第31章【電子の海のサルベージ(Salvage in the Sea of Electrons)】
地下都市への帰還は、凱旋とは程遠い、葬列のような重苦しさに包まれていた。
ゲートをくぐり抜けたのは、片腕を失い装甲が焼け爛れた『ブルーエクレール』と、それに牽引されたボロボロの輸送車だけだった。
アルの駆る『ヴォルフ』は、あの死の領域に捨て置かれてきた。
整備ドックの集中治療区画。
無影灯の寒々しい光の下、ヴィオラの躯が横たえられていた。
彼女の美しい金髪は煤で汚れ、左腕の断面からは黒いオイルが垂れている。
だが、何よりも絶望的なのは、彼女の瞳が光を失い、完全に沈黙していることだった。
「……嘘だ」
僕は、治療台の脇でヴィオラの手を握りしめ、震える声で呟いた。
その手は、冷たい金属の冷気しか伝えてこない。
周囲には、カオリ、ミリンダ、レベッカ、ボビー、そしてMが集まっていた。
誰もが言葉を失い、沈痛な面持ちでヴィオラを見つめている。
「……報告は聞いた」
ミリンダが重い口を開いた。
「『不老不死の魔女』マリー・ウィンザー。
パワードスーツの攻撃を素手で弾き、エネルギー障壁を展開する……まさに人智を超えた化け物か」
「ああ……手も足も出なかった」
僕は唇を噛み締めた。
悔しさと無力感が胸をかきむしる。
覚醒した新人類の力で生き延びることはできたが、それは勝利ではない。ただ、逃げ帰ってきただけだ。
「だが、今は敵のことよりもヴィオラだ」
ミリンダが視線を治療台に戻す。
「レベッカ、ボビー。状況は?」
レベッカは工具を握りしめたまま、悔しげに顔を伏せた。
ボビーが、サングラスを外して静かに首を振った。
「……ダメだ。
機体の損傷も酷いが、そんなのはパーツを交換すれば治る。
問題は……『中枢思考回路』だ」
ボビーがモニターを指し示す。
そこには、ヴィオラの脳波、電子的な意識活動を示す波形が表示されるはずだった。
だが、そこに走っているのは、無情なフラットラインだけだった。
「焼き切れてる。
長年の過負荷、戦闘によるダメージ、そして今回の精神的なショック……。
コアの神経回路が完全に炭化してるんだ。
人間で言えば……脳死だ」
脳死。
その言葉が、鉛の塊のように僕の胸に落ちた。
「直せないの……?」
カオリが泣きそうな声で尋ねる。
「……すまねぇ、カオリちゃん。
俺の医術でも、レベッカの技術でも、灰になった回路を戻すことはできねぇ。
ヴィオラはもう……ここにはいない」
その瞬間、Mが「嫌ぁぁぁぁッ!」と泣き崩れた。
カオリも膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って嗚咽する。
僕はヴィオラの顔を見つめた。
安らかに眠っているように見える。でも、もう二度と、あの蒼い瞳が開くことはない。
僕の名前を呼んでくれることも、抱きしめてくれることもない。
「母さん……起きてよ。
約束したじゃないか……一緒に帰ろうって……。
僕を置いていかないでよ……ッ!」
僕はヴィオラの胸に顔を埋め、子供のように泣いた。
強くなったつもりだった。守れる男になったつもりだった。
でも結局、僕はまた守られて、彼女を犠牲にしてしまった。
ドックに、僕たちの泣き声だけが響いていた。
その絶望的な静寂を破ったのは、レベッカの声だった。
「……一つだけ。
一つだけ、賭けができるかもしれない」
全員が顔を上げた。
レベッカは涙を袖で乱暴に拭い、狂気じみた光を目に宿して僕たちを見た。
「以前、都市を襲ったウイルスのことを覚えているか?
