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第29章【氷解する憎悪、芽吹く愛(Thawing Hatred, Budding Love)】



 地下都市の最深部、メインサーバーの冷却ファンが唸りを上げる地下管制室。

 そこは今、物理的な気温以上に、肌を刺すような絶対零度の冷気に支配されている。

 あの「仇」の画像が見つかってから、一ヶ月が経過していた。

 季節が変わるほどの長い時間、この部屋の扉は固く閉ざされ、重苦しい沈黙だけが澱のように溜まっていた。

 部屋の中央、ホログラムモニターが作り出す青白い光の中に、ヴィオラはいた。

 彼女は指揮官席に座っているのではない。モニターの光に顔を近づけ、直立不動のまま、瞬き一つせずに膨大なデータの奔流を見つめ続けていた。

 その姿は、まるで氷で作られた彫像のようだった。

 美しい金髪は艶を失って乱れ、頬は以前にも増して白く、いや、蒼白になり、目の下には隈のような影が落ちている。

 本来、アンドロイドである彼女に「疲れ」などという概念はないはずだ。エネルギーさえあれば、永遠に稼働し続けられる。

 だが、今の彼女は摩耗していた。

 肉体ではなく、その核にある心が、憎悪という猛毒によって蝕まれ、きしみ音を立てているのが、傍目にも分かった。

「……ヴィオラさん。あの、お食事をお持ちしました……」

 恐る恐る声をかけたのは、Mだった。

 彼女の手には、高純度のエネルギーパックと、気休めかもしれないが温かいスープが乗ったトレイがある。

 Mの表情は痛々しいほどに歪んでいた。いつもなら騒がしいほどに明るい彼女が、今は怯え、震えている。

 ヴィオラは反応しなかった。

 視線はモニター上のノイズ交じりの画像、データあの少女の笑顔に釘付けになったまま、微動だにしない。

「ヴィオラさん……もう一ヶ月も、まともにスリープモードに入っていません。

 このままでは、回路が焼き切れてしまいますぅ……。お願いです、少し休んでください……」

 Mが勇気を振り絞って一歩近づいた、その時だった。

「――失せろ」

 それは、声と呼ぶにはあまりに低く、無機質な響きだった。

 ガラスを爪で引っ掻いたような、不快で冷徹な音波。

「邪魔だ。……私の視界に、余計な情報を入れるな」

 ヴィオラはMの方を見向きもしなかった。

 ただ、その全身から放たれる殺気が、物理的な衝撃波となってMを打ち据えた。

 カシャン。

 Mの手からトレイが滑り落ち、スープが床に広がる。

 Mは「ひっ」と悲鳴を上げ、涙を溜めた瞳で後ずさった。

 その様子を、部屋の隅で見ていたボビーとレベッカが、苦い顔で顔を見合わせた。

「……重症だな」

 ボビーが電子タバコを強く吸い込み、紫煙を吐き出した。

 普段の軽口は消え、正規医師としての深刻な眼差しがヴィオラの背中に注がれている。

「彼女の思考ロジックを外部からスキャンしてみたが……酷いもんだ。

 『検索』『照合』『否定』……そして『殺害』。

 この四つのコマンドだけで、思考の99%が埋め尽くされている。無限ループだ。

 今のあいつは、ヴィオラじゃない。ただの復讐プログラムだ」

「ああ。冷却システムも限界だ」

 レベッカが携帯端末のモニターを睨みつける。

 そこには、ヴィオラの機体温度を示すグラフが表示されているが、警告色の赤を振り切っていた。

「演算能力をフル稼働させて、世界中のネットワークからあの画像を照合し続けている。

 普通の機体ならとっくに脳溶解しているレベルだ。

 ……だがあいつは、気力だけで持たせている。あるいは、あの憎悪が燃料になっているのかもな」

 レベッカは悔しげに唇を噛んだ。

 技術者として、友として、ヴィオラを止めたい。強制シャットダウンさせてでも休ませたい。

 だが、今のヴィオラに触れれば、反射的に迎撃されるだろう。

 彼女の防衛本能は、今や味方すら敵と認識しかねないほど鋭敏になっている。

「どうすればいいんだ……。このままじゃ、母さんが壊れちゃうよ」

 入り口の陰から、僕はその光景を見ていた。

 隣にはカオリがいる。彼女もまた、蒼白な顔で唇を震わせていた。

 この一ヶ月、僕たちの家から「会話」が消えた。

