表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/36

第34章【鋼鉄の濁流】

 鉄屑市の教会の朝は、皮肉なほどに美しかった。

 ステンドグラスの破片を通して、七色の光が古びた寝室に差し込んでいる。

 その光の中で、僕は、ベッドの縁に座り込み、両手で顔を覆っていた。

 部屋には、甘く重い残り香が漂っている。


 マリアさんの匂い。そして、昨夜の情事の匂い。


 隣には、もう彼女はいなかった。早朝、僕が目を覚ます前に部屋を出て行ったのだ。

 シーツに残る皺とわずかな温もりだけが、あの背徳的な夜が夢ではなかったことを告げていた。


「……僕は……なんてことを」


 罪悪感が、二日酔いのように頭をガンガンと殴りつける。


 カオリの顔が浮かんだ。

 彼女は僕を信じて送り出してくれた。ずっと待っていると言ってくれた。

 それなのに、僕はその信頼を裏切り、欲望と弱さに負けてマリアさんを抱いた。

 どんな言い訳も通用しない、最低の裏切りだ。

 ギィ、と扉が開く音がした。

 顔を上げると、いつもの修道服に身を包んだマリアさんが立っていた。

 その顔には、昨夜の妖艶な色はなく、慈愛に満ちた聖女の表情が戻っていた。

 ただ、その瞳の奥には、僕と同じだけの痛みが宿っていた。


「……アル君。悔やんでいるのですか?」


 彼女は静かに歩み寄り、僕の前に立った。


「……はい。僕は、カオリを裏切った。取り返しのつかないことをしてしまった」


「ええ。それは事実です。貴方は罪を犯しました」


 マリアさんは厳しく、しかし優しく告げた。

 そして、僕の震える手を両手で包み込んだ。


「ですが、それは私も同じ。貴方の弱さにつけ込み、私の孤独を埋めるために貴方を求めた……私の罪です。だから、一人で抱え込まないで。この罪も、罰も……二人で背負いましょう」


 彼女の手の温かさに、僕は泣きたいような衝動を覚えた。

 共犯者。その言葉が、今の僕には唯一の救いだった。


 その頃、遠く離れた地下都市でも、別の焦燥が空気を焦がしていた。

 地下リハビリセンター。


 「……くっ、あああッ!」


 ガシャァァン!!