あの時、敵は実体を持たず、ネットワークの海を漂う『人格データ』として存在していた」
「……まさか」
ボビーが目を見開く。
「ヴィオラの身体は死んだ。コアも物理的には壊れてる。
だが、その奥底にある『人格データ』の残滓を強制的に抽出し、一時的に都市のメインサーバー、ネットワークの海へ退避させるんだ。
その間に、新しい身体を用意して、そこへ魂を再インストールする」
魂の移植。
それは理論上は可能かもしれないが、あまりにも無謀な計画だった。
「危険すぎる!」
ミリンダが声を荒らげる。
「ネットワークの海は広大で、情報の濁流が渦巻いている。
生半可なデータは、瞬く間にノイズに溶かされて霧散してしまう。
自我を保つためには、強靭な精神力と、帰ってくるという強い執念が必要なんだぞ!?」
「分かってる!
失敗すれば、ヴィオラはデータとしても消滅する。二度と還らない!
……だが、このまま何もしなければ、あいつはただの鉄屑になるだけだ!
やる価値はあるはずだ!」
レベッカが叫ぶ。
その必死な形相に、誰も反論できなかった。
可能性はゼロではない。でも、限りなくゼロに近い。
果たして、今のヴィオラに、電子の荒波に耐えうるだけの「生への執着」が残っているだろうか。
あんな絶望の中で機能を停止した彼女に……。
不安が空気を支配する中、僕の手の中で、ヴィオラの指が微かに冷たく感じられた。
僕は思い出した。
かつて、彼女が僕に語ってくれたこと。
『お前を守るためなら、私は世界を敵に回しても構わない』
あの時の、燃えるような瞳。
赤子だった僕を抱きしめ、荒野を駆け抜けた彼女の、鋼鉄の愛。
「……あるよ」
僕は顔を上げ、きっぱりと言った。
「母さんの想いは、誰よりも強い。
母さんは、絶対に諦めない。僕たちを残して、勝手に消えたりなんかしない!」
僕はカオリを見た。
カオリも涙を拭い、強く頷いてくれた。
「私も信じます。
ヴィオラさんは最強のお母さんです。
……やりましょう。私たちが、ヴィオラさんの道しるべになります!」
僕たちの決意に、大人たちも腹を括った。
「……よし。乗ったぜ、その賭け」
ボビーが白衣を翻す。
「総力戦だ。地下都市の全リソースを投入して、あいつを地獄から引きずり戻すぞ!」
場所をメインサーバー室に移し、緊急手術が始まった。
ヴィオラの頭部が開かれ、黒く焼け焦げたコアユニットが露わになる。
見るだけで胸が締め付けられるような惨状だったが、レベッカの手は迷わずに、髪の毛ほどの細さの光ファイバーを、まだ生きているかもしれない深層回路へと接続していく。
「接続完了。……これより、人格データの強制抽出を開始する」
レベッカの合図と共に、サーバー室の照明が落ち、無数のモニターが一斉に起動した。
「ゲート、オープン!
データ転送率、120%……いけぇッ!」
ブォォォォン……!
重低音が響き、ヴィオラのコアから光の粒子がケーブルを通って吸い上げられていく。
それは彼女の記憶、感情、そして魂そのものだ。
「カオリ、頼む!」
「はい! ネットワークゲート、解放!
……行ってらっしゃい、ヴィオラさん!」
カオリがコンソールを叩くと、メインモニターに広大な「海」が映し出された。
0と1の数字が渦を巻き、情報の波が打ち寄せる、電子の海。
そこへ、一筋の蒼い光が放たれた。
光は一度強く輝き、そして深い情報の闇の中へと沈んでいった。
『データ転送完了。
……ヴィオラ・マトリクス、ネットワーク領域へ移行しました』
機械的なアナウンスが響く。
治療台の上のヴィオラの身体は、完全に抜け殻となった。
彼女は今、肉体を捨て、広大で冷たい電子の海をたった一人で漂っている。
ここからが本当の勝負だ。
彼女の自我が溶けて消えてしまう前に、新しい身体を用意し、そこへ彼女を呼び戻さなければならない。
タイムリミットは予測不可能。
一刻の猶予もなかった。
「よし、第二フェーズだ!
ボビー、レベッカは新しいボディの建造を急げ!ありったけの予備パーツと、軍用規格の素材を全部使え!
カオリとM、そして管制室の全スタッフはサルベージ班だ!