 ヴィオラが帰ってこない。ただそれだけで、家の中は火が消えたように寒々しくなった。

 僕もカオリも、何度もここへ通った。

 声をかけ、説得し、時には泣きついた。

 でも、ヴィオラの耳には届かなかった。彼女は「仇」という幻影に取り憑かれ、僕たちのことなど目に入っていないようだった。

 それが、何よりも辛かった。

 母さんが、母さんでなくなっていく。

 僕たちを愛してくれたあの温かい瞳が、ただの赤いセンサーへと変わっていく。

「……アルくん」

 カオリが僕の袖を掴んだ。その手は冷たかったが、力強かった。

「行こう。

 大人たちがダメなら、私たちがやるしかない。

 ヴィオラさんを……お母さんを、連れ戻そう」

 彼女の瞳には、強い決意の光が宿っていた。

 そうだ。ここで諦めたら、僕たちは本当に家族を失ってしまう。

 僕はカオリの手を握り返し、大きく頷いた。

「うん。……行こう、カオリ」

 僕たちは扉を押し開け、凍てついた空気が支配する部屋へと足を踏み入れた。


 僕たちの足音に気づいたボビーたちが、驚いて振り返る。

 彼らが止める暇もなく、僕とカオリはヴィオラの背中へと歩み寄った。

「母さん」

 僕は努めて冷静に、しかし腹の底から声を絞り出した。

 ヴィオラは動かない。

 モニターの光が彼女の顔を青白く照らし出し、瞳の奥の赤い光だけが不気味に明滅している。

「母さん、聞こえているだろ。

 もう十分だ。一度、家に帰ろう」

 僕は彼女の肩に手を伸ばした。

 その瞬間。

 バチィッ!!

 空気が爆ぜたような音がして、僕の手が弾かれた。

 いや、弾かれたのではない。ヴィオラが裏拳で払いのけたのだ。

 手加減のない、鋼鉄の一撃。

 僕は手首に痺れを感じながらも、踏みとどまった。

「……触るな」

 ヴィオラがゆっくりと振り返った。

 その顔を見て、僕は息を呑んだ。

 憔悴しきっているのに、眼光だけが異様にギラついている。

 まるで、飢えた野獣だ。

「アル。お前でも容赦はしない。

 私の邪魔をするな。……奴は、まだ笑っているんだ」

 彼女の視線は、僕を通り越して、虚空に浮かぶあの少女の笑顔に向けられていた。

「奴が生きている限り、私の時間は止まったままだ。

 マスターの声が聞こえない。あの炎の熱さが消えない。

 殺さなきゃ……殺して、抉り出して、踏み潰さなきゃ……!」

 うわごとのように繰り返される呪詛。

 彼女の中の論理回路が、完全にバグを起こしている。

 このままじゃ、彼女は仇を見つける前に、自分自身を壊してしまう。

「いい加減にしてよッ!!」

 僕は叫んだ。

 恐怖を怒りでねじ伏せ、ヴィオラの前に立ちはだかり、モニターを自分の体で隠した。

「こっちを見てくれ、母さん!

 そこにいるのは幻だ! ただのデータだ!

 本物の家族は、ここにいるんだよ!」

「……どけ」

 ヴィオラの瞳が、危険な赤色に染まる。

 リミッターが外れる音が聞こえた気がした。

「どけと言っている!!」

 ブォン!

 ヴィオラの腕が唸りを上げて迫る。

 本気だ。殺す気だ。

 僕は目を閉じることさえできなかった。

「ダメですッ!!」

 ドンッ!

 横から小さな影が飛び込んできた。

 カオリだ。

 彼女は僕を突き飛ばし、ヴィオラの懐に飛び込んで、その腰にしがみついた。

「ヴィオラさん、目を覚まして!

 アルくんですよ!? あなたが育てた、大切な息子ですよ!」

 ヴィオラの拳が、カオリの頭上でピタリと止まる。

 だが、殺気は収まらない。彼女はカオリを引き剥がそうと手をかけた。

「放せ……! 私には、時間がないんだ……!」

「いいえ、放しません!

 こんなの、ヴィオラさんじゃない!

 いつも強くて、優しくて、私たちのことを一番に考えてくれる……大好きなお母さんに戻ってよ!」

 カオリが泣き叫ぶ。

 その涙が、ヴィオラの硬い軍服を濡らしていく。

 僕は体勢を立て直し、ヴィオラの肩を掴んだ。

 その瞳を、至近距離から睨みつける。

「母さん! 鏡を見てみろよ!

 今の母さんは、あの仇と同じ顔をしている!」

 その言葉に、ヴィオラの動きが凍りついた。

「……なに?」

「憎しみに飲まれて、周りが見えなくなって、大切なものを傷つけようとしている……。

 そんな顔、あの化け物と一緒だ!

