童女
日増しに夏らしく、日差しが強くなってきて、脆弱な身にはしんどい季節が深まりを見せる。
蚊が、開け放った戸から出入りするので、武骨者にはいささか派手にも思われる垂れ藤の蚊帳を張ってもらった。
紫の染料は高価だ。こんな自分が使わせてもらうのは気が引けた。だが、あつらえたのは父だと言うので、きっと主のお気遣いで下賜いただく前に、それなりの物を使わせておこうと考えたのに違いない。
「ツネハル様。口を開けてください」
「嫌だ…赤子でないのだから」
「ツネハル様がご自分で召し上がってくだされば、ムツもここまでしないのですがね」
「…気分が悪い。食べる気などせぬわ」
「それは、もう三日も腑を空っぽにさせているからですよ」
「三日前から食べる気はせん」
「ツネハル様、駄々をこねないでください。心配で、ムツは寝られません」
「夜の寝苦しさのせいだから、きっと気のせいだ」
「どうしてそう、意地をはるのですか。堪忍してくださいよ」
「……喉を通らないのに、どうしろというの」
気温が上がるにつれて、食欲は同じだけなくなっていく。毎年(主にムツ)の悩みの種だ。
鉛を飲み込んでいる気がする。それ以上、何かが入ってくることを良しとしない。
入っても、もたれるに違いなかった。
「では、通るものなら、良いのですね?」
「…ああ…」
そのせいで、ムツとは毎日不毛な論争を繰り広げなければならない。
ただでさえ、体力は底をつく寸前だというのに、だ。
今の身で、喉を通る食べ物があると思えず、うんざりしたので適当に返事をした。
ムツはすぐに、部屋を出ていった。
「勿体無いから、いいと言うに」
家にそこまでの余裕がないのは知っている。
自分のために食べ物をいたずらに浪費するのは嫌だった。
魂か抜け出そうなほど、深いため息が出た。
床から伝わる揺れでか、弾んだ声でか、諌める声でか、それともそれら全てにか、叩き起されて、泥のように滞った部屋の重たさに、開けるのも億劫な瞼を押し上げた。
アキムラの元気のいい足音だ。
「アキムラ…?」
それと、知らない足音。
アキムラよりも軽やかで、柔らかい音だった。
「お止めください、姫様!」
「ナツサダ、何がそんなにいけないの」
ころころと笑う少女の声がした。
ひめさま、とはどなただろうかと、働かない頭で記憶を辿ってみるが、思い当たる名はない。
いや、それよりも。
「兄上…?」
ナツサダは、兄の名だ。
しかし、この足音はアキムラのものに似ている。
ぼんやりしていた頭に、銅鑼が鳴り響いた。
頭が冴え渡って、それから、蚊帳の向こうのお客人を見た。
「…ひっ…!」
なぜだか怯えられた。
ふっくらとした白い頬と、艶やかな長い黒髪。束ねない振分髪が肩にかかって、それほど幼い方ではないと知る。
そしてなんと言っても、纏う衣は見事としか言えない上質な反物であった。
こんな子どもに金糸を使うとは、この童女は相当な御家の御息女だと一目でわかる。
「はしたなくもこのような姿でのご挨拶、ご容赦ください。私は相模ツネハルと申します。失礼ながら、姫のお名前をお教えくださいますまいか」
どうしてかムツが側に控えておらず、支えてくれる人がいなかったので、無礼を承知で、蚊帳越しに、重ねた敷布団にもたれた態勢のまま聞いたところ、童女は目をぱちくりさせながら、
「…四条貴政が長女、四条翠である。そなたのことは、存じておったが…」
口から出たのは、歳に似合わずその身分に相応しい厳かな名乗りで、少女はその場に、裾を整えて、正座をした。
「四条!?これはっ…何という御無礼を!」
金糸も使うわけである。
主の御息女と判明した。
みっともないと言っている場合ではない。
敷布団を押して、片手を床につき、久方ぶりに自らの力だけで上体を起こした。
「今まで賜りました数々の御温情、この身にはあまりにもったいのうございます。ありがとうございます」
頭だけ下げるのは無礼にも程があるが、深々と下げるには力が足りない。肘が今にも折れそうなのだ。
どうしてもっと、鍛えておかなかったのかと後悔しても、後の祭りだ。
「無理して起きずとも良い。そなた見るからに死にかけではないの。私が居た堪れない。楽にせよ」
