評価が欲しければ、我々は犬にならなくてはならない。どういうことかを語る前に、まずは「犬」と「猫」への認識をすり合わせておきたい。
人間社会にありふれている動物を見回したときに、猫という種は異質に映る。一般的に、人が繁殖させている家畜・ペット等の原種には、「集団生活をする」という性質が共通してある。そうでなければ、一つの場所で集約的に面倒を見ることが不可能となり、繁殖が非効率的になるからだ。現に、狭苦しい家畜小屋・ケージから生を始めた生き物たちが、生死を問わず、我々の周りではよく見られる。彼らは人間にとって、「都合の良いようにされた」のである。
しかし、猫の場合はそうでもない。野生に生きる同属たちを見てみれば、チーター然りトラ然り、基本的には縄張りの中で孤独に生きている。例外としてはライオンが挙げられるものの、あれは一匹の雄を中心としたハーレム的な集団であり、同じ雄や他の家族と生活していくことは難しい。
では、なぜ猫は人間社会へ入り込み、人に愛されながら生きているのか?
きっかけは「利害の一致」であったと言われている。イエネコの原種であったヤマネコは、収穫した作物を狙うネズミを狩るために、人間たちの家で飼われ始めたらしい。別に彼らは、人間によって調教されたわけでも、無理に集団生活を強いられたわけでもない。単に、元来持っていた「ネズミを狩る」性質が、人間にとって「たまたま都合が良かった」というだけなのだ。
つまり、彼らは人間のために生態を変化させることはなかった。常に自分たちの利益を優先している彼らにとって、人は「主人」でなく「対等なパートナー」なのである。当然、犬のように、嬉しそうにしっぽを振ることもなければ、投げられたボールを懸命に追うこともしない。それでも、彼らには一目で分かる愛くるしさという武器がある。
ここで某小説投稿サイトの話に戻ろう。
私は「純文学」ジャンルを見に行くことが多い。個人的に好みのジャンルであるし、自らが書く作品の大半がその中に入るため、文章表現や文体においてインスピレーションを得ることが目的である。当然、その習慣が続いているのは収穫があったからだ。純文学ジャンルには、素晴らしい構成や表現技法で人を惹きつけるような作品が、宝の山のように眠っている。
しかし、相対的な話をすれば、そのサイトで純文学ジャンルは「不人気」だろう。人気なのはめっぽう、異世界ファンタジーや恋愛ものである。純文学は、それらの流行と食い合わせが悪いのだろうか?
もちろん、数多の賞賛を得ている作品もあり、その多くからは惚れ惚れとするような文章力を感じられる。一方で、投稿ジャンルのボタンを押し間違えていないか心配になるものもある。そのサイトにおける純文学ジャンルの定義は、公式によれば「純文学:芸術性に重きを置いた作品。」だそうだ。地の文で事実を羅列するだけが、果たして「芸術性に重きを置いた」ものなのか。大半がモノローグのみで構成されたものが、果たして「芸術性に重きを置いた」ものなのか。
そもそも、「芸術性」とは何なのか?
あらゆる文献やサイトを巡っても、その答えは一つに定まらなかった。では「性」を引き算してみて、「芸術」とは? 以下にデジタル大辞泉(小学館)より引用したものを記す。
『げい‐じゅつ【芸術】
1 特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。絵画・彫刻・建築などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・映画・舞踊・オペラなどの総合芸術など。「芸術の秋」「芸術品」
2 学芸と技術。』
純文学における「芸術性」の「芸術」とは、1の意味だろう。では、芸術の意味がはっきりして、芸術性のなんたるかが分かったかというと、そうではない。まだ、芸術の意味自体があいまいなのである。そういうわけで、ソクラテスのように疑問を繰り返してみる。
そもそも、「美」とは何なのか?
