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第33章【聖女の卒業試験、一夜の過ち(The Saint's Graduation Exam, A Night's Mistake)】


 コンクリートの床に、僕の血溜まりがまた一つ増えた。

 視界が明滅する。

 首の骨が折れる音が、遠くで聞こえた気がした。

「立ちなさい。まだ死んでいません」

 頭上から降ってくるのは、無慈悲な宣告だ。

 シスター・マリアは、返り血一つ浴びていない潔癖な姿で、ゴミのように転がる僕を見下ろしている。

 修行が始まってから、何日が経っただろうか。

 僕は何度も死んだ。

 心臓を貫かれ、頸動脈を切断され、内臓を破裂させられた。

 そのたびに、僕の細胞に組み込まれた「新人類」の因子が暴走し、蒸気を上げて肉体を修復する。

 死ぬことさえ許されない、無限の地獄。

「が……はっ……!」

 僕は咳き込みながら、歪んだ視界で体を起こした。

 折れた首がボキリと音を立てて繋がり、千切れた神経が再接続される。

 熱い。

 再生の熱が、痛みを麻痺させていく。

「……まだ、やれます」

 僕はふらつきながら構えを取った。

 恐怖はもうない。

 最初の数回は、マリアの殺気に震えていた。だが、百回、千回と殺されるうちに、恐怖という感情は摩耗し、代わりに冷徹な「観察眼」が芽生え始めていた。

 (なぜ、当たらない?)

 (なぜ、彼女の攻撃は見えない?)

 マリアの動きには、予備動作がない。

 筋肉の収縮、重心の移動、視線の誘導。それら全てが完全に制御され、僕の意識の隙間を縫って攻撃してくる。

 彼女は「速い」のではない。「合理的」なのだ。

 最短距離で、最小のエネルギーで、最大効率の破壊を行う。

 それが、最古参の軍用A型アンドロイドの真髄。

「いい目になってきましたね。……では、次」

 マリアが地面を蹴る音もしないまま、目の前に現れた。


 来る。

 右からの手刀。

 以前の僕なら、目で追って反応しようとしていただろう。

 だが、今は違う。

 全身の毛穴で空気の流れを感じる。肌で殺気を感じ取る。

 僕の力が「新人類」のものなら、その感覚器もまた、人間を超越しているはずだ。

 (力を……抜くんだ)

 僕は全身の筋肉を弛緩させた。

 膨大な出力を、攻撃ではなく知覚に回す。

 すると、世界が変わった。

 マリアの腕が、空気を切り裂く軌道が、白い線のように見えた。

 (そこだ)

 僕は思考するよりも早く、身体を滑らせた。

 マリアの手刀が、僕の鼻先数ミリを通過する。

 その風圧で皮膚が切れそうになるが、怯まない。

 避けるだけじゃない。彼女の力の流れに逆らわず、同調して、その内側へ入り込む。

 マリアの眉が、わずかに動いた。

 驚愕。

 その一瞬の隙が、僕にとっての永遠だった。

 (届く!)

 僕は踏み込んだ。

 床を砕くほどの力ではない。音もなく、流れるような踏み込み。

 マリアの懐、絶対防御の領域へ侵入する。

 右拳を突き出す。

 殺す気で打つ。

 慈悲も遠慮も捨てた、純粋な殺意の結晶。

 ズンッ。

 重い手応えがあったわけではない。

 僕の拳は、マリアの頬を掠め、そのまま彼女の背後にあるコンクリートの柱を粉砕した。

 ドゴォォォォン!!