 ヴィオラが叫び声を上げ、手に持っていたセンサー素子を握りつぶした。

 繊細な指先の力加減を訓練するための機材だったが、彼女の怪力制御がうまくいかず、鉄屑に変わってしまったのだ。

 金色の髪を振り乱し、ヴィオラは肩で息をする。

 その美しい新型ボディ『Type.SAB-2159』は、性能が高すぎるがゆえに、ヴィオラの意思に対して過敏に反応しすぎてしまう。


「なぜだ……!?なぜ指一本、思うように動かせない!」


 彼女は自分の手を見つめ、歯噛みした。

 アルは外で戦っているかもしれないのに。自分はここで、積み木遊びさえまともにできない。


「ヴィオラ、落ち着け」


 ミリンダの声がインターホンから響く。


「……すまない。だが見てくれ、これでは戦うどころか……」


「その件ではない。緊急事態だ」


 司令室のモニターが赤く点滅する。

 ミリンダの声色が、氷のように冷たく硬くなった。


「長距離レーダーが敵影を捕捉した。方位南西、距離150キロ。鉄屑市へ向かっている」


「なんだと……!?」


「規模はピースウォーカー数百機。……偵察ではない。完全な殲滅部隊だ」


 ヴィオラの顔色が変わる。

 鉄屑市にはアルがいる。そして、罪のない多くの人々が住んでいる。


「行かせてくれ!私なら……!」


「ダメだ。今の状態で出撃させれば、お前は自壊するだけだ」


 ミリンダは非情に告げた。


「救援隊を出す。指揮官はレベッカ、医療班にボビー。そして……現地誘導と通信担当にカオリを向かわせる」


「カオリを……?」


「ああ。彼女の分析能力と、アルとの連携が必要だ。ヴィオラ、お前の愛機『ブルーエクレール』も輸送する。パイロットは……アルだ」


 ヴィオラは一瞬息を呑み、そして強く拳を握りしめた。

 自分の不甲斐なさを呪いながらも、息子に全てを託す決意を固める。


「……分かった。頼む、カオリ。アルを……あの子を支えてやってくれ」




 鉄屑市に、不穏なサイレンが鳴り響いていた。

 地平線の彼方から、砂煙と共に黒い津波が押し寄せてくる。

 機械軍の主力兵器、無人機動兵器『ピースウォーカー』の大群だ。

 その数、目視だけでも三百機以上。

 対して、鉄屑市の自警団の武装など、豆鉄砲にも等しい。


「アルくん!」


 広場に到着した地下都市からの高速輸送機から、カオリの声が響いた。

 ハッチが開き、カオリがタラップを駆け下りてくる。

 その姿を見た瞬間、僕の胸に鋭い痛みが走った。

 真っ直ぐな瞳。僕を案じる表情。

 昨夜の自分の行いが、汚泥のように心に広がる。


「……カオリ」


「無事でよかった!敵が来るよ。……アルくん、お願い。この街を守って!」


 彼女は僕の手を握った。その手は震えていたが、温かかった。

 何も知らない彼女の信頼が、今は何よりも痛い。

 でも、だからこそ、戦わなければならない。


「……分かった。必ず守る」


 僕は彼女の手を握り返し、そして意を決して告げた。


「カオリ。この戦いが終わったら……聞いてほしいことがあるんだ。僕の、話」


 カオリは一瞬、きょとんとして、それから僕の顔をじっと見た。

 女の勘だろうか。彼女の瞳に、不安の色が流れる。

 だが、彼女は気丈に微笑んで頷いた。


「うん。……待ってるね」


 輸送機のカーゴベイから、重厚な駆動音と共に、蒼い巨人が姿を現した。

 ヴィオラの愛機『ブルーエクレール』。

 片腕は修復され、装甲も磨き上げられているが、その魂は母さんのものだ。


「行きなさい、アル君」


 背後から、マリアさんが声をかけた。

 彼女は既に戦闘装備になっていた。


「今の貴方なら、その機体を……スペックを100%引き出せます。力ではなく、理で操るのです」


「はい、マリアさん」


 僕はマリアさんと視線を交わした。

 言葉はいらなかった。


 『生きて帰って、罪を償いなさい』という彼女のメッセージを受け取り、僕はブルーエクレールのコクピットへと身を躍らせた。


 ハッチが閉じる。

 母さんの匂いがする。

 メインモニターが起動し、無数の敵影を赤くロックオンしていく。


「行くぞ、ブルーエクレール!母さんの代わりに……僕が、みんなを守る!」


 スラスターが火を噴き、蒼い稲妻が空へと舞い上がった。


 戦闘は、一方的な蹂躙で始まるはずだった。

 機械軍の圧倒的な物量の前に、鉄屑市は数分で地図から消えるはずだった。

 だが、その予想を一機の青い機体が覆した。


 ズドォォォォン!!

 先頭を走っていたピースウォーカーが、爆音と共に粉砕された。

 ブルーエクレールが、敵の隊列の中央に着地していた。


「速い……!」


 後方で指揮を執るレベッカが、モニターを見て舌を巻く。

 アルの操縦は、ヴィオラのそれとは全く異なっていた。

 ヴィオラが「圧倒的な出力と反射神経」で敵をねじ伏せるスタイルだとしたら、アルの動きは「流水」だった。


 敵の砲撃を最小限の動きで回避する。

 すれ違いざまに、関節部やセンサーアイなどの急所を正確に貫く。

 無駄なエネルギー消費がない。

 まるで、数百機の敵の動きがすべて見えているかのように、死の舞踏を踊っている。


(見える……! 敵の思考ルーチンが、回路の動きが!)


 コクピットの中で、アルの感覚は研ぎ澄まされていた。

 マリアさんとの死闘で培った「観察眼」と、新人類としての超感覚。

 それらが、ブルーエクレールという最強の機体を通じて具現化している。


 ガガガッ!

