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第二話:【継承】北斗老師と、星を紡ぐ指、3 濁る星影と、釜の底の叫び


静謐を極めていた山頂の空気に、ある夜、決定的な「不純物」が混じった。


劉海がいつものように一文銭の穴を通して天空を仰いでいた時だ。銭の真ん中に静止していたはずの北斗七星の光が、まるで水面に落とされた墨汁のように、じわりと黒ずんで見えた。


 空そのものが濁ったのではない。星から降り注ぐ「光の糸」そのものが、粘り気のある嫌な重みを帯び始めたのだ。


「……っ!」


劉海の指先を、鋭い痛みが走った。


 編みかけていた星の紐が、これまでの清涼な銀色ではなく、腐った泥のような鈍色にびいろに変色し、生き物のように劉海の腕に巻き付こうとした。


熱い。


凍てつく雪山において、その「欲の熱」は、焼けた鉄を押し当てられたような異質な苦痛だった。


「老師、これは……!」


劉海が声を上げると同時に、部屋の中央にある石の釜が、凄まじい音を立てて鳴動し始めた。


 カラン、カラン、カランッ!


 中に沈められていた何百枚もの一文銭たちが、まるで逃げ場を失った虫のように激しく跳ね回り、釜の内壁を叩いている。その音は、もはや清らかな金属音ではなかった。何千人もの人間が、暗い牢獄の底で皿を叩き、飯を乞うているような、呪詛に近い不協和音だ。


北斗老師は、かつてないほどに険しい表情で立ち上がった。


 彼の白い髪が、逆立つように揺れている。


老人の目は、劉海ではなく、さらに南の――数千里先にある江南の空を凝視していた。


「……膨れ上がったか。食らいすぎて、ついに器が割れたな」


老師の言葉と呼応するように、庵の外で「ドォォォォン……」と地響きが轟いた。


雪崩の音ではない。それは、この大地そのものが、あまりの「欲の重さ」に耐えかねて悲鳴を上げている音だった。


「劉海、見よ。天の川が歪んでいる」


促されて空を仰ぐと、満天の星々が、まるで大きな渦に吸い込まれるように、南へと向かって細長く引き伸ばされていた。


 本来、天の理に従って巡るはずの星辰が、地上の強大な引力に引きずり下ろされようとしている。


それは、江南の湿地に潜む五通神が、単なる魔物の域を超え、世界の均衡そのものを食らい尽くそうとしている予兆だった。


「奴はもう、人の金銭を食らうだけでは満足せぬ。人の『時間』を食らい、人の『縁』を食らい、ついにはこの星々の『光』さえも、己の蔵に収めようとしているのだ」


釜の中から、一枚の銭が劉海の足元へ弾け飛んできた。


 その銭は、老師から渡された清らかな磨き銭とは違い、赤黒い錆に覆われ、触れてもいないのにドクドクと心臓のように脈打っている。劉海は、その錆びた銭の中に、かつて自分が都で見捨てた、ある貧しい一家の絶望が封じ込められているのを直感した。


「私の……。私の犯した罪が、あそこで呼吸をしている」


劉海の全身から、かつてないほどの冷や汗が噴き出した。


 指先に宿り始めていた仙人の感覚が、この世のどろりとした執着に汚染されていく。


 釜の底からは、じわじわと「黒い霧」が溢れ出し始めていた。


それは、あの江南の湿地を包み込んでいるという、正気を失わせる毒霧の走りに他ならない。


老師は、編みかけの銀の縄を劉海の手に無理やり握り込ませた。


「時間が惜しい。劉海、修行はここまでだ。お前の指先が、まだこの銀光を覚えているうちに、山を降りろ」


「ですが老師、まだこの縄は完成して……!」


「完成させるのは、山を降りた先だ。この縄に足りないのは、天の光ではない。地を這う者の『覚悟』よ」


老師の背後で、庵の壁に大きな亀裂が入った。外の地吹雪が室内に吹き込み、青白い燐光をかき消していく。


 異変は、もはやこの聖域さえも安全な場所ではないことを告げていた。


 劉海は、荒れ狂う風の中で、南の空に浮かぶ、血のように赤い不吉な星――五通神の胎動を暗示する凶星を、真っ向から見据えた。


運命の歯車が、一気に加速し始めていた。


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