 粉塵が舞う。

 静寂が戻る。

 僕の拳は、マリアの顔の横で止まっていた。

 そして、彼女の白磁のような頬に、一筋の亀裂傷が走り、そこから青いオイルが滲み出していた。

「……はぁ……はぁ……」

 僕は呼吸を荒げ、拳を下ろした。

 やった。

 当たった。


 マリアは動かなかった。

 彼女はゆっくりと手を上げ、自分の頬の傷を指先でなぞった。

 青いオイルを見て、彼女は小さく息を吐いた。

「……一本、取られましたね」

 その声には、冷徹な教官の響きはなかった。

 いつもの、穏やかで優しいシスターの声。

 彼女の身体から、殺気が霧散していく。

 張り詰めていた空気が緩み、僕は膝から崩れ落ちそうになった。

「あ……」

 マリアが僕を受け止めてくれた。

 彼女の腕が、僕の背中に回る。

 殺し合っていた相手とは思えないほど、その抱擁は優しかった。

「合格です、アル君。

 貴方は恐怖を乗り越え、力を御しました。

 ……もう、貴方は力に振り回される野獣ではありません。心技体を兼ね備えた、立派な戦士です」

「マリア……さん……」

「よく、頑張りましたね。痛かったでしょう。辛かったでしょう」

 彼女の手が、僕の頭を撫でる。

 その優しさに触れて、張り詰めていた緊張の糸が切れた。

 僕は彼女の肩に額を預け、安堵の息を漏らした。

「ありがとうございます……。

 あなたのおかげです……」

 ヴィオラだけでなく、マリアにも認められた。

 その事実は、僕の中に確固たる自信コアを植え付けた。

 僕はもう迷わない。この力を使って、大切な人たちを守り抜くことができる。


 その日の夜。

 僕は教会の客室で、深い疲労と共にベッドに横たわっていた。

 全身の傷は塞がっているが、精神的な消耗は激しかった。

 窓から月明かりが差し込み、部屋を青白く照らしている。

 コン、コン。

 控えめなノックの音がした。

「……はい」

 ドアが開く。

 立っていたのは、マリアだった。

 しかし、その姿に僕は息を呑んだ。

 いつもの厳格な黒い修道服ではない。彼女は薄い白のネグリジェを身に纏っていた。

 月光に透けるような薄い布地が、彼女の人間離れした美しい肢体のラインを露わにしている。

「マリア……さん?」

「……眠れませんか?アル君」

 彼女は静かに部屋に入り、ドアを閉めた。

 そして、僕のベッドの端に腰を下ろした。

 シャンプーの香りと、彼女特有の甘いオイルの匂いが漂う。

 彼女は何も言わず、ただ僕の顔を見つめた。

 その瞳は潤んでいて、昼間の強さとは違う、儚げな光を宿していた。

「……アル君。少しだけ、昔話をさせてください」

 彼女はポツリポツリと語り出した。

 百年以上前。世界が大戦の炎に包まれる前。

 彼女には、心から愛した人間の男性がいたこと。

 その人は戦火の中で散り、彼女だけが生き残ってしまったこと。

「貴方が5年前にここへ来た時……私は驚きました。

 貴方は、あの人に瓜二つだったから」

 マリアの指が、僕の頬に触れる。ひんやりとした感触。

「私は……貴方に、かつての恋人の影を重ねていました。

 貴方の成長を見守ることで、失われた時を取り戻そうとしていたのです。

 ……ごめんなさい。卑怯な女ですね」

「そんなこと……」

 僕は首を振った。

 彼女の長い孤独を思えば、それは責められることじゃない。

「でも」

 マリアが僕の言葉を遮り、身を乗り出した。

 顔が近い。彼女の吐息がかかる距離。

「今は違います。

 私が今、見つめているのは……過去の亡霊ではありません。

 強くて、優しくて、痛みを乗り越えて成長した……アル君、貴方自身です」

 彼女の瞳から、一雫の涙がこぼれ落ちた。

「愛しています、アル君。

 シスターとしてでも、師としてでもなく……一人の女として」

 その告白は、僕の理性を揺さぶるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。


 「……ダメだ」

 僕の脳裏に、カオリの笑顔がよぎった。

 彼女は僕を待っている。僕を信じて、送り出してくれた。

 これは裏切りだ。許されない罪だ。

 理性が必死にブレーキをかける。

 だが、目の前のマリアはあまりにも美しく、そして哀しかった。

 彼女の肌は陶器のように白く、月光を浴びて妖しく輝いている。

 ネグリジェの肩紐がずれ、露わになった鎖骨の窪みに、僕は視線を吸い寄せられてしまう。

「アル……」

 マリアが僕の上に覆いかぶさるようにして、抱きついてきた。

 柔らかい。

 アンドロイドとは思えないほど、その人工皮膚は滑らかで、弾力がある。

 ひんやりとした体温が、火照った僕の身体に心地よい。

「受け入れて……」

 彼女の唇が、僕の唇を塞いだ。

 甘い。

 回路を焼き切るような、濃厚な接吻。

 僕の抵抗は、波にさらわれる砂の城のように崩れ去った。

 (カオリ……ごめん)

 罪悪感が、逆に背徳的な興奮を煽った。

 極限の死闘を生き延びた生存本能と、幼い頃からの憧れが混ざり合い、僕はマリアの背中に腕を回していた。

 ベッドがきしむ。

 二人の身体が重なり合う。

 マリアは軍用A型アンドロイドだ。彼女には生殖機能はない。性器にあたる部分は、無機質な装甲で覆われているだけだ。

 だから、これは性行為ではない。

 ただの接触。ただの摩擦。

 けれど、それはどんな行為よりも濃密だった。

 僕は彼女のネグリジェの中に手を滑り込ませた。

 指先に触れるのは、人肌を模したシリコンの感触と、その下にある硬質な金属フレームの冷たさ。

 その「違い」が、彼女が人ならざる者であることを突きつけ、同時にどうしようもなく愛おしさを募らせた。

「あっ……ん……」

 マリアが甘い声を漏らす。

 感覚センサーが過敏になっているのだろうか。僕が肌を撫でるたびに、彼女の身体はビクンと跳ね、人工筋肉が収縮して僕を締め付ける。

「アル……アル……!」

 彼女は僕の名前を呼び続け、僕の首筋に顔を埋める。

 唇が這う感触。舌の湿り気。

 彼女の体温調整機能が暴走しているのか、冷たかった肌が徐々に熱を帯びてくる。

 僕たちは互いの肌を擦り合わせ、唾液を交換し、鼓動と駆動音を重ね合わせた。

 入れることも、繋がることもできない。

 行き場のない熱。

 だからこそ、僕たちは必死に互いを抱きしめ合った。

 骨がきしむほど強く。境界線を溶かすように。

「マリアさん……!」

「愛しています……アル……」

 マリアの太腿が僕の腰に絡みつく。

 その滑らかな曲線美。

 何も生み出さない、生産性のない行為。

 未来のない、一夜だけの慰め合い。

 

 けれど、この瞬間だけは、僕たちは孤独ではなかった。

 百年の時を生きる彼女の寂しさと、人間と兵器の狭間で揺れる僕の不安。

 それらが混ざり合い、溶け合い、甘く苦い蜜となって夜の闇に滴り落ちる。

 僕はカオリへの罪悪感に胸を焼かれながら、マリアという禁断の果実を貪り続けた。

 朝が来て、この魔法が解けるまで。

 僕たちは、世界でたった二人きりの共犯者だった。



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