 母さんのマスターは、そんな母さんを見たいのか!?」

「……ッ!!」

 ヴィオラの喉から、空気が漏れるような音がした。

 彼女の瞳孔が激しく収縮と拡大を繰り返す。

 『仇と同じ顔』。

 その言葉が、彼女の中の復讐のループに、強烈な楔打ち込んだのだ。

 彼女の脳裏に、あの日、炎の中でマスターが最後に遺した言葉がフラッシュバックしたのかもしれない。

 あるいは、僕とカオリの必死な顔が、かつての自分と重なったのかもしれない。

 ヴィオラの瞳から、赤黒い光がスーッと引いていった。

 代わりに、いつもの深く澄んだ蒼色が戻ってくる。

「……あ……」

 力が抜けたように、ヴィオラの膝が折れた。

 支えていたカオリごと、彼女はその場に崩れ落ちた。


 冷たい床の上で、ヴィオラは呆然と自分の手を見つめていた。

 震える指先。

 さっきまで、最愛の息子に向けようとしていた凶器。

「……私は……なんてことを……」

 彼女の声は震えていた。

 それはもう、無機質な機械音ではなく、深く傷ついた母親の声だった。

「アル……カオリ……。

 怪我は……ないか?」

 彼女はおずおずと、壊れ物を扱うように僕たちに手を伸ばした。

 僕はその手を強く握りしめた。

 温かい。

 過熱した排熱の温かさではなく、血の通った温かさだ。

「ないよ。……大丈夫だよ、母さん」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ヴィオラは僕の手を額に押し当て、嗚咽を漏らした。