「…面目、こざいませぬ」
顔から火を噴けそうだ。
こんな幼い子どもにさえ心配されるとは。
「先程はごめんなさい。その、見たことのない、やつれ具合で、驚いてしまって。」
「お目汚しを」
「…ナツサダが、見せたがらないわけだわ。私は、いつも乳母にお転婆だと叱られる。体に障るだろうと考えても仕方のないこと」
そうであろ、と少女は顔を背けた。
誰かが、戸の影に隠れて立っている。
誰なのかは見当がついた。
「私はこんな病人の前で走り回るほど、阿呆ではないぞ」
「…失礼致しました」
苦々しそうな、兄の声。
とても緊張している自分がいた。
「兄上も、お久し振りでございます」
「…ツネハル」
戸の影から出てきた兄は、目が合うと、決まり悪そうに目を伏せてしまった。
少し寂しく、心臓がチクリと痛む。
姫に視線を戻すと、姫は目を丸くして兄を見上げていたが、こちらの視線に気がつくと顔を整えて微笑を浮かべた。
「さてはこやつ、そなたの元へ来ておらなんだのか」
急に、姫の声音に怒気が含まれたのを、驚いていると、
「忙しさにかまけて、離れに来なかったな?」
笑ったまま、能面のように気味の悪い顔をする姫は、明らかに兄に向かって話しかけていた。
「あんまり必死に止めるものだから、何かと思えば、ナツサダ。そなたがここへ、来たくなかっただけなのだな?全く」
すっ、と姫は立ち上がり、代わりに兄をその場に据える。
「来なかった分の埋め合わせをしなさい。それまでは戻って来ることを許さぬ。よいな」
姫は、冷気をまとって、静かに母屋へ戻って行った。
正直、父並みに怖かった。
残された兄は不貞腐れた猫のように、背を丸め、胡座をかいて、そっぽを向いている。
きっと夏の暑さにやられたのに違いない。
そうでなければ、こんな兄は有り得ない。アキムラが見たら別人だと思うだろう。
「兄上、アキムラから聞きました。上様にまで上がったとか…アキムラも鼻が高いと嬉しそうでしたよ」
「…ああ」
「あまり、無理はなさらないでくださいね。あんまり、家を空けられますと、アキムラの元気がなくなって困ります」
「…そうだな」
「少しは、収まりましたか、お忙しさは」
「…ああ、前よりは」
「そうですか。私はここで、こうしているしか能がありませぬ。兄上をお支え出来れば良いのですが…」
返事はそっけなく、見るからに不機嫌な兄に話しかけ続けるのも限界がある。話題が尽きる。さてどうしたものか、と思っていたところ、適当に笑っていたそれで唾が変なところへ入って派手に咳き込んだ。
「…っすみ……ませ…」
間が。間が悪すぎる。
内心、穏やかではない。
今この瞬間に、兄の中で、自分は話もろくに出来ない死にかけに決定したに違いない。
「!!」
外れて欲しい予想は大体当たっているもので、兄は腰を浮かせ、止まり、辺りを見渡してムツがいないことに舌打ちをする。
「…大丈夫か」
兄は堪忍して、蚊帳をくぐって、こちら側に来た。
「…へいっ…げほげほっ…です…」
「平気じゃない、全く」
兄が、昔の武道場でしてくれたように、ぎこちなく背をさすってくれる。
昔と同じで、ごつごつとした硬い手のひらだった。大きさも、厚みも増して、立派な男の手に成長している。
自分と兄との違いを、いや、自分と他者との違いを、感じずにはいられない。
高みを目指して進み続ける兄と、そんな兄を追いかけるアキムラ。
歩き続ける勇気を持たず、その場に立ち止まって兄弟たちの後ろ姿が遠ざかるのを、見つめるだけの自分。
あの日から兄は、もっとたくさんの努力をしてきたのに違いない。佇まいにも、落ち着いた雰囲気にも、確かな才と自信が滲む。
惨めで、恥ずかしくて、とても兄の顔を見られそうにない。
「…すみません、ありがとうございました。もう平気です、本当に」
一度咳き込むと、自分の生来の質のせいか、なかなか止まらず、咳が止んでも、喉がひうひうと笛を吹く。
肺が軋んだ。体の中で、ぎいぎいと鳴るのが外に漏れてやしないかと、怖くなったが、兄は何も言わなかった。
兄は手を離し、そのまま蚊帳の中で胡座をかいた。
「ツネハル」