デジタル大辞泉(小学館)さん、またもや引用させていただきます。
『び【美】
[名・形動]
1 姿・形・色彩などの美しいこと。また、そのさま。「美の極致」「自然の織り成す美」
「―な感じのするものは大抵希臘ギリシヤから源を発して居るから」〈漱石・吾輩は猫である〉
2 非常にりっぱで人を感動させること。「有終の美を飾る」
3 哲学で、調和・統一のある対象に対して、利害や関心を離れて純粋に感動するときに感じられる快。また、それを引き起こす対象のもつ性格。「真善美」「美意識」
4 味のよいこと。うまいこと。また、そのさま。
「―なる飲食をも悪しき飲食をも」〈今昔・三・二六〉』
辞書的な定義を眺めてみると、「美」という言葉には二つの流れがあるようだ。
一つは、外的・形式的な「美しさ」。形や色、調和の取れた構成、文の滑らかさ、いわば、見た瞬間に整っていると感じられるもの。もう一つは、内的・本質的な「美」。そこには必ずしも調和はなく、むしろ、歪みや痛み、矛盾すらも含みうる。結局のところ、受け手に与えるインパクトの「絶対値」を指すらしい。
……まだまだあいまいである。
整っているって何? インパクトって何?
こういう問いを続けても、堂々巡りになる予感しかしない。それは多分、明確に定義できないものが語の定義に含まれているからだ。その正体は人によって異なる、いわゆる美的感覚なのだと思う。
「芸術性に重きを置く」というのが「美に重きを置く」ことであるならば、一つ疑問が生じてくる。先程述べたように、美を美とする感覚は人によって異なるのである。では、純文学に求められる「美」は誰にとってのものなのか? また、同じように「美」を求めている純文学作品の中でも、どうして評価の高いものと低いものに分かれてしまうのか?
日本における純文学賞の代表例として、かの有名な「芥川賞」がある。かの賞をもらえば、それは高く評価された純文学作品ということになる。当然、賞名の元となった芥川龍之介はみなさんご存じだろう。権威主義的かもしれないが、彼の作品を元に、上記の疑問を解決したいと思う。
彼の作品、「羅生門」や「蜘蛛の糸」等では、人の感情の負の側面がまざまざと描かれている。まあ、絶対にないとは思うが――仮にあなたの目の前で、老婆が死人から髪を抜いていたとする。普通に嫌な気持ちになって、こんな光景見たくなかった、と後悔するかもしれない。そんな状況が、小説というフィルターを得て、臨場感ある名シーンへと早変わりする。なぜだろうか。
それは、野生種が家畜化されていく行程と似ている。
生々しい負の感情は猛牛のように恐ろしいだろう。当然、実際に対面することは望まない。しかし、小説というフィルターを通すことで、現実の不快や痛みは威力を弱める。迫力は感じつつも危害はない、かわいらしい牛さんになるのである。そうして、安全圏からその強烈な印象に心を揺さぶられる。
思うに、芥川は「美を制御した」のだろう。彼は感情をそのまま叩きつけるのではなく、構成や文体によって、読者が受け止められる形へと整えていた。現実の不快や痛みを完全には消さず、それでいて、読者が安全圏から凝視できるように調整する。まるで野生の獣を飼い慣らすような行程を経て、彼は醜悪の中に秩序を与えた。
つまり、芥川は読者と共有可能な「美」を設計したのである。その結果として、多くの人々が同じ方向に感動しうる「最大公約数的な美」が立ち現れる。ここに、「誰にとっての美を求めているのか」という問いへの、一つの答えがある。我々は、個人の内にある「美」を求めながらも、結局は他者と共有できる「美」によって評価される。評価の高い純文学作品が支持されるのは、作者の感性が、他者の感性と部分的に重なり合うからである。
そう考えると、純文学にも「読者ウケ」的な要素が潜んでいることに気づく。評価を得ようとすれば、自然と、他者にとって何が刺さりやすいか、どんな文を書けば喜ばれるかを考えるようになる。必ずしも純文学は、孤高で個人主義的ではない。異世界ファンタジーや恋愛ものと、目指す先は同じだろうが、そのアプローチが異なるのだ。前者はストーリーラインや設定で読者を満たそうとし、後者は文章表現で同じことを試みる。どちらも、読者という共同体に向けて作品を差し出しており、両立することだって可能である。
このように、読み手の視点へと寄り添い、彼らの期待を汲み取ろうとする姿こそが、最初に述べた「犬」である。
では、「猫」とは何か。犬である方が評価されやすいなら、我々は猫のような作品を書いてはいけないのか? 猫はその可愛さで人を惹き、何千年も愛され続けてきたのに?
