第47話 ニヴルヘイム
そこは銀白の世界だった。キラキラと羽毛のような雪が終りなく落ちてくる。ここは上界東区、ニヴルヘイム。
氷の壁に囲まれ、威厳を放ちながらそびえ立つこの城にノアは足を踏み入れる。
ノアとテト、2人は仮面を被り氷壁の上から雪の世界を見下ろしていた。口から出る息は白く、出た途端に凍っていく。ここは絶対零度、吹き付ける風はノア達の身体を痛めつけた。
さぁ、始めようか
城内には王を守るため、洗練された騎士達が目を光らせていた。カツカツと硬い足音を規則的に鳴らしながら徘徊している騎士達は、鼠一匹でも見つけようものなら即始末するという気迫が漂っていた。そんな騎士達の赤いマントがそよ風に吹かれてゆらりと浮いた。この極寒の廊下であっても騎士達は、鋼の精神でただひたすら護衛に専心している。
だが、ここにいる騎士達は気づけない。マントを揺らした風の正体に気づけない。
1人の少年が駆け抜けていったことには気づけなかった。
怪盗は踊るように騎士達の意識外へと通り抜けた。
ボスに秘薬の場所を聞きに行った際、一枚の紙を渡された。それは手書きの見取り図で、秘薬へのルートが示されていた。あらかじめ用意されていたそれは、まるでノアが行くと知っていたようだった。
秘薬の在り処は城から隔離されている塔にある。そこに行くには城内から石橋を渡っていかなければならず、その石橋へ行くには扉を開ける装置を動かす必要があった。そのため二手に分かれ、テトはノアを渡らせるために装置のもとへ向かう。
とてつもなく広い城内をノアはひたすら走り回った。豪華な銅像を跨ぎ、煌めくシャンデリアを足場にして空を舞う。凄まじい速度で移動しているはずが、シャンデリアは音を鳴らさず、灯されている炎は揺らがない。そこにいる誰もが、ノアを察せる余地など存在しなかった。
扉の前へと到着したノアは物陰に潜んで息を飲む。その扉は石造りで分厚く、ノアの何倍もの大きさがあった。
扉が開きっぱなしだと誰かにバレる可能性があるため、開ける時間は一瞬にするとテトと計画しており、ノアが眼で把握して見積もった時間は10分だ。10分後にこの扉は一瞬だけ開かれる。どちらかが少しでも失敗すれば、道が行き止まりとなるこの作戦。だか互いを信用していればなんてことないことだ。
「今ッ!」
ノアは柱の影から身を乗り出して扉に向かって走り出した。まだその扉は開いていない。だがそのままなんの躊躇もなく扉へ突っ込んでいく。
するとほんの一瞬、子供1人入れるほどの隙間が生まれた。完璧なタイミングでテトが装置を起動させたのだ。ノアは身体を捻るように跳び、扉の中へ転がむとすぐさま気配を消した。
「音がしなかったか?」
「おい、誰もいないぞ」
扉が開いたのは一瞬だったとはいえ、やはり音は生じてしまい、すぐさま騎士が集まり始めた。しかし騎士達が来た時にはそこには誰もおらず、扉も固く閉まったままだった。
「上手くいったみたいだ」
ノアは扉の向こう側で、引き返す騎士達の姿を確認しながら、立ち止まる時間はないと言わんばかりにまた走り出す。ここからは石橋を渡って塔へと向かう。石橋は露出しているため強烈な吹雪がノアを襲うが、それでもノアはひたすら走る。眼で確認するも、この先に人の気配はもうない。このでかい塔は無人のようで倉庫か何かなのだろう。石橋を渡りきり、塔の中へと楽々侵入していく。
そこからはただ階段を登るだけだった。永遠にも思えるほど続く螺旋階段では、自分の足音だけが木霊する。
(テトに頼って良かった、僕はだけじゃ絶対にたどり着けなかったな)
