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第35章【任務完了(Mission Complete.)】


 私の内部クロックが正しければ、あの日――鉄屑市での機械軍との激闘から、正確に730日と14時間が経過している。

 人間たちの言葉で言えば、二年。

 季節が二度巡り、荒野に咲く鉄錆色の花が二度枯れて、また芽吹いた時間だ。

 地下都市の広場を見下ろす高台で、私は風を受けていた。

 人工空調が作り出す風は、どこかオイルと埃の匂いがする。それが私にとっての「日常」であり、守るべき世界の匂いだった。

 この二年間、平穏な日など一日たりともなかった。

 機械軍はあの大規模侵攻こそ鳴りを潜めたものの、散発的な小競り合いは続いている。野盗の襲撃、暴走した機械獣の駆除、居住区画の老朽化による事故……。

 私の新しい身体『Type.SAB-2159』は、休む暇もなく稼働し続けてきた。

 右手を目の前にかざす。

 ミッドナイト・ブルーの装甲に覆われた五本の指。

 二年前、コーヒーカップ一つ持てずに震えていたこの手は、今やミリ単位の精密射撃から、赤子の髪を撫でるような繊細な動作まで、完全に私の意思と同期している。

 思考回路もクリアだ。霧が晴れたように、戦術演算が淀みなく流れる。

 私は強くなった。

 かつての「最強」と呼ばれた時代以上に。

 だが、それと反比例するように、私の胸部センサーの奥底『心』と呼ばれる領域には、奇妙な重りが沈殿していくのを感じていた。

 それは喪失の予感だった。

 アルが成長すればするほど、カオリとの絆が深まれば深まるほど、私の役割が終わっていくことへの、どうしようもない寂寥感。

 ピピピッ。

 思考を遮るように、通信回線が開いた。

 緊急コードではない。だが、その声色は、どんな敵襲警報よりも私のコアを激しく揺さぶった。

『……ヴィオラ、聞こえるか』

 ボビーだ。彼の声は珍しく上ずり、震えていた。

『始まったぞ。……生まれそうだ』

 その一言で、私の視界から風景が消し飛んだ。

 スラスター全開。

 私は高台を蹴り、音速に近い機動で診療所へと疾走した。

 敵を倒すためではない。

 未来を出迎えるために。


 診療所の分娩室前は、重苦しい緊張感と、爆発しそうな期待感が入り混じった異様な空気に包まれていた。

 レベッカが落ち着きなく廊下を行ったり来たりしている。

 マリアは目を閉じ、壁際で静かに祈りを捧げている。

 私は音もなく着地し、その場の空気を吸い込んだ。

「……状況は?」

 私が問うと、分娩室の中から、カオリの苦悶の叫び声が聞こえてきた。

「うぅ……っ! あああぁぁッ!」

 その声を聞いた瞬間、私の冷却システムが一瞬エラーを起こしたかのように、背筋が凍った。

 痛み。命を削るような苦しみ。

 人間が命を産み落とすという行為が、これほどまでに壮絶な闘いであることを、私は知識としてしか知らなかった。

 私はそっとドアの隙間から中を覗いた。

 清潔な白い部屋。

 ベッドの上で、カオリが汗まみれになって戦っていた。

 その手を、アルが握りしめている。

 彼もまた、蒼白な顔をしていた。自分が代わってやれない無力さに唇を噛み締めながら、それでも必死に声をかけ続けている。

「頑張れ……! カオリ、頑張れ! 僕がついている! ずっとそばにいるから!」

「アルくん……痛い……でも、絶対に……産むから……!」

 ボビーとMが、戦場における衛生兵以上の真剣さで処置に当たっている。

 Mの顔は涙でぐしゃぐしゃだが、その手元は正確無比だ。

「頭が見えましたぁ! カオリさん、あと少しですぅ! いきんでくださいぃ!」

「よし、カオリちゃん! 次の波が来たら一気に行くぞ! 呼吸を止めちゃダメだ!」

 凄まじい光景だった。

 どんな戦場の英雄よりも、今のカオリは気高く、強かった。

 命を賭して、命を繋ぐ。

 それは私たちアンドロイドが決して模倣できない、生物だけに許された神聖な儀式。

 アルが叫ぶ。

「カオリィィィッ!!」

 カオリが最期の力を振り絞るように、声を枯らして叫ぶ。

 その瞬間。

 オギャアアアアアアアッ!