 三方向からの同時攻撃。

 アルはスラスターを逆噴射し、空中で独楽のように回転。

 遠心力を利用した回し蹴りで一機を粉砕し、その反動で跳躍、上空から別の一機の頭頂部をパイルバンカーで貫く。


 一騎当千。

 まさに鬼神の如き強さだった。

 しかし。

 現実は非情だった。


「くそっ……減らない!?」


 アルが叫ぶ。

 倒しても倒しても、砂煙の向こうから新たな敵が現れる。

 数の暴力。

 個の強さがどれほど突出していようと、それを圧殺するだけの物量が機械軍にはあった。


「アル!右翼が突破されたわ!市街地へ入られる!」


 カオリの悲鳴のような通信が入る。

 随伴していた味方の無人ピースウォーカー部隊は、既に全滅していた。

 アル一人では、広大な防衛ラインを支えきれない。


 ドォォォォン!

 市街地の一角で爆発が起き、黒煙が上がる。

 民家が踏み潰され、思い出の路地が炎に包まれていく。


「やめろぉぉぉッ!!」


 アルは機体を反転させ、市街地へ向かう。

 だが、敵の主力部隊がその背後を容赦なく撃つ。

 ブルーエクレールの装甲が悲鳴を上げる。警告アラートが鳴り響く。


(守れないのか……?こんなに力を手に入れたのに……!)


 焦りが操作を乱す。

 その時、市街地の防衛線で、黒い影が舞っているのが見えた。

 マリアだ。

 彼女は生身で、対物ライフルと爆薬を駆使し、侵入してきたピースウォーカーの足を止めていた。


『アル君!前だけを見なさい!後ろは……私たちが守ります!』


 通信機越しではない。マリアの強い意志が、直接響いてきた気がした。


 戦闘は夕刻まで続いた。


 最終的に、機械軍は「鉄屑市の主要施設の破壊」という目的を達成したと判断したのか、あるいはアルというイレギュラーな戦力による損耗を嫌ったのか、潮が引くように撤退していった。

 残されたのは、瓦礫の山と化した鉄屑市だった。


 家々は崩れ、黒い煙が空を覆っている。

 ブルーエクレールは広場に降り立った。機体は傷だらけで、エネルギーも底をつきかけていた。

 プシュゥゥゥ……。

 ハッチが開き、アルが外へ出る。

 空気が焦げ臭い。

 

「……みんな……」


 アルは絶望しかけた。街が、死んでしまった。

 だが、地下シェルターの重厚な扉が開き、そこから人々が出てきた時、その思いは覆された。


「けっ、派手にやりやがって!」

「俺の店がペチャンコだぜ。ま、建て直す手間が省けたか!」

「おい、誰か鉄骨運ぶの手伝え!いい素材がいっぱい転がってるぞ!」


 住人たちは生きていた。

 誰一人、死んでいなかった。

 そして、家を失ったことなど意にも介さず、既に復興へと動き出していた。

 この街の人々は、鉄屑のように逞しい。何度踏み潰されても、形を変えて蘇る。

 その光景に、アルの目頭が熱くなる。

 守れたんだ。建物は壊れたけれど、一番大切な「人の営み」は守れたんだ。


「アルくん!」


 カオリが駆け寄ってきた。

 煤で顔を汚し、服も破れているが、怪我はないようだ。

 彼女はアルの無事を確認すると、安堵の涙を浮かべて抱きつこうとした。


「カオリ……待って」


 アルはその手を制した。

 カオリが立ち止まる。


「……話があるって、言ったよね」


 アルは拳を握りしめ、真っ直ぐにカオリを見た。

 夕日が、二人の影を長く伸ばしている。

 ここからが、アルにとっての本当の戦いだった。


「ごめん。僕は……君を裏切った」


 アルは包み隠さず話した。

 マリアへの憧れ。弱さ。そして昨夜、彼女と一夜を共にしてしまったこと。

 言い訳はしなかった。

 ただ事実を、自分の罪を告白した。

 カオリは静かに聞いていた。

 表情を変えず、ただじっとアルの目を見ていた。

 周囲の喧騒が遠のき、二人だけの世界になる。

 話し終えたアルは、頭を下げた。

 罵倒される覚悟だった。軽蔑され、振られる覚悟だった。


 パァンッ!!

