第79話 惨めな守りびと
少女は真っ黒のお湯に浸かり表情を歪ませていた。本当は井戸の中にある綺麗な水を汲んできたのだが少女が入った途端に黒ずみ、ぷかぷかと汚れが浮かんできた。湯気に少女の臭いが混じって悪臭となっていたが、ノアは優しい笑みを浮かべたままだった。あの塔の中でノアは十分吐き出した。あれを最後に、ノアは決して笑顔を崩さないと決めていた。
だが少女は顔にも沢山の付着物がひっつき岩のように固まっているため、気持ち良くても顔を歪ませることすら難しかった。ノアは、少女がお湯に浸かっている間にもう一つ桶を用意し、急いで井戸から新しい水を汲んできた。片手で桶のお湯を掬って少女の頭から全身にかけていき、もう片方の手で新しく温かいお風呂を作り出す。異能の使いすぎか、頭がぼっーとしてきたが唇を噛んででも意識を保った。
おそらく一度も整えたことがないであろう少女の異常なほどに長い髪を、ノアは短剣で髪を肩の長さになるように切り落とす。多少雑にはなったが、これで洗いやすくもなるだろう。そして肝心の付着物。岩のように固まる汚れを、少女の肌を傷つけないように慎重に削った。幸いなことに少女は暴れることは一切無く、お湯の中でじっとしていてくれたため、腐った汚れは順調に削られていく。
そんなこんなで、数時間が経った頃。
「うん、ちゃんと女の子になった」
余計なものを全て削り落とし、少女から何とか人の形を取り戻させた。しかし終わってみれば、肉まで削ってしまったと思わせるほど付着物の無い少女の体は、余計にやせ細って見える。骨盤がむき出しになっているのがわかり、手足は棒のように細かった。その痛々しく、触るだけで折れてしまいそうな体をノアは慎重に優しく触れる。
冷水がお湯になると少女を新しい桶に移した。最初に入っていた桶のお湯は既にぬるく、少女の汚れでネバネバとした茶色い粘液となっていた。 ノアは倉庫の中を何度も探し回り見つけ出した石鹸を何度も手で擦り泡立たせ、白い泡を少女の頭にぽとりと落とす。髪を泡立てようと指の腹で撫でるが想像以上に泡立たず、髪に汚れが溜まりすぎて指が引っかかってしまう。ノアが何度も何度もお湯をかけながら手櫛でほぐしていくうちに、ようやく泡立たせられるようになったが、それでも泡は途端に白から黒へと変わっていく。一度も洗った事がないのだろう髪は、汚れと菌で作られているようで、泡が白くなるまでに相当の時間を要した。
「ふぅ。……君の髪、こんなに綺麗だったんだね」
泡が白くなる頃、髪の色は変化していた。というよりも、もともと彼女の髪は黒色では無かったのだ。少女の髪は汚れが落ちたことで、どす黒い黒から栗色の髪へと変わった。だがやはり栄養が足りて無いのか艶は無く、ごわごわとしていた。髪の後は少女の腕や脇、爪の間まで隅々まで洗い、二つ目の桶の水まで真っ黒になってしまった。しかしそのおかげで少女の容姿は一変し、怪物のような見た目では無くなっていた。顔色は見違えるほど良くなり、ほかほかと温まり柔らかい肌も戻ってきている。だが汚れを落としただけであって、未だに下界の子供よりもよっぽど酷い状態なのは変わらない。肌も、汚れは落としたとはいえ爪は変形しているし、顔も肌が腐っていたせいでボロボロだ。秘薬を飲ませたため、容姿にも少しは効果が現れるはずだろうが、まだ自力で動くことすら出来ないようだった。
ノアはとりあえず塔の中へ戻ることにして少女の服を探す。そこで初めて少女が服を元から着ていなかったことに気づいた。今は裸だと認識きできるが、さっきはそれに気づかないくらい酷い状態だったのだ。
ノアは自分のコートで少女をくるんで抱きかかえる。付着物が無くなった少女は悲しいほど軽かった。
ノアは少女と塔の中へ戻り、もう一つあった問題に気づく。
「ああ、これは掃除しないとダメか」
部屋の中には、昔誰かが中途半端に世話をしたのか、食べ物の残骸が床に散らばって腐っている。それに加えて少女が垂れ流した排泄物がベッドの上で固まって悪臭が篭っているのだ。