一段、また一段と階段を上がっていき、ついに無限の終わりがそこまで見え始めた。ノアは一気に駆け上がり、塔の頂上へと登りつめる。塔の頂上、そこは一つの部屋のようだった。古い木で造られた扉、ここだけ城の一部ではないかのようにボロボロだ。
そして扉を開けるとノアは顔をしかめた。
「ひどい臭いだ」
鼻が曲がりそうな悪臭が漂っている。床は食べ物の残骸がそのままにされており、壁や床も汚れで変色している。
ノアは早くここから出ようと秘薬を探し始める。知覚範囲を広げ部屋中をくまなく把握し始めた瞬間、ノアは驚きナイフを握りしめた。
「なっ!さっきまで…」
目の前に人が居た。ノアはさっきまで全く気づかず部屋を探っていたことに肝を冷やした。
だが、すぐにノアはナイフを下ろすこととなる。その気配はまだ子供、ノアよりも幼い子供だった。おそらくは女の子、ベッドに寝かされ弱りきっており髪も伸ばし放題だ。悪臭を放ち、顔には沢山の汚れがついているため表情もうまく読み取れない。ただ、自我を持っていないのか、自分に意識を向けていないことはわかる。
この子の病気を治すために秘薬が置いてあるのだろうか、その子の近くにある机の上にそれはあった。
「でも、ごめんね。これは貰って行く」
ノアはロイのためにここへ来た。人を同情している暇もなければ余裕もない。ノアは秘薬を手に持ち、古びた扉を開いてその場を去った。
――その後ろ姿を少女はじっと見つめているだけで、ポツンと部屋の中に取り残されていった。
長い長い螺旋階段、苦しいのは登りだけで下りは一瞬だ。ノアは翼を広げて適度な速度で降下する。今度はあの固く閉まる扉を開かずとも、露出された石橋から降りるだけで外へは出れる。
ノアは石橋に着くと気合を入れて壁にへばりついた。ここから壁を使って下へ下へ降りていかないといけない。
壁の窪みを上手く使ってゆっくりと降りていく。下手して落ちれば普通の人では助からない高さ。なにより厄介なのがこの吹雪だ。翼を開いて降りようものなら吹き飛ばされて、運が悪ければ騎士達が集う場所に転落してしまうかもしれない。だが今やっていることも十分困難な道でもある。凍りついた壁に指をかけて、風に負けないようにゆっくりと降りていく。ペリペリとした音が聞こえ、指を見ると壁に皮膚が残っていた。
本当に友情とは無価値な情愛だ。こんなところまで来て、こんな思いをして、自分が得することなんて何もない。カナリアのこととは無関係、今ノアは寄り道をしているのだ。
だがカナリアが知って欲しいと言った友情。酷く面倒であるが大切なものだとも心で理解している。あの森の中だけでは知り得ないものも確かにあった。
(だから全てを持って、君を外へ連れ出したい)
なんとか地面に足をつけ、そのまま城の壁へと向かう。テトは既に壁を登り、ノアを待っているはずだ。またこんなにも高くそびえ立つ壁を登らないといけないことにため息が出るが、そのため息すら一瞬で凍りついていく。
ノアは近道がないことを諦めて壁に手をかけた瞬間、ノアの全身に光が当てられた。
「悪いなぁ。そこらのやつは見逃しても俺は見逃さねえぞ」
1人明らかに違うオーラを発している男が、面倒くさそうに頭を掻きノアに近づいた。その男は灰色の髪に、鋭く光る黄色い瞳。そして、黒が混ざった灰色の大きな羽を背に生やしている。
目は透明ではない。おそらくはノアと同じ、獣族。
それは太古の時代に空を支配していた空の王者、鷲と呼ばれていたものである。
「これも仕事なんだわ。諦めて死んでくれよ」
男はノアに見せつけるように羽を広げて剣を掲げる。
明らかに強い、だが心の中の焦りを握りつぶすようにノアもナイフを掴み取った。
「断る」
しんしんと降り積もった雪の上で、鴉と鷲が火花を散らした。