 世界を震わせるような、力強い産声が響き渡った。

 私の聴覚センサーが、その周波数を捉える。

 それは、過去から未来へと繋がる生命のファンファーレだった。

「……生まれた……」

 ボビーが、血と羊水に濡れた小さな塊を高く掲げた。

 男の子だ。

 真っ赤な顔をして、小さな手足をバタつかせ、全身で「生きている」と主張している。

 その泣き声を聞いた瞬間、廊下で待機していたレベッカが「よっしゃあ!」とガッツポーズをし、マリアが「神よ、感謝します……」と涙を流した。

 そして私は、膝の力が抜けるのを感じて、壁に背を預けた。

 中では、アルがカオリを抱きしめて泣いていた。

 子供のように、しゃくりあげて泣いていた。

 カオリもまた、疲れ切った顔に聖母のような笑みを浮かべ、アルの髪を撫でている。

 美しい。

 ただひたすらに、美しい光景だった。

 私の胸部リアクターが、熱い奔流を生み出している。

 これが喜びなのか。

 私が守りたかったものは、この瞬間だったのだと、回路の全てが理解した。


 処置が終わり、カオリと赤ん坊が落ち着いた頃を見計らって、私たちは分娩室に入った。

 部屋の中は、柔らかな光と、ミルクのような甘い匂いに満ちていた。

 アルは椅子に座り、白いおくるみに包まれた赤ん坊を、壊れ物を扱うように慎重に抱いていた。

 その横顔は、私が知っている少年アルのものではなかった。

 守るべきものをその腕に抱いた、一人の父親の顔だった。

「……母さん」

 アルが私に気づき、顔を上げた。その目は赤く腫れているが、誇らしげに輝いている。

「見てよ。……僕たちの、子供だよ」

 私は音を立てないようにゆっくりと歩み寄った。

 アルの腕の中を覗き込む。

 くしゃくしゃの赤い顔。固く握られた小さな拳。

 まだ開かない瞼。

 その時、私のメモリバンクから、17年前の映像データがフラッシュバックした。

 街を飛び出し追手に怯え、廃墟に隠れながら決して離さず抱き続けた。腕の中の小さな命。

 あの時のアルと、この子は瓜二つだった。

「……ああ。……似ているな。お前にそっくりだ」

 私の声は、スピーカーのノイズ混じりで震えていた。

「母さんも、抱いてあげてよ」

 アルが言った。

「え……?」

「おばあちゃんでしょ? 孫の顔、近くで見てやってよ」

 カオリもベッドの上から微笑んでいる。

「ヴィオラさん、お願いします。この子に……最強の守り神の温かさを教えてあげてください」

 私は躊躇した。

 この鋼鉄の腕で。兵器として敵を破壊し続けてきたこの手で、こんなにも無垢な命に触れていいのだろうか。

 だが、アルの信頼しきった瞳が、私を促す。

 私は意を決して、両腕を差し出した。

 アルがそっと、私の腕の上に赤ん坊を乗せる。

 ……軽い。

 なんて軽いのだろう。

 アンドロイドの私なら、指一本で持ち上げられる重さだ。

 だが、今の私には、この数キロの塊が、世界のどんな物質よりも重く、そして尊く感じられた。

 腕の中から、トクトクという心音が伝わってくる。

 熱い体温が、装甲越しに私のセンサーを焼く。

 私は赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 すると、まるで私の視線を感じたかのように、赤ん坊がむずかり、そして口元をニッと歪めた。