 乾いた音が響いた。

 アルの左頬に、熱い衝撃が走った。

 顔を上げると、カオリが手を振り抜いた体勢で立っていた。

 その瞳から、大粒の涙が溢れ出していた。


「……バカ」


 カオリの声が震えていた。


「バカ!アルくんのバカ!……どうして、もっと頼ってくれなかったの!?私がいるのに……私じゃ、アルくんの寂しさを埋められなかったの!?」


 彼女は怒っていた。

 浮気をしたことよりも、アルが一人で苦しみ、弱さを他の女性に見せたことに。


「……ごめん。カオリ……ごめん」


「……もう一回」


 パァンッ!

 今度は右頬を叩かれた。

 痛みと共に、カオリの想いが流れ込んでくる。


「これで……チャラにしてあげる」


 カオリは泣きじゃくりながら、アルの首に腕を回し、強く抱きついた。


「許してあげる。……だって、アルくんが悪いんじゃないもん。アルくんが優しすぎるから……弱すぎるからいけないんだもん。だから……私がそばにいてあげなきゃダメなんだもん……!」


 その言葉は、慈愛そのものだった。

 彼女は僕の罪ごと、全てを受け入れてくれた。


「カオリ……」


 アルは涙を流し、カオリを強く抱きしめ返した。

 もう二度と離さない。一生をかけて、この愛に報いると誓った。


「……申し訳ありません」


 そこへ、足を引きずりながら一人の女性が現れた。

 マリアだ。

 彼女の修道服はボロボロに破れ、あちこちからオイルが滲んでいる。

 避難民を守るために、殿として最後まで戦い抜いた証だった。

 マリアはカオリの前で、泥に塗れた地面に膝をついた。

 聖女が、罪人として頭を垂れる。


「カオリさん。悪いのは……全て私です。彼の弱さにつけ込み、誘惑しました。貴女という恋人がいると知りながら……彼を汚しました。どうか、私に罰を。……どんな報いも受けます」


 マリアの声は震えていた。

 彼女はずっと苦しんできたのだ。百年の孤独と、一瞬の過ちの重さに。

 カオリはアルから身体を離し、涙を拭ってマリアを見下ろした。

 そして、ゆっくりとマリアの前にしゃがみ込んだ。


「……マリアさん」


 カオリの手が、マリアの汚れた頬に触れた。


「顔を上げてください」


 マリアが恐る恐る顔を上げる。

 そこにあったのは、憎悪でも軽蔑でもなく、春の日差しのような優しい微笑みだった。


「……罰なんて、ありません」


「え……?」


「だって……仕方ないですよ。アルくん、いい男だもん。マリアさんほどの人でも好きになっちゃうくらい……魅力的になっちゃったんだもん」


 カオリは困ったように笑い、そしてマリアを優しく抱きしめた。


「私、怒ってません。マリアさんの気持ち……分かります。私だって、アルくんがいなかったら生きていけなかった。私たち……似た者同士ですね」


 その言葉に、マリアの瞳が見開かれた。

 許し。共感。

 彼女が百年かけても得られなかった救いが、この少女の小さな腕の中にあった。


「あ……ぅ……」


 マリアの喉から、嗚咽が漏れた。

 聖女の仮面が崩れ落ち、ただの一人の弱い女性として、彼女は泣いた。


「ありがとうございます……。ありがとうございます……カオリさん……!」


 マリアはカオリにしがみつき、子供のように泣きじゃくった。

 カオリはそんなマリアの背中を、優しく撫で続けた。

 それは、聖女が初めて「救われた」瞬間だった。

 夕日が、瓦礫の街を黄金色に染めていく。

 アルは、抱き合って泣く二人の女性を見つめながら、静かに涙を流した。

 壊れた街は、また直せばいい。

 傷ついた心も、こうして絆で繋ぎ直せる。

 

 僕たちは、ここからまた始められる。

 罪も、愛も、全てを抱きしめて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