 瞳から、透明な冷却液が溢れ出し、床に滴り落ちる。

 アンドロイドが泣くなんて、設計上はありえないことかもしれない。

 でも、彼女は確かに泣いていた。

「怖かった……。

 あいつの笑顔を見ていると、私の世界が炎に包まれるんだ。

 マスターを守れなかった、無力な自分に戻ってしまう。

 だから……思考を止めるわけにはいかなかった。憎しみ続けていないと、私が私でいられなくなる気がして……」

 彼女の告白は、痛切だった。

 最強の戦士である彼女が、たった一人で抱え込んでいた孤独と恐怖。

 僕たちは、その重さを知らなさすぎた。

 カオリがヴィオラの背中に腕を回し、子供をあやすように優しく撫でた。

「一人で背負わないでください。

 私たち、家族じゃないですか」

「……カオリ」

「ヴィオラさんは、私たちを地獄から救ってくれました。

 私に声をくれて、居場所をくれて、生きる意味をくれました。

 だから今度は、私たちがヴィオラさんを助ける番です」

 カオリの言葉に、僕は強く頷いた。

「そうだ。僕たちはもう、守られるだけの子供じゃない。

 母さんの敵は、僕たちの敵だ。僕たちが絶対に見つけ出す」

「アル……」

 ヴィオラは顔を上げ、涙に濡れた瞳で僕たちを見た。

 そこには、5年前のあどけない子供たちの姿はない。

 彼女を守るために立ち上がった、頼もしい戦士たちの姿があった。

「……一緒に探そう、母さん。

 カオリの分析能力と、僕の機動力があれば、きっと見つかる。

 だから、もう一人で闇の中にいないで」

 僕が言うと、ヴィオラは唇を噛み締め、そして深く、深く頷いた。

「……ああ。頼む。

 私の……大切な子供たちよ」

 彼女は両腕を広げ、僕とカオリを同時に抱きしめた。

 強い力だった。

 鋼鉄の腕の感触。オイルの匂い。そして、彼女の鼓動のような駆動音。

 その全てが、僕たちにとってのかけがえのない「母親」の証だった。

 入り口の方で、ボビーたちが安堵の溜息をついているのが気配で分かった。

 Mは「よかったですぅぅ!」と大泣きし、レベッカは鼻をすすりながら「ったく、世話が焼けるぜ」と笑っている。

 凍てついていた管制室の空気が、急速に溶けていく。

 僕たちは改めて一つになった。

 見えない敵、巨大な悪意に立ち向かうための、本当の家族として。

 だが、この夜の雪解けは、もう一つの「熱」を呼び覚ますことになった。

 極限の緊張から解放された安堵感と、高ぶった感情。

 それが、僕とカオリの間にある、未だ名前のない関係性に火をつけることになる。


ヴィオラが長いスリープモードに入ったのを見届けた後、僕とカオリは自分たちの居住区画へと戻った。

 時刻は深夜を回っている。

 地下都市の照明はナイトモードに切り替わり、天井の配管の隙間から、月明かりを模した淡いブルーライトが降り注いでいた。

 リビングのソファに二人並んで座り、僕たちは長い溜息をついた。

「……よかった。本当に、よかった」

 カオリが天井を見上げながら、ほうっと息を吐いた。

 その横顔は、張り詰めていた糸が切れたように、安堵の色に染まっていた。

「うん。母さんのあの顔……久しぶりに見たよ。

 いつもの、少し不器用だけど優しい母さんの顔」

 僕はマグカップの温かいミルクを一口飲んだ。

 手の震えはようやく収まっていた。

 ヴィオラと対峙した時の恐怖、そして彼女を失うかもしれないという絶望感。それらが去った後に残ったのは、身体の芯が痺れるような疲労感と、妙な高揚感だった。

「アルくん、すごかったよ」

 カオリが僕の方を向いて微笑んだ。

 薄暗い部屋の中で、彼女の瞳が濡れたように光っている。

「母さんに立ち向かった時……本当にカッコよかった。

 アルくんの言葉が、ヴィオラさんの心を溶かしたんだよ。

 ……いつの間にか、本当に強くなったんだね」

「そ、そうかな。無我夢中だっただけだよ」

 僕は照れくさくて、視線を逸らした。

 カオリに褒められると、胸の奥がくすぐったくなる。

 特に今夜の彼女は、どこか様子が違う気がした。

 ヴィオラを救い出した連帯感のせいか、それとも深夜という時間のせいか。彼女の纏う空気が、いつもより甘く、そして濃密に感じられるのだ。

 ふと、沈黙が降りた。

 空調の低い音だけが響く静寂。

 カオリがマグカップをテーブルに置き、ソファの上で僕の方へと身体を寄せた。

 シャンプーの香りが鼻をくすぐる。

 今朝、洗面所で嗅いだあの香りだ。

「……ねえ、アルくん」

 カオリの声が、少し震えていた。

「ん? どうしたの?」

「私のこと……どう思ってる?」

 心臓がドクンと跳ねた。

 僕は驚いて彼女を見た。

 カオリは真剣な瞳で、僕を真っ直ぐに見つめている。そこには、姉としての慈愛だけでなく、もっと切実な、女性としての熱が宿っていた。

「え……どうって……。

 大切な家族だし、頼れるパートナーだし……」

「それだけ?」

 彼女は一歩、踏み込んできた。

 距離が近い。

 彼女の吐息が頬にかかる。

「私はね、アルくんのこと……家族以上の存在だと思ってるよ」

「……っ」

 言葉に詰まった。

 知っていた。薄々は気づいていた。

 でも、それを言葉にされたら、今まで保ってきた微妙なバランスが崩れてしまう気がして。

 僕は動揺し、思わず立ち上がろうとした。

「あ、あの、もう遅いし、そろそろ寝よっか!」

「逃げないで」

 カオリが僕の手首を掴んだ。

 か細い指。でも、そこには決して離さないという意志が込められていた。

「わっ……!?」

 バランスを崩した。

 ソファのクッションに足を取られ、僕はそのままカオリの方へと倒れ込んだ。

 カオリも体勢を支えきれず、背中からソファへと倒れる。

 ドサッ。

 重なる身体。

 柔らかい感触。

 僕の下には、仰向けになったカオリがいた。

 彼女の長い髪がソファに広がり、乱れた襟元からは白い肌が覗いている。

 そして、彼女の瞳は、至近距離で僕を見上げていた。

 時が止まったようだった。

 離れなきゃいけない。すぐに退かなきゃいけない。

 頭では分かっているのに、身体が動かない。

 カオリの身体から伝わる熱。

 早鐘を打つ鼓動。それは僕のものか、彼女のものか。

 今朝感じたあの「渇き」が、奔流となって全身を駆け巡った。

 (綺麗だ……)

 理性の隅で、そんな言葉が浮かんだ。

 月明かりに照らされた彼女は、どうしようもなく魅力的だった。

 守るべき姉? 戦友?

