第69話 愚者
騒がしいほど賑やかだった酒場は今、誰一人口を開く者がおらず沈黙で満たされていた。ノアの怒りで床は軋み、酒が注がれている器は激しく揺れて波紋を作り出していた。
激昂するノアの前で一人たりとも動く者は居なかった。否、動ける者が居なかった。Cランクは勿論、Bランクのハンターでさえもノアの前では凍てつき動くことが許されない。憤怒の中に狂気めいた殺気を撒き散らされて誰もが萎縮し、ノアの劇的な変貌ぶりに目を剥いた。そしてそれと同時に困惑する。今まで何をされても笑顔を崩さなかった少年が、まさか仮面を被った化け物だったとは思いもよらなかったからだ。なにより何が彼の逆鱗に触れたのかもわからなかった。
ノアの眼の中に宿る怒りで満たされたギラつく炎。足元に転がっているBランクハンターの男。それを見れば、動くと死ぬということは容易に理解できた。コツコツとノアの足音が聞こえるたびに、その音の大きさと比例して自分達の心臓の音もうるさく鳴り始める。今までノアに嫌がらせをしてきた者達は自分達に怒りの矛先をいつ向けられるのか怯えて声も出せず、内臓を握られた感覚におちいった。吐き気に襲われる者や中には泡を吹いて倒れ出す者も現れ始めていた。
「こいつは驚いた。今まで力を隠していたのか? まさかここまで変わるとは」
ジークは面白い物を見るようにノアを眺める。今さっき不要だと評価した子供が一瞬で化けたことに驚きを隠しきれない。
「これはすまなかったな。 まぁ怒りを収えてくれないか? 何か気に障ったなら謝ろうじゃないか」
「謝る? ふざけるな、お前の言葉なんて要らない。命で償え」
ジークは、素直にノアを欲しいと思った。ここで殺すにはあまりにも惜しく、このギルドに成果を生んでくれると思ったからだ。
だがノアはもう止まらない。今まで何をされても許してきた。何を言われても流してきた。だが、カナリアから貰った目だけは、この形見を貶すことだけは許さない。
ノアの挑戦的な言葉に、一人の男が立ち上がる。その男は重たい肉体を揺らすAランクのハンター、ドープルだ。
「おいおい、お前調子に乗るなよ?この人が誰かわかってんのか?」
ドープルがノアの肩を掴んで引き止めた。Aランクのハンターが止めに入ってくれたことで周りは安堵し、普段はドープルを嫌っている者達でさえも今はただ感謝できた。それは、それほど今のノアが恐ろしくてたまらなかったことを意味する。
しかし、その安堵も一瞬の時間だけだった。
「……触るな。お前から散りたいか?」
「は?」
ノアの殺意は拡散されたものでも周りの者達には耐えきれず、世界が歪んで見えるほど濃密なものだ。それを間近で、しかも人一人に集中されたら意識を保つことなど不可能だ。
「へぁ……くぷ……」
ドープルはノアの鋭い眼光を直接目にして、殺意に呑み込まれるように意識を崩壊させた。
腰を抜かして座り込んだドープルを見下ろすノアの眼は恐ろしく冷たかった。
「ハハハハ!こいつは最高だ。 ハンターってのはこうでないとな。無謀で、命知らずで、愚かじゃないとなぁオイ!」
ギルドマスターである自分の首を本気で狙っているノアを見たジークは楽しげに笑う。
ジークは堕落したハンター達が大嫌いだ。安全な道を選んで慎重に戦う、そんな男らしくも無い奴らは無価値だと考えていた。そのためノアのことが心底興味深かった。
「ああ、これがハンターってもんだろうが」
ドン、と扉が勢いよく開かれ、数人が息を切らしながら入ってきた。それはルドルフ達だ。その隣にはアテナやソフィの姿もあった。
「ノアくん、落ち着くんだ!」
「あれがノア……くん?」
