桜
いつもの離れで目を覚ました筈が、どうやら少し違うらしいと気づいた。
空気は灰色で世界に色が無い。
空気は滞り、それは時の静止でもあった。
音はなく、息もない。誰かの気配はどこからも感じられない。
「私は…いよいよ死んだのか」
誰も、その問いに答えない。
自分の体を見下ろし、驚いた。
「何だ、これは。子どもの手か」
どうやらアキムラと似た大きさになっている。しかし見える景色はいつもと同じで、視界が低いことは無かった。布団の中で身を起こしている状態とは言え、だ。
「おかしいな。ここは何だろう」
忙しく頭を振ってみるが、何も無い、いつものものが居並ぶばかりで少し気味が悪い。
いつもの部屋が豹変して見えることに怯えていた。
不意に、一陣の風が吹いた。
それは開け放った障子から入り込み着物をさらった。
「…なんと」
風がさらったのは、中庭の桜の梢もだった。重そうに花をまとった桜が騒いで、時が揺らいだ。音が生まれ、そこに確かな存在を感じた。
「桜や、お前はどうしてこんなところにいるんだ」
季節外れの花の盛りほど興ざめるものはないと、先人が書いたこともあったが、自分には魔性の輝きを放つ妖しのものに思われるような、ぞっとする誘いに感じられた。
唾を呑み桜に見入った。
桜は冷たく見返した。
来たいか、と桜は手を伸ばす。
めきめきと音をたてて、枝が部屋へ入り込む。それを恐ろしく思って、咄嗟に部屋の奥へ逃げると、意外にも枝はすんなり引き下がった。
来たくないのか、と桜は色を翳らせた。
来た方が、幸せだと憐れんだ。
それもそうかも知れない、と心は首肯する。何せずっと苦しんで、苦しんで、迷惑ばかりかけて生きてきたのだ。そろそろ周りも解放されたいだろう、と思う。
切なさがこみ上げて顔を伏せる。
誰にも望まれない生だった。
いや、期待されていたのを、自分が見事に裏切ったのだ。望みを体現出来なかった。
「死にたいよ、死にたい。もうあんな苦しさは味わいたくない」
惨めで、ぼろぼろで、誇りなんか持てるはずもなく、自尊心も身を攻める苦痛が忘れさせた。
「何で、何で生きていたんだろう。そう、私はもっと早く死ぬべきだったのに」
可哀想に、可哀想な子と桜は泣いた。
愛でてくれる人のいない春はどんなに寂しいだろう、と花を散らした。
春、春、暖かな心と名を持つ者を助けたいのだよと桜は言った。
この花を愛でてくれたそのお礼だと、釣り合わない贈り物をしようとしてくれる桜は、やはり妖の者のように、自ら光輝き、そして視界を光で埋めつくした。
目いっぱい美しく、咲き誇ると、桜は吹雪を起こして散った。
「ああ…ああ、散って…」
桜吹雪の中で、言いようのない悲しさと、寂しさに襲われた。
それはまるで、相棒に先立たれるようで。
慰めに眺めた桜は、やさぐれた心を癒してくれる無条件の愛情を向けてくれた。
いつもいてくれたのに、きっともう桜は散ってしまう。
そんなに悲しまないでと桜は微笑む。
私の本体は別にあるから、会いにおいでと。
「きっと、きっと会いに行くから」
眩しさに目を灼かれ目を瞑っても、どういうわけかそこに広がっていたのは暗闇ではなく光を透かす瞼だった。