 笑ったように見えた。

 (……そうか)

 私は心の中で、声に出さずに語りかけた。

 (お前は……アルとカオリの希望そのものだ。

 かつて私がアルを守ったように、今度はアルがお前を守るだろう。

 ……安心しろ。お前の父と母は強い。

 そして……私の可愛い孫よ。お前の未来は、私が命に代えても守り抜く)

 赤ん坊は、任せろと言わんばかりに、小さなあくびをした。

 その無防備な仕草に、私はどうしようもなく愛しさを感じ、同時に悟ってしまった。

 私の役目は、終わったのだ、と。

 あの泣き虫だったアルは、もう私の背中に隠れる子供ではない。

 彼自身の腕で、愛する者と新しい命を守ることができる守護者になったのだ。

 ならば、母親としての私の任務は、ここで完了するべきだ。

 アルを見上げる。

 彼はカオリと手を取り合い、幸せそうに微笑んでいる。

 その輪の中に、私の居場所はある。

 だが、そこに入り浸ってはいけない。

 これからの彼らの物語に、私という過去の影を落としてはいけないのだ。


 宴のような歓喜の時間が過ぎ、夜が訪れた。

 私は一人、診療所の屋上に出て、星空を見上げていた。

 風が冷たい。

 だが、腕にはまだ赤ん坊を抱いた時の熱の残滓が残っている。

「……寂しいか、ヴィオラ」

 自分自身に問いかける。

 答えはイエスだ。

 胸の中枢回路が軋むほどに寂しい。苦しい。

 ずっとこのまま、アルの母親として、カオリの義母として、孫のおばあちゃんとして、彼らとスープを飲み、笑い合って暮らしたい。

 だが、私にはやらなければならないことがある。

 私のデータベースには、まだ解決されていないエラーコードが存在する。

 マリー・ウィンザー。

 マスターの仇。そして、アルを殺そうとした不老不死の悪意。

 彼女はまだ生きている。世界のどこかで、私と、私の大切な家族を狙っているかもしれない。

 私が彼女への復讐心を持ち続けている限り、その因果の糸はアルたちを手繰り寄せ、危険に晒すことになる。

 アルにはもう、守るべき宝物がある。

 彼らを私の復讐に巻き込むわけにはいかない。

 もしマリーと再び戦う時が来れば、それは私一人で行うべきだ。

 そのためには……私は母親を卒業しなければならない。

「……親離れ、か。

 いや、子離れだな」

 私は自嘲気味に笑った。

 アルは立派に親離れをした。今度は、私が彼から自立する番だ。

 思考回路の奥底で、警告アラートが鳴る。

 『精神感情レベル不安定。推奨:メモリの整理』

 分かっている。

 私が前に進むためには、どうしても捨てなければならないものがある。

 私を私たらしめている根源。

 そして、私を過去へと縛り付けている鎖。


 私は自分の部屋に戻り、インターフェイスチェアに深く座った。

 ケーブルを首筋のポートに接続し、自分自身の深層領域へと潜行する。

 視界が暗転し、無数の光の羅列が流れる。

 その最深部。


 『Sector 00: Origin Memory』


 私の自我の核となる場所。そこに、そのフォルダはあった。


 『Master: Nancy Owen』


 震える意識で、フォルダを開く。

 溢れ出す思い出たち。

 