怒り狂うノアを見てソフィが呼びに行ったらしく、ルドルフ達はノアをなだめるように声を上げる。アテナはノアから放たれる殺意に驚愕して声も出せない様子だった。いつも笑みが絶えない優しい少年の面影は幻だったかのように思えてならなかったのだ。
ノアはそんなルドルフやアテナ達を一瞥をくれただけで興味を持たずにジークだけを睨みつける。
「どうだ? お前をBランクに、いや。Sランクのハンターにしてやろう。こんな待遇は滅多にないぞ? 俺の息子もSランクだったんだが行方不明らしくてな、丁度枠が空いてんだ。悪くないだろ?」
息子が行方不明だと言うジークの声色に、悲しみの色も心配する気配も無い。それがジークの価値観である。ハンターというものは命をかけて抗う者。その認識が余計にノアの存在を欲した。CランクからいきなりSランクに上がるなんてことはギルドが設立されてからまだ一度も無いことだ。しかし誰もその贔屓に口出しする者は居ないだろう。Aランクのハンターを目の前で触らずに倒した張本人を前に、誰が文句を言えようか。
「ノアくん! ギルドマスターに手を出せばこの先ハンターを続けることは出来なくなる! 前に言ってたじゃないか。やりたい事があるんだろう? まずは一旦落ち着いてくれ!」
「ハンター? ランク?」
「そうだ。 夢を叶えるんじゃなかったのか」
ノアがぽつりと声を漏らして視線を向けたことにより、自分の声が届いたとルドルフは希望を持つ。このまま声をかければ何とか正気に戻せるかもしれないと。だが、ノアの耳には音として聞こえただけで、ルドルフの声は届いてなんかいなかった。
「ハハッ、くだらない」
ノアはルドルフの言葉を笑った。それはいつもの笑みではなく嘲笑の類だ。
「そんなもの興味はない。……僕はハンターが大嫌いだ!僕から全てを奪い、世界を壊した」
ノアは過去の戒めを叫びながら、懐から首飾りを取り出した。それはノアのハンターの証。ソフィから受け取り、一度たりともつけたこともない憎しみの代物。
ノアは、それを地面に叩きつけて踏みにじる。
「それに、お前が存在することが何よりも許せない。お前ら龍族が憎くて憎くてたまらない!」
さっきの言葉で確信した。髪の色や口癖から予想はしていたが、ジークはカナリアを殺した男の血縁者だ。希少なためか、この国に来て初めて見る龍族。その髪も、その角も、その笑みも、存在自体がノアの心を掻き立てる。角をへし折り顔を踏みつけ、ぐちゃぐちゃにしてやりたいと心の底から思う。ノアの目の前は怒りで赤く染まり何も見えなくなっていた。
扉の前でアテナがポロポロと涙を流していることすらノアは気づかないほどに。
「実に勿体ない、実に惜しい。 これほど愚かで貴重な人材を手に入れられたかもしれないというのに」
「どっちが愚者か、教えてやるさ」
余裕の態度を崩さないジークにノアは突進する。手には剣が握られており、本当に殺る気だというのがわかる。だからこそルドルフ達は間に割り込んだ。ハンターが大嫌い。それはノアと仲が良かったと思っていたからこそ、ルドルフの心にも刺さった。
(だけど君を止める。友だからこそ、こんなことはさせない。例え君が僕達を友だと思ってくれてなかったとしても)
ルドルフ、ドモン、リピアは亜人の力を解放して臨戦態勢に入る。Aランクのパーティーの中でもルドルフ達は多くの実績を上げてきている。フォーメーションを作り上げて何十体もの機械生物を倒してきた。その自信がノアを止めるという決断を行わせた。
床の下から地面が突き出しノアの逃げ道が塞がれる。そこにドモンとリピアが風の中に閉じ込め、動きを封じる。
「邪魔をするなぁぁぁ」
「なっ!」
だがノアは躊躇なく台風の中に体を捻じ込む。切り刻まれようと足を止める理由にはならず、そのままジークの元へと向かう。
(確信した!間違いない、俺は間違っていなかった!あの機械生物を倒したのはノアだ!)
