第90話 自由気ままに
真っ暗な世界、カナリアは口を動かして言葉を発している。
「私は、ずっと貴方を……」
そして世界は崩れていく。
わかっている。何を伝えたいかは知っている。だけどその言葉を直接受け止めるために僕は君に会いに行こう。
ーーーーーーー
ノアは勢いよく目を開く。息を荒げて現実を求めた。
「…はぁ…はぁ。僕は、寝てたのか」
精神的疲労からか、ノアは日課の鍛錬が終わった後に座り込み眠ってしまったようだ。だが睡眠を取っても精神は回復などしなかった。眠る暇など無いというのに呑気に寝こけていたノアは、自分を戒めるように重い溜息を吐いた。ここは螺旋階段の上だ。アリスの守りびととして、鍛錬をするのも離れすぎない場所、扉の前で行なうことにしていた。螺旋階段は下から猛烈に吹き付ける風の冷たさは、眠ってしまえば凍ってしまうほどだ。だがノアの体は暖かい。何故なら一人の少女が乗っているからだ。
「それで、君は何をしてるの?」
「ん〜?舐めてるの」
それはメアリィだ。牢獄にいるはずの彼女が、何故かノアの体の上で舌を這わせている。長い時間舐めていたのだろう。体中は彼女の唾液でベタベタだ。
「あと君とかお前とじゃヤダ! ちゃんとメアリィって呼んで!」
メアリィは身体中の粘液を拭いているノアの気持ちを汲む様子も無く、握りしめた手をブンブンと振って抗議する。
「メアリィ……僕は許可した時だけって言ったよね」
「舐めてるだけだもん! ちゃんと我慢してたんだよ? だからもう血吸ってもいい?? 」
メアリィは血を飲みたいという欲求を必死に堪えようと舐めるだけに留めていた。ノアは、ぺろぺろと首を舐めるメアリィを手で押さえつけて立ち上がる。
「寝込みを襲うのもダメ」
「っ!なんで!? 牢獄に入るなら血飲ませてくれるって言った!」
「それは、そうだけど」
確かに言った。約束を破ることもそうだが、流石に血だけを求めている彼女に血を与えないというのも酷だろう。それにまた暴れられても困ると思い、ノアは仕方なく折れた。
「はぁ、わかったよ。 どうぞ」
「やったぁ!! いただきます」
メアリィはかぷりっと牙を首に差し込み、柔らかい唇を押し付ける。全部を吸い続けるのではないかという勢いで無くなっていく血液に、ノアは慌てて引き離そうとしたのだがメアリィは腕で固く抱きしめているため身動きが取れなかった。血が無くなる分だけ作られていくノアの体はメアリィにとって無限の宝石箱なのだ。
「…………おいひぃ」
メアリィは牙を引き抜くと幸せのあまりにへなへなと倒れ込んだ。
「そりゃあよかったよ、まったくね」
そんなメアリィを抱きかかえてノアは階段を降りていく。
「どこ行くの?」
「牢獄。 メアリィを入れるためにね」
「えー!また!? あそこ寒いもん!」
「まず勝手に出て来ること自体がおかしいんだよ」
「じゃあノアも一緒に入ろ!」
「……入りません」
「一人は嫌! 暇なんだもん。 せっかく色んな人が居る所に来たのに」
メアリィはノアに運ばれながら頰を膨らませる。メアリィが何処から来たのかは知らないが、ノアと一緒でこの国で産まれた亜人ではないだろう。もしかしたらずっと一人で遺跡を彷徨っていたのかもしれない。そう考えたら少し可哀想に思えてきた。だが牢獄にはぶち込んだ。
「僕の言いなりなんだろ? ならここに入ってな」
「むぅ〜」
牢獄の鉄格子は無理矢理へし折られ、監視していた騎士も気絶していた。おそらくメアリィが暴れたのだろう。
「大人しくしてたら血をまたあげるから」
「……ここ寒い」
「じゃあこれあげるよ」
