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海と牧童(2)  作者: 海神
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海と牧童(2)


 ある日、少年は牧舎を出ると「中の泉」と呼ばれる小さな泉に向かった。


広い牧場には他にも4つの泉があって、いつも羊たちが群れていたが、この中


の泉にはあまり集まらなかった。


 何故かと言うと、この泉の周辺には羊たちの足を傷つけやすい瓦礫が随分転


がっており、あっちこっちに茨の小さな茂みがあったから。


 牧童の今日の仕事は、この瓦礫を取除いたり、茨を刈込んだりすることだっ


た。


 泉に着いて、今にも仕事を始めようとした時、少年の前に現れたのは一匹の


牝羊だった。


 「海の好きな牧童さん、私の住み家を荒らさないで。」


 「君は、始めて見るけど……」


 「私は、この牧場のずっと北の方にある別の牧場から三日前に着いたの。」


 牝羊は首に木の実でつくった赤い首飾りを巻いている。少年は聞いた。


 「それにしても、僕が海を好きだってどうしてわかるの……ここが君の住み


家だって。何故だろう」


 「あなたの心の中に海が見えるからよ。そしてこの泉が茨に囲まれているから……」


 「でも僕は君にひとことも海の話なんかしてないし、どうしてなんだろう……。


茨に囲まれているからここが好きなの……何故?」


 牝羊は何も答えず、悪戯っぽく笑うと、向うへ駆けて行ってしまった。


 「とにかくここを、荒らさないで」


 その夜、少年はいつものように牧舎で一匹一匹の羊たちを思い浮かべてはそ


れぞれの羊たちに心の中で優しい言葉をかけた。


 しかし、最後になってあの赤い首飾の牝羊を思い浮かべると、ふと心の中に波


紋のようなものが広がっていった。


 それは次第に大きくなっていき、やがて様々な疑問の渦となって彼を浸した。


 (何故、あの牝羊に、海について何も話してないのに、僕が海を好きだって分っ


たのだろう。)


 (何故、茨のある泉が彼女の住み家なのだろう)