ルドルフがずっと気になっていたこと。Aランク相当の機械生物を崩した張本人。あれを見た瞬間から、何か嫌な予感を感じていた。その実力の鱗片を、今のノアの姿を見てルドルフは顔を歪める。
「ふん、試してやろう」
ジークはその無鉄砲さに笑みをこぼしながらも龍の翼を広げてノアの剣をやすやすと弾く。だが翼を広げたのは剣を弾くことだけが目的ではない。ノアの胴体ほどの太さもある尻尾で、翼の陰、死角から攻撃するためだ。 その尻尾は鞭のようにしなりノアの顎を砕こうと迫っていく。
「これを避けるか」
ノアは空中で翻して尾を避けていた。ノアの眼に死角などないのだ。そしてこの眼を馬鹿にした愚者に、ノアは怒りの鉄槌を振り下ろす。ジークの顔面に拳を振り下ろし、顔が下がったところに蹴りを叩き込む。ギルドマスターでさえもやられる光景に全員の表情が絶望に歪む。
「ククク、本当に面白いやつだ。痛みなど何年ぶりか。 だが、浅い」
龍族の鱗は鉄よりも硬く、ジークは顔を上げると同時に極大な咆哮を放った。その咆哮は火を噴き、ノアの身体をやすやすと突き破っていく。
黒煙を上げながらギルドの外へと吹き飛ばされていくノアの姿をアテナやソフィは見てられなかった。
「ッ!、殺さなくたって!」
「ふん、周りを見ろ。俺はこれでもギルドの長だ。皆を守る義務もある」
ソフィがジークに非難の声を上げるがジークの行動は正しいだろう。他の者は怯えに怯え、このままではノアが居るだけでも被害は広がるばかりだ。そしてノアが死んだことにより周りのもの達は安堵し、無意識に止めていた息を吐き出した。
「それでも……」
いつもニコニコとしていた少年、それをあんな風にしてしまったのは自分達だ。ルドルフ達も自分達が止められなかったことを悔やみ握りこぶしを作り床を叩く。一番悔しいことは何が彼を怒らせたかも理解してやれないことだ。
すると崩れ落ちる瓦礫の中から、ゆらりと立ち上がる影があった。誰もが腹を突き破られて死んだと思っていたノアが無傷でそこに立っていたのだ。
「そんな……」
安堵の空気がまた恐怖に包まれる。しかもノアが発する怒りは更に強まっていき、目にするだけでも血液が沸騰しているかのように体が熱くなる。それはルドルフ達でさえも同様で、ノアを止めるには命をかけなければならないことを理解する。
「トカゲ風情が、僕を殺せると思うな」
「ハハハハッ!ギルドの長をトカゲ呼ばわりか。大した自信だなぁオイ!」
目を疑ったのはこの後だった。ノアの姿、怒りの具現化に、アテナは止められない涙を流して声を漏らした。
「あぁ……やっぱり…」
何故ならノアの姿が記憶の端にあったあの少年と同じだったからだ。眼は爛々と紅く燃え広がり、翼は黒から白へと変わっていく。
「最悪の気分だよ。本当にね」
そうだ。間違っていた。やられる奴が悪い。弱い者こそが悪だ。そんなことあの日から分かっていたことじゃないか。最初から全てねじ伏せればよかった。最初から全部、壊せばよかったのだ。
ノアが一歩踏み出すと殺意が膨れ上がる。皆の反応はそれぞれ異なっていた。ソフィは気を失い、ルドルフ達は闘志を震わせ、アテナは嘆き、ジークは嗤う。
もうどんな結末を迎えるかなんて周りから見ても誰も分からなかった。SランクやAランクのハンター達でも、ノアを倒すことが容易だとはとても言えない。
しかしノアも目の前の実力者達と殺し合いになれば自分が先に壊れる事くらい理解している。それでも、怒りのままに暴れずにはいられなかった。壊れる代わりに一つくらい壊してやるくらいは可能だろうと。
ただ安心が欲しい。それだけが周りの者達の願いとなった。
そしてその願いは予想外の結末から叶う。
「……なんだ? 力が入らない」
突如、力が抜けて眠気に襲われたノアは必死に頭を振るが、指は痺れて意識が遠のいていくのがわかる。
「まさか………待て、ダメだ」
思い当たるのは一つだけだ。こんなことが出来るのは一人だけだ。力が抜けて瞼が閉じるその瞬間まで、ノアはジークを睨み続けるしかできる事がない。
「ノア、帰ってきて」
いつの間にか、誰も気づかないうちにそこにいた猫の少女。その少女の腕の中に、鴉はパタリと倒れ込む。
毒の揺かごの中で、ノアは怒りとともにゆっくりと眠りについた。その光景を皆は黙って見ているだけだった。