ノアは黒い長袖の服を脱いでメアリィに投げつけた。メアリィの服は昔から着ていたようでボロボロで寒いのも仕方ないほどだったのだ。ノアは半袖になってしまうが寒さにはもう慣れた。
「ふわぁ、暖かい。 あとノアのいい匂いがする……美味しそう」
メアリィはノアの服を身につけた後、くんくんと匂って表情を崩した。それだけならいいのだが、匂いを嗅いで涎を垂らすのはやめて欲しいものだ。メアリィが壊した鉄格子を捻じ曲げて繋いでどうにか誤魔化し、監視が起きる前にそっと出ていく。その帰り際に窓の外からホムラが剣を振っているのが見えた。その一振りには一切の淀みが無く、それを手本に部下達も剣を振る。ホムラは騎士隊長として部下達にかなり慕われるようだ。
「僕も騎士らしいことを少しはやろうかね」
中央街の大通りで短い叫び声が響いた。どうやら女性がひったくりにあったようだ。犯人は子供のようだが、足が速く一瞬で小道に逃げ込んでしまい女性はがっくりと肩を落とす。
「やった。 盗んでやったぞ」
子供は女性の鞄を胸に抱いたまま壁にもたれかかる。初めての犯行だったが簡単に成功したことに安堵した。だがそのせいで近づいて来ていた影に気づいていなかった。
「それ、返してもらえないかな」
子供は声にビクリと反応してキョロキョロと辺りを見回す。すると自分の影が普段より大きく、濃いくなっていることに気づいて空を見上げた。すると屋根の上でこちらを見下ろす人物がいた。
「ひっ、騎士!? 」
子供は慌てて立ち上がり小道を走り回る。必死に足を動かしてジグザグに裏道を進んでいった。
(全然気づかなかった、クソッ!こんなところで死んでたまるか)
子供は無我夢中で走り回る。仲間が窃盗で捕まり殺されるところを何度も見てきた。だから恐怖で震える足を殴ってでも走り続けなければならない。下界の子供は市民にとって害でしかないため、捕まら前に殺されることがほとんどだ。
「こ、ここまで来ればもう大丈夫だ。 やってやった! 騎士なんてちょろいもんだ」
しばらく走り続け、誰もいない裏道に入り込んだ子供は息を荒げ、膝に手をついて辺りを警戒する。そして誰もいない事を確認し、鞄の中身を漁ろうとした瞬間、前方の影が動いた。
「鬼ごっこは終わりかな?」
「なっ、なんで‼︎」
子供の表情が絶望に歪んだ。あれだけ道を選んで走り回ったのに騎士は悠々と先回りして待っていたのだ。騎士は剣を腰に刺しているうえに、自分と違って息が乱れてもいない。下界の子供にとって騎士とは、死そのもの。怯えたように体を震わせ涙を流した。
「……ま、待ってくれ。食うもんが無くて三日間くらい何も食べてないんだ」
「それは災難だね。 じゃあ鞄、返してもらうね」
「うわぁっ」
容赦なくぬっと伸ばされる手に子供は強く目を瞑る。だがいつまで経っても死が訪れるどころか何の痛みも感じないことを不思議に思い、子供は怯えながらもそっと目を開けた。
「……何で?」
目を開けると鞄は奪い返されていた。だが、その代わりに別の袋が手の上に乗せてある。このジャラジャラとした感触、袋の開け口から覗くキラキラとした輝き。子供は困惑したように瞬きを繰り返し、その騎士を見上げた。
「殺さない、の? これは?」
「食べるものないんだろ? それあげるから今度から捕まらないようにね 」
殺しもしない、捕まえもしない。そして盗むなとも言わない騎士に目を見開く。子供は手に持つジェルに負けない輝きを放つ目を騎士に向けていた。優しい事をした白髪の騎士は満足そうな表情で、鞄を持って大通りに返って行く。
「はい、これ。取り返してきましたよ」
「わ、ありがとうございます。 え……もしかしてノアくん?」