海を監視し続けろ!ヴィオラの信号を絶対に見失うな!」
ミリンダの号令が飛ぶ。
僕もカオリの隣に座った。
「僕もやるよ。
母さんの声なら、僕が一番よく知ってる」
モニターの海を見つめる。
どこまでも深く、暗い海。
そのどこかに、母さんがいる。
(待ってて、母さん。
必ず、迎えに行くから)
こうして、72時間に及ぶ不眠不休のサルベージ作戦が幕を開けた。
地下都市から昼夜の区別が消えて、どれくらいの時間が経っただろうか。
メインサーバー室と整備ドックは、戦場のような喧騒と、祈りのような静寂が交互に支配していた。
モニターの前で、カオリの目が充血し、指先が痙攣しかけていた。
彼女はもう30時間以上、瞬きさえ惜しむように電子の海を監視し続けている。
「……逃がさない。絶対に、見つける」
画面には、ノイズの嵐が吹き荒れている。
その奔流の中から、ヴィオラの人格データの断片を探し出し、繋ぎ合わせる作業は、砂漠で落としたダイヤモンドを探すような途方もない難易度だった。
「カオリ、少し休め! 代わるよ!」
僕が声をかけるが、カオリは首を振った。
「ううん、ダメ。今、目を離したら……ヴィオラさんの信号を見失っちゃう。
私には分かるの。あのお母さんの温かい色が……」
彼女の執念が、地下都市の全演算能力を牽引していた。
Mや他のオペレーターたちも、エナジーパックを摂取しながら必死に食らいついている。
一方、整備ドックでは物理的な器の建造が佳境を迎えていた。
火花が散り、金属を叩く音が響き渡る。
「出力系バイパス、接続完了! 冷却ユニット、強制冷却開始!」
レベッカが怒鳴る。
「神経回路の同調率を上げろ!
ヴィオラの魂を受け止めるんだ、並のボディじゃ負荷に耐えきれねぇぞ!」
ボビーが精密操作用のアームを操りながら叫ぶ。
彼らが組み上げているのは、ヴィオラのために設計された最強のカスタムボディ『Type.SAB-2159』。
S型のしなやかさ、A型の高度な戦術指揮能力、そしてB型の重装甲と火力を兼ね備えた、理論上の最強機体だ。
マリーという規格外の怪物に対抗するため、そして何より、ヴィオラを確実に還すために、彼らは持てる技術の全てを注ぎ込んでいた。
そして、作戦開始から72時間後。
「……いたッ!!」
カオリの叫び声が、管制室を震わせた。
「深層レイヤー、座標X-204、Y-99!
強力な自我データを確認! ヴィオラさんです!
光が……光が強くなっています!」
モニターの深淵に、一際強い蒼い輝きが現れた。
それは荒波に揉まれながらも、決して消えることのない「生」への灯火だった。
「引き上げろぉぉぉッ!!」
ミリンダが叫ぶ。
地下都市中の電力が一瞬暗くなるほどのエネルギーを使い、サルベージ・プログラムが発動した。
光の粒子が束となり、ケーブルを逆流して、整備ドックの新しい身体へと流れ込んでいく。
「データ転送、98%……99%……100%!
インストール完了!!」
ドックのライトが一斉に点灯した。
成功だ。
僕たちは歓声を上げる余裕もなく、ドックへと走った。
整備ドックの中央に、その新しい機体が横たわっていた。
以前の機体よりも一回り大きく、鋭角的で洗練されたフォルム。
装甲は深みのある蒼色に塗装され、関節部からは金色の光が漏れている。
そして何より目を引くのは、その頭部だ。
レベッカが丁寧に植毛処理を施した、美しい金色の髪。
かつてのヴィオラと同じ、輝くような黄金の髪が、無機質なドックの中で鮮やかに映えていた。
傷一つない、完璧な姿。
あとは、彼女が目覚めるだけだ。
「……再起動シーケンス、スタート」
ボビーが震える指でエンターキーを押した。
ヒュゥゥゥン……。
ジェネレーターが低い唸りを上げ、機体にエネルギーが循環し始める。
僕たちは息を止めて見守った。
僕の手には汗が滲み、カオリは祈るように手を組んでいる。
Mは口元を押さえ、レベッカはスパナを握りしめていた。
しかし。
10秒。
30秒。
1分が過ぎても、ヴィオラは動かなかった。