少女が腕の中でぶるりと体を震わせる。部屋の中は悪臭だけでなく、壁の割れ目から吹き付ける寒さも耐え難いものであった。皮肉にも、今まで彼女の皮膚には分厚い付着物がついていたため、冷たい風を防いでいた。そしてそれが無くなった今の彼女にはこの寒さは厳しいだろう。ノアは少女が湯冷めしないように自分の着ていた服まで脱ぎ少女に着せた。どうせ裸でもノアは死にやしないのだから我慢すればよかった。
ノアは急いで倉庫に戻り、漁って使えそうな物を全て取り出した。上半身裸のノアを見る使用人達はドン引きであったが、ノアはそんなことに構っている余裕はなかった。
こびりついた汚れは、雑巾ではとてもじゃないが落ちなかった。そのため水をかけながらたわしで何度も擦る。しかし寒さのせいで水をかければ途端に凍ってしまうし、指が全く動かなくなり苛立ちを覚えることもあった。
けれどその時は、指を切り落として再生することでノアは荒っぽく解決した。掃除を始めて10時間は経過しただろうか。少女はコートの中に体を埋め、すっかり眠ってしまった。
ようやく足場に石床の模様が見えてくると、次は壁を掃除し始める。何十年もそのままだったであろう汚れを剥がしていると、ノアはある物を見つけた。
「これは、暖炉?」
古びてはいるが十分立派な石造りの暖炉が隠れていた。ノアは少女が凍死する心配が無いことにホッとし、暖炉を丁寧に拭いていく。
問題は、隙間から強く吹き付ける風が邪魔なことと、暖かい炎を作り出す薪が無いことだ。隙間を修理する技量なんてノアにはないし、木が生えない極寒の世界で薪は貴重なものでとても提供してもらえるとは思えなかった。
「はぁ、仕方ないな」
疲労からか、一つ一つの反応に声やため息を漏らしてしまうが、こうでもしないとやってられなかった。
ノアは眼で壁を無理やり捻じ曲げて隙間を埋める。歪んだ壁はかなり不恰好ではあるが風の心配は無くなっていた。あとは暖炉の薪の代わりに燃やせるものを探す。
「くっしゅ!」
少女がくしゃみで体を飛び上がらせ、鼻水を垂らす。その反動でかけてあったコートが下がり、肩が露出して寒さに凍え始めた。ノアがとろとろしていたせいだろう。
ノアは薪が無いことが歯がゆく、きょろきょろと周りを見回す。すると代わりになる物が見つかったため、急いで準備をする。
「今暖かくするから、こっちにおいで」
ノアは優しく少女を持ち上げて暖炉の前に座らせた。いきなり持ち上げられて驚いた様子ではあったが、暴れずに少女はちょこんとその場に座ってくれた。
「ナァウ」
少女は暖かい炎に手をかざして目を細めた。炎にくべる薪の問題はすぐに片付いた。少女が風をひいてはいけないと、自分の翼を薪の代わりに千切って燃やしたのだ。羽毛は良く燃えて暖かな灯火となって部屋に温もりを与えた。少女はその優しい光をじっと見つめて暖かさを堪能する。しかし羽はすぐに燃え尽きて無くなってしまい、少女が小さくなる炎に悲しそうな表情を作る。だがその表示に反応したように、炎はまたすぐに大きくなった。それはノアが次から次へと翼を千切って燃やしたからだ。ブチリ、ブチリとちぎり取って炎に変える。炎は燃えて暖かいはずなのに、ノアは少しづつ寒くなっていくのを感じた。
少女は暖かさに包まれたことで、また眠気が襲ってきたのだろう。うつらうつらと顔を揺らしていた。だが唐突にグルグルと獣のような唸り声が響き渡り少女を怯えさせた。だがそれは少女のお腹の音だ。湯に浸かって血行が良くなり、脳に血が回ってきたのか体の感覚が戻り始めたのだろう。ノアはそのお腹の音が耳に届き、失いかけていた意識を取り戻す。
「……美味しいご飯持ってくるから、少し待っててね」
ノアは安全のために火を消した。ノアが側にいなければ必然的に火はそのうち消えるだろうが、少女が火に手を突っ込みやしないか不安だった。十分部屋の中は暖かいため凍死の心配はないが、念のためコートと、服の代わりに洗った毛布をかけてあげた。ノアは薄着を着て食べ物を探しに走り出した。
「……すみません、食事を貰えませんか」
ノアは王族の食事が用意される大食堂で少女の食べ物を貰えるよう頼んだ。ここで作られる料理は超一流のシェフが作る高級料理だ。それをあの少女に食べさせてあげたいと思った。だが返ってくる言葉はノアの予想通り、何もない。一瞥しただけでなんの反応もよこさないのだ。ノアが罪人であることがわかり軽蔑しているのだ。
「………クソッ」
