父上
赤子ならば、易々と抱き上げて部屋を移すことも出来ただろうが、十の子どもともなると手間がかかる。
その分、処置が遅れるのは良くないと、医者は道場に呼ばれて、武道場に転がったそのままに上衣を剥がされた。
「ツネハル様。この爺、呼ばれます度に身を削られる心地が致しますわい」
生まれつき臥せることの多い自分を、昔から支えてくれているご老人で、主の御温情なのだと後に聞いた。
それも父が疎ましく思う理由だったに違いない。
名家の出だと堅苦しい人物になりがちだが、職業柄か、生来の質なのか、つい顔が緩んでしまう道化のような面を持ち合わせる。爺にかかれば、苦しくて、死がちらついて怖くても、凝った心がほぐれていく。
「……すまないな」
「…謝られるのも、いい心地ではありませぬな。もちっと、安静にしていただければ、それで済むのですがね」
「……そう、するよ」
今までの、武道にしがみついててこでも動かなかった自分を知る老医者は、さっぱり、拍子抜けする潔さで諦めた自分に眉を寄せた。
ある意味病気に見えなくもない。
「これはまた、素直になられまして。安静にしてくださるのは、良いことですが」
それだけでは収まりのつかない不安と心配が、喉元までこみ上げて、飲み込もうか、吐き出そうか、迷っているようだった。
身の程を弁えなかった自分を恥ずかしいと思っていたし、あまり詮索されたくなかった。とりあえず笑って誤魔化しておこうと思うのはこの頃から変わらない。
兄が声を上げたのはとても助かった。
「爺、どうなのだ。ツネハルはもういいのか。」
焦れた兄が、脇から言葉を挟んできた。
兄はせっかちだ。多忙な毎日を送る兄にとって、少しの間も耐え難い無駄と感じるようである。
「ええ、ナツサダ様。一応の処置は終わりましてございます。」
「それは大丈夫と取っていいのか」
「左様。すぐに呼んでくださいましたので、大事に至らず済み、ようございました」
爺はしわを寄せて、人好きのする笑みを見せた。
爺の返事を聞き、兄が腰を浮かせた時だった。
「ナツサダ」
武道場の戸口から、低く、不機嫌な声が飛んだ。桜の古株のようでいて、苔に覆われた大岩のようだった。
「父上」
兄が呼んだ。兄の従者は揃ってひれ伏す。
兄も膝をつき、爺は居住まいを正した。
自分はというと、のたのたと起き上がって慌てて前を合わせ床に額をつけた。
とてつもない緊張に包まれた大気には、少しの物音も許されなかった。
「ここで何をしている」
父の声が朗々と響く。
大声で責めるでもない。
酷い言葉で罵るでもない。
ただの静かな問いに、誰も動けない。
父は、この館においては絶対の規則だ。父の意に背くことは、決してあってはならない。
冷や汗が流れ、威圧が胸を締め上げる。
「これはかなり、お怒りのご様子」
兄がさりげなく父の視線を遮った。父と自分の間に身を滑り込ませ、茶化すようにこっそりと、自分にだけ聞こえるような小さな声で鋭い怒気の切っ先を折った。
この気遣いを、今まで気がつかずにいたのだとしたら、自分はなんて施しようのない馬鹿者だろう。
父の鋭利な怒りを一身に浴びてなお凛と伸びた兄の背中を見上げて、湧いてきたのは可笑しさだった。
ついさっきまで、おのれは、届くと信じて疑わなかったのだ。この人に。
爺は兄と弟の様子を見て何か察するところがあったようで、父から見えない死角で自分に笑いかけた。
子どもの成長を無条件に喜ぶ祖父の顔だった。
「ナツサダ、師匠がお出でだ。以後気をつけよ」
「はっ」
父は兄に隠れる自分を一瞥し、ため息を吐いた。
「ツネハル。大人しくしていなさい。お前の我儘に付き合えるほど、ナツサダは暇ではない」
「はい、父上」
一番痛いところを突くのは兄と同じで、兄は父に似たのだなと、逃げるように別の思考へ走った。恥は死ぬほどではないが、生きてはおれない居た堪れなさがある。
父はそれから、羽織を翻して踵を返した。床が低く軋む。踵が床を打ち鳴らす音は、その場に居ることを厭うかのようだった。
兄の背中から盗み見た父の後ろ姿は、大きくて、強くて、一族の誇りを一身に背負う、孤独な背中だった。漢の揺るぎない意志と覚悟を滲ませる、そんな背中。
兄の研ぎ澄まされた鋭さとは違う、立ちはだかる壁のような貫禄。
「父上を、怒らせてしまいました」
「…にしては、笑っているな」
「そうですか?」
「降る身を考えろ。鬼の如しだ」
兄が大げさに吐いたため息が、らしくなくて、けたけたと笑えば、兄も目元を和らげてうっすらと笑った。