 違う。今、僕の目の前にいるのは、一人の「女性」だ。

 僕の腕に力が籠もる。

 彼女を逃がさないように、ソファに押し付けるような体勢になってしまっている。

 カオリは抵抗しなかった。

 目を伏せ、頬を染め、ただじっと僕を受け入れるように待っている。

 その従順さが、僕の中の獣を煽った。

 キスしたい。触れたい。もっと深く、彼女と繋がりたい。

 5年間の訓練で鍛え上げた自制心が、音を立てて崩れ落ちそうになる。

「……カオリ……」

 掠れた声で名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと目を開け、潤んだ瞳で僕を見つめ返した。

 そこにあったのは拒絶ではない。

 「いいよ」という、無言の許しだった。


 僕の顔が近づく。

 あと数センチで唇が触れる。

 その瞬間、脳裏に浮かんだのは、ヴィオラの悲しげな顔と、マリアさんの清らかな笑顔だった。

 そして何より、僕を信じ切っているカオリの純粋な瞳。

 (ダメだッ!)

 僕は弾かれたように身体を起こし、ソファから飛び退いた。

 息が荒い。心臓が痛いほど脈打っている。

「ご、ごめん! 僕、わざとじゃ……!

 その……ごめんッ!」

 僕は顔を覆ってうずくまった。

 なんてことをしようとしたんだ。

 勢いに任せて、大切な家族を傷つけるところだった。

 僕が彼女に向けたのは愛情じゃない。ただの暴力的な衝動だ。そんなもので彼女に触れるなんて、最低だ。

「……アルくん」

 衣擦れの音がして、カオリが起き上がった。

 怒られる。軽蔑される。

 そう思って身構えた僕の背中に、温かいものが触れた。

 カオリが、後ろから僕を抱きしめていた。

「謝らないで。……嬉しかったよ」

「え……?」

「アルくんが、私を女の人として見てくれてたんだって分かって……ドキドキした」

 彼女は僕の背中に顔を埋め、くぐもった声で言った。

「大好きだよ、アルくん。

 弟としてじゃない。……一人の男の人として、愛してる」

 ストレートな告白。

 その言葉が、僕の迷いを吹き飛ばし、同時に重い責任を突きつけた。

 彼女は本気だ。

 なら、僕も本気で応えなきゃいけない。誤魔化しちゃいけない。

 僕はゆっくりと振り返り、カオリの肩に手を置いた。

「……聞いて、カオリ」

 僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見た。

「僕も……カオリのことが好きだ。

 家族として大切だし、パートナーとして信頼してる。

 でも、それ以上に……君に触れたいって思う。君を独り占めしたいって思う」

 カオリの頬が赤く染まる。

「でも……僕には、マリアさんとの約束がある。

 僕の初恋はマリアさんで、彼女はずっと僕の憧れだ。その気持ちは、嘘じゃない」

 正直に話した。ズルいかもしれないけれど、カオリに嘘はつきたくなかった。

「それに、今の僕じゃダメなんだ。

 さっきみたいな衝動に任せて君を抱いても、きっと君を傷つけるだけだ。

 僕は……君を大切にしたい。

 壊したくないんだ。かけがえのない、僕の一部だから」

 僕の不器用な言葉を、カオリは静かに聞いていた。

 そして、ふわりと微笑んだ。

 それは、全てを包み込むような聖母のような微笑みだった。

「うん。……分かってる。

 そんな誠実なアルくんだから、私は好きなの」

 彼女は伸び上がり、僕の首に腕を回した。

「今はこれだけ。

 私の気持ちは変わらないよ。何があっても、アルくんのことが好き。

 強くて、優しくて、ちょっと不器用なアルくんが大好き」

 チュッ。

 柔らかい感触が、僕の唇に触れた。

 一瞬の、羽毛のような口づけ。

 でもそれは、どんな激しい行為よりも熱く、僕の心に刻印を焼き付けた。

「……カオリ」

 僕はたまらず、彼女を強く抱きしめた。

 今度は衝動じゃない。愛おしさで胸がいっぱいだった。

 彼女の華奢な身体が、僕の腕の中で熱を持っている。

 守りたい。

 この温もりを、笑顔を、未来を。

「……待ってて」

 僕は彼女の髪を撫でながら、誓うように言った。

「今はまだ、その時じゃない。

 僕がもっと強くなって……ヴィオラの仇を討って、この街を守り抜いて。

 本当の意味で『一人前の男』になった時……必ず、君に伝え直す」

「うん」

「その時は、もう迷わない。

 君の隣を歩くのに相応しい男になって、君を迎えに行くから」

「……うん。待ってる。

 ずっと、そばで待ってるから」

 カオリは涙ぐみながら、嬉しそうに頷いた。

 月明かりの下、僕たちは互いの体温を分け合った。

 それは、恋人未満、家族以上の、僕たちだけの特別な契約。

 少年期の終わりと、青年期の始まりを告げる夜。

 僕の中で、何かが定まった。

 迷いはもうない。

 愛するひとと、守るべき母のために。

 僕は最強の戦士になる。



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