逆である。
私はむしろ、猫らしさが増して欲しいとすら思っている。
まず、何をもって「猫」とするのかをはっきりさせよう。
猫は我々に媚びない。こちらを見上げることも、忠誠を誓うこともない。気まぐれにこちらへ歩み寄り、気に入らなければ背を向ける。だが、その一瞬の仕草、伸びをする背中の曲線、陽だまりの中で瞬く瞳に、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。そこには、誰かへ応えるために作られた「愛らしさ」ではなく、ただ存在することそのものの「美」がある。
猫のような作品も、同じだと思う。
読者の歓声を計算していない。都合よく泣かせようともしない。気まぐれに文を綴り、時にぶっきらぼうで、時に恐ろしいほどの静寂を孕む。そういう作品は、万人には受け入れられないかもしれない。だが一瞬、作者と目が合ったかのように感じられた瞬間が、二度と忘れられない。こちらの心を引っ掻いてきても、不機嫌に鳴いてきても、その野性味こそが読む理由なのである。
最近の作品には、読者への配慮が見られるものがしばしばある。
もちろん、元々そういった文体を用いている作者もいるだろうから、ひとくくりにするつもりはない。ただ、一文ごとに無理矢理改行したり、文章・段落間に過度な空白を設けたり、どんな漢字にもルビを振っていたり、そういう文体と会うたびに、ほんの少しだけ息苦しくなってしまう。
「読まれやすさ」というものは、過度に追求しても逆効果となる。我々は読書の後に一定の疲れを覚えてしまうだろう。もちろんそれは、肉体的な疲労もあるだろうが、一番は他者の視点・価値観を取り入れることによる精神的な疲労なのではないか。それでも意義を感じるからこそ、我々は読書を続ける。そう考えると、読書の本質と「読みやすさ」は無関係であり、むしろ慣れない「引っかかり」こそが重要に思える。そういった読みづらさの中に、言葉の手触りや、思想の芽が現れるのではないか。
無菌的な作品で、どうして心が動かされるだろう。従順な人間ばかりと関わっていてもつまらないように、たまには自分と馴れ合わない、猫のような作品を読みたくもなる。
だから、猫であることは決して悪ではない。
好かれづらいのは事実かもしれないが、それは裏を返せば、芯を貫いて「形を変えなかった」という誇りでもある。犬が忠誠によって人と生きてきたように、猫は自由によって人と共存してきた。どちらも人の側にいたのだ。ならば、純文学ジャンルにも両者が共にあっていい。
現在の某小説投稿サイトでは、犬派が大半を占めるようだ。
それも無理はない。投稿されている作品数は星の数に近く、目に入りやすいのは「懐っこい」作品、「群れる」作品ばかりだ。素直で親しみやすく、読者に語りかける文体は、他者との共感を得やすい。それは決して悪いことではない。犬の存在が読者を惹きつけ、某サイトの裾野を広げてきたのも事実である。
ただ、その陰に隠れてしまう猫たちがいる。静かで、気まぐれで、わがままで、時に読者を突き放すような作品たちだ。彼らの中には日の光を目指して、犬にならんとする者も現れる。けれども、私のような猫派がいることも忘れないで欲しい。決して猫らしさを恐れないでいて欲しい。あなた方の「美」は、共有可能なのである。
本エッセイの批評を別作品「(地獄へ)背中を押すエッセイ」で行っています。決して、当作品の内容が、全創作者へ向けた普遍的な主張でないことをご理解ください。




