2、当て馬妻と家出②
「……………。」
「思い出して頂けた様で何よりです」
やってしまった、と無言で項垂れるクラヴィルに、グレゴリーを現状を正しく報告する。
「もしかして、あの後からずっと出て行ったままなのか?」
「いえ、仕事をこなしてから出ていかれました。あと、社交で"公爵夫人"が必要な時は呼び出して欲しいとのことで、伝言石をお預かりしております。なので、必要であればご連絡はつきますよ」
使用制限付きですが、とグレゴリーは魔道具を取り出す。ステイシーの登録を済ませたそれを置いて行ったという事は、本当に必要時は公爵夫人として働くつもりなのだろう。
「レモングラスと生姜のブレンドティーです。疲労回復効果がございますよ」
グレゴリーはにこやかに告げ、爽やかな香りのお茶を差し出す。
「ちなみに奥様の置き土産です」
グレゴリーが言うので。
「……嫌味にしか聞こえない」
美味しいけど、と一口飲んだクラヴィルは沈んだ声で感想を漏らした。
あなたの望む理想的な妻ですよ、とステイシーからこれ見よがしに言われているようで。
ッチと舌打ちをし、頭を掻いたクラヴィルに、
「旦那様が嫌味をご理解なさるようになるとは、奥様は本当に偉大でございますねぇ」
しみじみつぶやくグレゴリー。
「お前はどっちの味方だ。第一、公爵夫人が家を出るなんて有り得ないだろ」
引き止めろよ、とジト目で訴えるクラヴィルの睨みなど、どこ吹く風。
「私も結婚契約書を拝見したのですが、理由がなくて」
お引き止めできませんでした、とグレゴリーはいけしゃあしゃあと返事をする。
「理由がない、って」
結婚したら家にいるのは当たり前では、と眉を顰めるクラヴィルに、
「恋愛に興味がなく、放置されても文句を言わず、煩わせず、干渉せず、使用人を使わずに自分の事は自分でできて、必要時はパートナーとして公務を果たせるだけの教養を兼ね備えている相手、という旦那様の要求を元に公正証書を起こしておりますが"同居"の項目がどこにもないのでございます」
既に敷地内別居ですし、とグレゴリーはステイシーに居住スペースとして与えられている"離れ"を指差す。
それは結婚の際クラヴィルが自身で整えるよう指示したもので、ステイシーは初日から今に至るまでそこに住んでいる。
「旦那様の要求は全て呑まれてますし、公爵家に誰かを招くことがない以上、公爵夫人としてこの場で持て成す仕事は発生せず、またこの時期旦那様は長期遠征に向け大変お忙しいので夜会にもご出席なさりません。仮に発生しても、対応する意思を奥様が示されている以上、契約違反にはならないかと」
グレゴリーから澱みなくスラスラと説明され、クラヴィルはぐぅの音も出ない。
ステイシーは結婚条件を言い放った当人よりもこの契約内容を熟知しているらしく、また元々彼女の方が上手なので本気を出されたら敵う気はしない。
『私も当初の取り決め通りにさせて頂きますね』
そう言ったステイシーはいつも通りに見えたけれど。
「怒ってるなら、怒ってるっていつもみたいにあの場で言えよ」
理不尽と言われようが、八つ当たりと言われようが、そう思わずにはいられない。
コルセット片手に締めてみるか? と言ってきた時も。
アイスにコーヒーをぶっかけてきた時も。
いつもなら嬉々として応酬してくるくせに。
何で今このタイミングで、と。
「いえ、アレは怒っているというよりも……」
とグレゴリーは言いかけて口を閉ざす。
『一度冷静になりたいの。わがままを言ってごめんなさいね』
と本当に申し訳なさそうに謝罪を口にして、カバン一つで公爵家を後にしたステイシーの姿を思い出したグレゴリーは、
「いうよりも?」
解せない、という表情で先を促す主人を見て、出過ぎた事は言うまいとグレゴリーは静かに首を振る。
「長年、坊ちゃんにお仕えしておりますが。私としても忍びなかったのです。これ以上、奥様の善意に甘んじるのは」
「……坊ちゃん言うな」
幾つだと、と久しぶりに聞いたフレーズに不貞腐れた様に返すクラヴィルに、
「これは、老婆心なのですが。最近、ようやくパートナーらしくなってきたお二人を見て、爺やとしては喜んでいたのですよ、これでも」
「何だそれ」
「ただの説教ですよ、坊ちゃん。掛け違えたボタンは、時間が経つほど戻すのが困難になりますよ、と」
坊ちゃん、と呼ぶグレゴリーの低い声に昔を思い出しクラヴィルの背は自然と伸びる。
「よかったですね、旦那様。別居婚、理想通りではございませんか。叶えてくださる奥様もそうおりますまい。公爵家としては、どちらでも構いませんよ。何一つ困っておりませんので」
どうぞごゆっくりお過ごしください、と配膳と報告を終えたグレゴリーは恭しく礼をして去っていく。
クラヴィルのために用意された温かい食事も。
ちょうどいい温度の湯船も。
掃除の行き届いた部屋も。
全部、完璧で。いつもと何も変わらなかったけれど。
「……屋敷はこんなに、静かだったか?」
寝る前にクラヴィルの口から溢れたつぶやきに、答えが返って来ることはなかった。