「……おい、どうなってる?」
レベッカが焦れたように聞く。
「システムはオールグリーンだ。バイタルも正常。
データは完全に定着してるはずなんだが……」
ボビーの声に焦りが混じる。
「意識レベルが……浮上しません」
モニターを見ていたカオリが、青ざめた顔で呟いた。
「脳波反応なし。……深いスリープモードから、抜け出せていません。
魂は戻っているのに……『自分』を認識できていないようです」
沈黙が落ちた。
重く、冷たい絶望の沈黙。
「嘘だろ……。ここまでやって、ダメなのかよ」
レベッカが膝から崩れ落ちる。
「戻ってきてくれたのに……ヴィオラさん……」
Mが泣き崩れる。
金髪の美女は、眠れる森の美女のように、ただ静かに横たわっているだけだった。
器はある。魂もある。
でも、それらを繋ぐ「火花」が足りないのだ。
僕はふらりと歩み寄り、ヴィオラの傍らに立った。
新品の装甲は冷たく、何の反応も返してくれない。
「母さん……」
恐怖で足がすくんだ。
本当に、もう二度と話せないのかもしれない。
このまま、永遠に眠り続けるのかもしれない。
そんなの嫌だ。
「起きてよ……母さん……ッ!」
僕は彼女の胸に縋り付き、叫んだ。
涙が溢れて止まらなかった。
強くなると誓ったのに、結局僕は、泣き虫な子供のままだ。
「僕には、母さんが必要なんだ!
カオリにも、みんなにも!
お願いだ……戻ってきてくれよぉ……ッ!」
僕の涙が、ヴィオラの金色の髪を濡らし、頬を伝って落ちた。
僕の慟哭がドックに響き渡る中、カオリも駆け寄り、ヴィオラの冷たい手を握りしめて泣きじゃくった。
家族の悲痛な叫び。
それが、電子の深い闇を彷徨う彼女の魂に届いたのだろうか。
ピクリ。
ヴィオラの指先が、カオリの手の中で微かに動いた。
「……え?」
カオリが顔を上げる。
ウィィィン……。
機体の奥底から、駆動音が響いた。
胸部のインジケーターが、ゆっくりと明滅を始める。
『System Reboot... Individual Name: Viola... Confirmed.』
無機質な電子音が響き渡り、全員が息を呑んだ。
ヴィオラの長い睫毛が震えた。
そして、ゆっくりと、その瞼が開かれた。
現れたのは、澄み渡るような、深い蒼色の瞳。
起動直後の焦点の定まらない光が、数回瞬きをして、急速に焦点を結んでいく。
そして、その視線が、胸元で泣いている僕を捉えた。
「……アル……?」
その声。
少し掠れているけれど、間違いなく母さんの声だ。
「……母さん!」
ヴィオラの瞳に、光が宿った。認識の光が。
彼女はゆっくりと、重厚な駆動音を立てて腕を持ち上げた。
そして、僕の背中にその腕を回し、優しく、しかし力強く抱きしめた。
「……ああ……アル。
……無事、か……?」
彼女の目から、透明な冷却液が溢れ出した。
新品の機体でも、彼女の心は変わっていない。
一番に僕の心配をして、僕を愛してくれる、最高の母親だ。
「無事だよ! 母さんも……おかえりなさい!」
「……ああ。
暗い海の中で……お前の声が聞こえた。
お前たちが、呼んでくれたから……私は、戻ってこれた」
ヴィオラは僕を抱きしめたまま、隣で泣いているカオリにも手を伸ばした。
カオリも飛びつくように抱きついた。
「ヴィオラさん……! よかった……本当によかった……!」
「心配をかけたな、カオリ。
……ありがとう。みんな」
ヴィオラは金色の髪を揺らし、周囲の仲間たちを見渡して微笑んだ。
Mは泣き叫び、レベッカはボビーと肩を叩き合って喜んでいる。ミリンダも目尻を拭っている。
奇跡が起きた。
科学の力と、諦めない執念、そして何よりも強い家族の絆が、死の淵から彼女を呼び戻したのだ。
僕は母の胸の中で、温かい駆動音を聞きながら、神様に、そしてこの世界を作り出した誰かに感謝した。
まだ、僕たちの旅は終わらない。
最強の母が帰ってきた今、僕たちはもう一度立ち上がれる。
あの絶望的な「悪意」に立ち向かうために。