静かな、いつもの声で兄は自分の名を呼んだ。背筋を正してしまいそうな、隙のない、完璧な兄の声だった。
「はい」
「最近、殊に具合が悪いと聞いた。私は、どうしたらいい」
一転して、兄の声は、迷うような、困っているような、沈んでいるような歯切れの悪さで、朽ち行く弟を気にかけ、いや寧ろ気に病んでさえいるようだった。
忙しい兄の手をこれ以上煩わせたくない。
何も出来ない身で、憐れみばかりを浴びる身が情けなく、惨めで、いい加減嫌気が差す。
いっそさっさと死んでしまいたいとさえ思った。でもそれは、日々労を惜しまず尽くしてくれるムツに対する酷い裏切りだとも思った。
「…兄上が、気になさることではありませぬ。」
粘っこく掠れた声は、やけに明るく、冷ややかで、言ってからしまったと口を噤んでも時遅く、兄は沈黙した。
「兄上は、ずっと、上を見ていてください。私はそんな、兄上に憧れたのです」
羽ばたけない鳥を見捨てられる兄を。
地のことに目もくれず、大きな翼を広げてひたすら高みを目指して羽撃く鳥を、眩しさに目を細めて見上げては誇らしさで胸がいっぱいになった。
あれは自分の兄だぞ、と。誰より強く、努力家で、才能溢れる人が兄であるのが嬉しかった。
そんな兄が、自分のような、薬代と手間ばかりがかかる、消すに消せない、実に不愉快な一族の汚点に違いない自分に煩わせられるなんてことは、兄にとっても、自分にとっても、得はない。
兄を煩わせる自分の居場所がなくなるだけだ。
「私に構わないでください、兄上は、兄上の、務めを果たすべきです」
「何、勝手なことを…!」
初めて、兄が声を荒らげた。
「お前が拗ねているのを俺を理由にするな!まるで死ぬみたいな言い方をするが、ムツはお前のために四方手を尽くしていると言うのに、お前がそんなでどうする。ムツが知ったら…」
「兄上、それ以上は許しません。私が兄上に迷惑をかけているとわかったら、周りが私を許すとお思いですか。今でさえ、息を潜めていなければならないのに、居場所がなくなったら」
一度、言葉を切って、ゆっくりと息を吸っては吐いた。
緊張か、激昴か、興奮して拍動が速まる。胸が絞られる心地がして酷く苦しい。
心の乱れは体の気を乱す。常に冷静に、安静に、湖面のように、医者は自分に毎度言い聞かせる。
「…これ以上…っ惨めな気持ちを味わえと、仰いますかっ…!」
「ツネハル、頼むから、心を静めて」
胸が押し潰されていくのを、浅く、速い呼吸が悪化させ、いつもどうして息が吸えたのかと怖くなる。医者はこれを言っていたのだと、わかっていないわけではないけれど、ならないとわからないことも多い。
「…っ…ぅ…ひっ…ぅう…っヒィ」
「ツネハル」
苦しくて、堪らず、知らず上体がずり落ちる。布団に伏せた背中を、兄は撫でては静かに名前を呼ぶ。
「ツネハル、俺の配慮が足りなかった。済まない。今度、仕事を持ってくるから、ムツに手伝ってもらうといい。だから、きちんと、飯は食べておくのだぞ」
まただ。
また自分は兄に気を遣わせて、この身では返せないほどの恩を被っている。
永くないと知りながら、意味無く存在することに耐えられないのは、合理的だけでは納得しない感情のせいなのだろう。
必要とされたい。
自己満足でも、誰かの役に立っているという感覚がなければ、人は生きてはいけないらしい。
心臓だけがやけに熱い。
無力感に不甲斐なさが重なって、とめどなく溢れ出てくる。
「ツネハル…?」
荒い呼吸が治まらず、自分の制御下を離れた体が暴れ始める。
こうなるともう、薬も効かない。
酷い咳が出て、手で抑えたら、鼻と口から血が吹き出して、霧状に布団へ飛び散った。
我ながら、自分がここまで悪いとは知らなかった。酷く具合が悪かったが、医者は黙っていたらしい。
「お前そんなに…っ!辛かったのなら早く言え!ここには誰もいないのに」
一瞬、逡巡した後、兄は掛布を引っペがして、骨身をそっと抱き上げ、蚊帳をめくり、ふと放り投げた掛布を自分の頭から被せて抱き上げた弟の姿を隠した。
「許せよ、ここより母屋の方がまだいい」
踵を打ち鳴らして歩く兄は、いつかの父と同じ歩き方だった。