ノアは聞こえないように悪態をついて即座に回れ右をする。自分は別に周りからどう思われようが気にしない。だから罪人と扱われた時も対して気にしなかったし騒ぎもしたかった。だが守りびとという立場であるなら罪人という肩書きは非常に邪魔だった。あの時無駄だとしても、もっと反論してとくべきだった。
「出て行け」
ノアは使用人達に用意される食事処に来ていた。質は下がるが此処なら貰えると思ったのだ。だが料理人と目が合った瞬間に拒絶されてしまう。
「……少しでいいんです」
「お前に食わせるものなんてない」
「王族の女の子に食べさせてやりたいんです」
「王族の? ああ、お前化け物を飼ってるのか? ハハッ!餌やりならこれで十分だろ!」
料理人は残り物のパンをノアに向かって乱暴に投げつけた。
「気持ち悪いな、早くあんなやつ殺せよな」
嫌悪を隠そうともしない料理人にノアは何も言わず、ただ頭を下げた。酷く情けない姿だ。周りで飯を食べている騎士達はパンを投げつけられても頭を下げているノアをどう思っているだろうか。
酒場は日常で溜め込んだ鬱憤を吐き出すための楽園だ。嫌な現実から逃げ込む者達が集まる悪循環の聖地。だからギルドの酒場では日頃の苛立ちを誰かにぶつけたくて、皆んなはその標的をノアに選んだ。そしてアテナを取られたという新たな苛立ちの原因を作りたくなくて、自分たちの聖域から排除しようとしていた。だが王族や騎士達は違う。王族は自分以外を軽蔑する。しかもそれが罪人であればなおさらだ。そして一番厄介なのが騎士達である。騎士達は自分の役職に誇りを持っている。だからこそ、騎士という立場で罪を背負うノアは同じ騎士として許しがたい存在だった。
しかしそれも仕方のないことだろう。罪人が自分達と同じように暮らしているのは誰だって苛立ちを覚える筈だ。何故あんなやつが平然と歩いているのだと。ごもっどな意見だ。
ただ騎士達は王族が決めたことに従うしかなく、ノアを騎士として扱わなければならないことに嫌悪感を抱いているだけだ。
だから、もっとも憐れで可哀想なのはあの少女だ。使用人にとっては少女の存在は迷惑極まりないものだ。今となっては放置されていたものの、少し前までは世話をした形跡があった。おそらく食事だけは届けていたのだろう。だが少女の前に持って行く前に、日に日に酷くなっていくあの異形な姿や臭いに耐えられず床に落として逃げたのだ。捨てられた少女。捨てざるおえなかった少女。少女は何かをしたわけでもなく、ただ病にかかっただけ。そしてその環境を作り出したのは自分かもしれない。
「ごめんね、これだけしか貰えなくて」
ノアは貰ったパンを少女の口に運んであげる。顎を動かすがパンは硬く、少女は嚙み切れる力がなかった。そのためノアは一度自分がパンを齧り、柔らかくしてから少女の口に移してやる。口移しの際に触れた唇はグジュグジュとした感触で、とても人の肌の一部とは思えなかった。それでもノアは丁寧に丁寧に世話をした。世界に捨てられた少女。哀れな少女。自分が化け物に変えた少女。誰にも必要とされずどこにも居場所が無い化け物。だから償う。皆が殺せと言っても、自分の願いが遠くなっても。
「それが僕の存在を示すものだから」
いつの日か、カナリアが言った言葉をノアは口にする。それは呪いのようにノアを突き動かす言霊であった。ただ昔の自分と重ねていた。
「……ゥウ?」
「僕が君の居場所を作るさ。僕は君の味方だから」
ノアは柔らかく微笑んで少女が眠りにつくまで頭を撫でてやる。
ーーー頭はまだぼんやりとしか働かない。目も霧がかかっていて見ることはできない。だがたしかに感じていた。
いつもは一つだったのに、いつのまにか部屋の中にいるのはニつになっていた。何かの声がときおり聞こえてきた。体が軽くなり動かせるようになった。鼻で息を出来るようになっていた。お腹が空き始めた。お腹が満たされ始めた。頭の上に乗せられた何かが優しく動いた。止まっていた生命な流れ始めた。
あれも知らない。これも知らない。それも知らない。ただただ知らないが少女を包み込む。知らない感覚に溺れて少女は戸惑う。
だが、それは心地いいもので、体が暖かくなった。
少女はゆっくりと浮かんでいる意識の中で、この日々を心に刻んで決して忘れなかった。