鞄を取られた女性は礼を言って頭を上げた後、ノアの名前を呼んだ。その女性はギルドでノアも世話になった職員のソフィだった。
「はい、お久しぶりです」
「ノアくん! 心配したんだから」
あの事件の後ギルドから姿を消したノアを、ソフィは眺める。まだ面影に幼さは残っているが、それ以上に逞しくなっていた事に驚いていた。
「もうギルドに来ないの? マスターもあの事は取り消してもいいって言ってたわ」
「ごめんなさい」
「Aランクから始めれるのよ? それにルドルフさん達も心配してたのよ? アテナだって……」
「いえ、そういうわけでは」
「じゃあどうして?」
あの事件の事もあり、相手の顔が見れずに気まずさを感じるノアだったが、ソフィは必死に食い下がる。ノアがあそこまで激怒した理由はわからない。だが温和だったノアがあそこまで激怒したのだから自分達が原因だとソフィは思っていた。でも親友のアテナのためにも、どうにかノアにギルドへ戻ってきて欲しかった。
「やりたい事ができたんです。やらないといけない事があるんです」
ソフィはノアの顔を見てそれ以上言うのをやめた。ソフィは心配していたのも本当で、ノアに迷いが無い事もわかってしまったからだ。それなら応援しようとソフィは決めた。
「そっか、残念ね」
その後もう少しだけソフィと雑談して別れ、城へと戻った。騎士らしいことをしようとしたのだが、窃盗を行った犯人は逃し、知り合いと雑談し、食材の調達をして帰ってしまった。これは騎士達に責められても文句は言えないなと苦笑する。
「出てきたら?」
ノアは後ろを振り返って声を出す。するとバツが悪そうに建物の陰から出てきた人物、ロキだ。ロキは今日、ずっとノアをついてきていたのだ。だがそんなロキの顔を見たノアは面食らったように口を開く。
「どうしたの?その顔」
「俺もニコラス隊長に戦いを挑んできました」
ロキは顔を痣だらけにして、ニッと笑った。ニコラスの前で決闘を申し込んだが、周りにいる部下達にボコボコにされたようで酷い有り様だ。罪人であるノアの部下ということもあり、容赦なく顔に受けたようだ。
「なんでそんなことを」
「殴られればノア隊長の気持ちがわかるかなって思ったんですけど、やっぱりわかりませんでした」
ロキはただ憧れているノアと同じことをしようとしたのだ。子供が親の真似をするように。だが結果には満足できなかったらしい。たた恥を晒しただけに終わっただけなのだから。
「俺はノア隊長の真似をしたいんで、今度は格好良いところ見せてください」
「えぇ、なにそれ」
実に面倒くさいことを言い出した部下にノアは顔を歪める。ニコラスを暗殺でもして死体でも見せてやればいいのだろうか。
「あと、俺に剣を教えてくれませんか? ノア隊長みたいになりたいんです。 それに、ノア隊長の役にも立てるようにも」
ロキは頭を下げて懇願する。ノアが暇ではないとわかっているが、それでも引き下がらなかった。今日、貧困な子供に恵みを与える優しさ、それは騎士としては失格ではあるが人としては尊敬できるものだった。やはり自分には理解できない良さがあるとロキは思えたのだ。
「う〜ん、どうしようか」
ノアは考える。有用性、ロキの可能性を考えた。時間を消費して彼の成長に費やす利益があるのかを。そして考えた結果、一つの道を見つけた。
「わかった、いいよ」
「本当ですか!?ありがとうございます」
ロキはそれから度々ノアの鍛錬に混ざるようになっていた。ロキはノアも驚くほど努力家だった。言われた回数はこなすし、筋も悪くなかった。ノアへの憧れがそのまま行動へと反映していたのだ。
この時間が最終的にどんな結果を産むのかは、まだわからない。