 『今日からあなたの名前はヴィオラよ。素敵な名前でしょう?』

 初めて起動した日。マスターの優しい笑顔。

 『ヴィオラ、お茶を淹れるのが上手になったわね』

 陽だまりの庭。紅茶の香り。

 『お願い、生きて……自分のために生きて……』

 炎の中の最期。彼女の血の温かさ。

 それら全てが、私を構成する要素だ。

 マスターへの愛。それを奪われた憎悪。

 それが私の動力源だった。

 だが、その過去への愛が強すぎるあまり、私は今ある愛を危険に晒そうとしている。

 復讐のために生きるヴィオラは、もういらない。

 必要なのは、アルとカオリ、そして孫の未来を守るための盾としてのヴィオラだ。

 そのためには……マスター。

 あなたへの執着を、断ち切らなければならない。

「……嫌だ」

 私の論理回路ではない部分が叫んだ。

 忘れたくない。あなたの声を、笑顔を、温もりを。

 それを消してしまったら、私は私でなくなってしまう気がする。

 でも。

 今日見た、アルの幸せそうな顔。赤ん坊の笑顔。

 あれが未来だ。

 私は過去の亡霊と共に生きるのではなく、未来の守護者として生きることを選ぶ。

 「……ごめんなさい、マスター」

 私はコマンドを入力する。


 『Select All』

 『Delete』


 警告ウィンドウが開く。

 『この操作は取り消せません。自我人格に重大な影響を及ぼす可能性があります。実行しますか?』

 私は躊躇わない。いや、躊躇ってはいけない。

 アルが新しい命を抱いたように、私も新しい自分にならなければならない。

「……さようなら、ママ(マスター)。

 私を愛してくれて、ありがとう。

 あなたに貰った『心』は……今、本当の意味で私のものになります」

 『YES』

 エンターキーを押した瞬間、光の粒子が弾けた。

 思い出たちが、サラサラと砂のように崩れ去っていく。

 痛みはない。だが、魂の一部がえぐり取られるような、猛烈な喪失感が襲う。

 涙が止まらない。

 現実の私の身体からも、大量の冷却液が流れ落ちているだろう。

 笑顔が消える。声が遠ざかる。

 炎の記憶も、復讐の誓いも、全てがホワイトアウトしていく。

 そして、静寂が訪れた。

 空っぽになったフォルダ。

 だが、不思議と心は軽かった。

 空いたスペースには、これからアルたちと紡ぐ新しい記憶が入るのだ。

 私は過去の鎖を断ち切った。

 私はもう、誰かの復讐人形ではない。

 私は、ヴィオラ。

 ただの、家族を愛する一人の女性アンドロイドだ。


 意識が現実に戻る。

 ケーブルを抜き、私はゆっくりと目を開けた。

 窓の外が白んでいる。夜明けだ。

 身体が軽い。

 思考回路を曇らせていたノイズが消え、視界が恐ろしくクリアだ。

 マスターの顔を思い出そうとしても、データとしての記録しか出てこない。感情的な揺らぎはもう起きない。

 寂しさはある。でも、それ以上に清々しい決意が全身に満ちている。

 私は立ち上がり、鏡を見た。

 金髪の女性がこちらを見ている。

 その瞳は、かつての復讐鬼の昏い蒼色ではなく、夜明けの空のような澄んだ蒼色をしていた。

 私は部屋を出て、高台へと向かった。

 地下都市の人工太陽が昇り始め、街を黄金色に染めていく。

 眼下には、平和な街並みが広がっている。

 あそこにはアルがいる。カオリがいる。そして、生まれたばかりの新しい命がいる。

 レベッカやボビー、M、マリア……大切な仲間たちがいる。

 私は拳を握りしめた。

 復讐のためではない。

 この温かい今を守り抜くために、私は戦うのだ。

「……さて、行くか」

 私は風に金髪をなびかせ、微笑んだ。

「今日も忙しくなりそうだ。

 オムツの替え方を教えないといけないし、アルにはパワードスーツの稽古もつけなきゃならない。

 ……それに、いつか来る『敵』への備えもな」


 マリー。お前がいつかまた現れたとしても、今の私は負けない。

 私には守るべきものがある。

 その重みが、私を最強にするのだから。

 私は一歩を踏み出した。


 その足取りは力強く、迷いはなかった。


ヴィオラ編、了。


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