 翌朝、少年は再び中の泉にやってきた。牝羊は泉の辺りで水面を見つめてい


たが、すぐに彼のそばにやって来ると口を開いた。


 「昨日のナゾの答えを聞きに来たのね」


 その言葉は新たな驚きを少年の心の中に呼び起こしそうであった。しかしす


ぐに牝羊は言葉を続けたのである。


 「最初に、何故、茨が私の住み家かを話ましょう。私の経験によれば、茨の


茂みの中には、美しい泉が湧くの。


そしてそのような泉の辺りには深い色合いのきれいな花が咲く、あるいは純白


の花が。


 そうしたきれいな花を求めて、わたしは旅をしているのです。ほら、ここに


も真白い花。この花は私の知る限りでは、およそ茨のある泉にしか咲かない。



 何故でしょう。



 この花が知っているからでしょうか、茨の中なら人も羊も踏込まないのを。


それも一つの答えだわ。


 でも、美しいものが開花するためには、茨のトゲのように鋭くて他のものを


傷つけてしまう、そのような何かに包まれる必要があるのよ。


 さて、もうひとつの問に対する答えも、この茨のトゲの中に隠されているわ。


 そしてこの花の中に。


 いま、あなたにはこの美しい純白の花の心が分らない。それではこの茨のト


ゲであなたの右手を傷つけた後、この花びらに触れてごらんなさい……」



 そう言われて少年は右手の薬指を茨で傷つけたあと、そっと花びらに触れて


みた。


 指先から流れ出た赤い血液が純白の花びらに滲んでいくのを見ながら、少年は


ある瞬間にはっとした。花びらに血が滲みていくに従って、彼にはその花の哀


願するような悲しみが感じられたのである。




 「ほら、あなたは感じることができたでしょう、花の悲しみを。それはこの


茨のトゲのおかげなのです。これまで、あなたは海のコトバでしか物事を理解


できなかった。


 自分が海だと思うから、この牧場で優しくしていられた。羊たちへのあなた


の優しさは、海の優しさだった。けれどもあなたは花の心を感じられない。あ


なたの海には花が咲かない。何故ならあなたの優しい海には茨もトゲもないか


らなの」



 少年には、本当を言うと牝羊の言うことがよく理解できなかった。美しい花


を求めるために、何故茨の茂みを探さなければならないのだろう。



 でも僕は今日、花の心を感じることができた。それが「海の何に関すること


か」と観念を通さずに、花の心を感じる事が出来たのだ。



 それはいいことなのだろうか、それとも悪い事なのだろうか、


僕の牧場にとって。



 ともあれ、この日から少年の心には、かつてのあの遠い憧れの海と同じよう


に、常に彼の心の世界に現れ、彼の心を満たし、またかき乱す何物かが生まれ


たのである。


 それはあの赤い首飾りの牝羊であった。



 彼の心が持ったのは「感情」というものであった。あの牝羊の不可解さに想


いを馳せる時、彼はいつも捉え難い心のはやりを覚えるのだ。



 ある夜、彼は一匹一匹の羊たちのことを思い浮かべながら心の中で彼らに話


しかけていた。そうしたいつもの儀式が途中まで来たとき、彼は突然喜びのま


なざしを輝かせながらすっくと立ちあがり叫んだ。



 「そうだ、もう、昼も夜も、一匹一匹の羊と必ずしもコトバを交わしたりす


る必要はないのだ。


 今夜、たった今、僕は彼らとコトバを通じなくても彼らの考えていることや


、彼らが幸せか不幸せかわかる」



 「何故、僕はコトバなど信じたのだろう。僕はコトバなど使わなくても、羊


たちの優しい心の動きを感じることが出来るのだ」


 嬉しさのあまり、彼は表に飛び出して歌い始めた。そして急いであの中の泉


へと向かったのである。この喜びを少しでも早くあの牝羊に伝えたい。




 茨をかき分けて少年は泉のほとりに来た。牝羊はもうすでに牧草に身を横た


えて休んでいるようで、寝顔には安らぎがあり、寝息が泉の水面を優しく漂っ


ているかのようだった。



 少年は牝羊を起こす気にはならなかった。そして彼女を見つめていると、自


分の心も安らぎに満されて行くのを感じた。



 その時、牝羊の寝息をたてるその表情が、ふと曇ったように思えた。彼女は


夢を見ているのであろうか。だとすれば、それはどんな夢だろう。



 少年はふと好奇心を持った。そしてそっと手を伸ばすと牝羊のまぶたを指先


でそっと触ってみた。彼女の夢に触れることができるかもしれない。



その時


 「なにをするの!」



 目覚めた牝羊は、拒絶に溢れた厳しいまなざしで彼を見つめた。


 「わたしの夢を覗こうとするなんて許せない、


出ていって、すぐに。


 このわたしの泉の世界から出ていって」

 

 そのあまりにもすさまじい、敵にでも対するような牝羊の恐いまなざし


は少年を脅かした。



 少年は急いで走って中の泉を立ち去ると牧舎に向かった。けれども、途


中で、驚きと悲しみに絶えきれずに地の上にくずおれてしまった。



 それから3日ばかり、少年は中の泉に近づけなかった。あの牝羊のことを思


うと、彼の心の中に、果実にも似た悲しみと切ない甘さが一杯に満ちてくる。



 (あんな恐ろしいまなざしをしたからには、彼女はもう僕の心を決定的に拒


否したのだろうか、僕が彼女の夢を覗こうとしたことは、そんなに悪いことだ


ったのだろうか)



 少年がそうやって心を痛めている時、西の泉の子羊が一匹やって来た。


 「やあこんにちわ、牧童さん、なんだか元気がありませんね」


 「そんなことはない、元気だよ。ただここのところ、ちょっと気分が悪いんだ。


なにもう平気だよ。ああ、それはそうと中の泉の牝羊さんはどうしてるか


知らないか」


 「ああ、あの赤い首飾りの牝羊さんなら、東の泉の子羊さんたちと一緒に遊


んでいますよ」


 少年はちょっと意外に思った。そして寂しい気もした。でも、ともかく彼女


の方は元気なのだ。よし、僕も行って一緒に遊ぼう。

 

 東の泉のほとりには暖かい日差しが満ち溢れていた。牝羊はそこで、他の羊


たちと一緒に楽しげに歌っていたのである。少年はその集まりに自分も入ろう


として一瞬はっとした。そこで歌われているのは、少年が聞いたことのない羊


だけの歌だった。


 しかたなく少年は集いを少し離れた所で、牧草の上にあおむけになって、聞


こえてくる歌声をじっと受け止めていた。しかし少年はもちろん羊たちだけの歌は


は分からないけれど、彼等の歌の意味が感じられた。コトバを介さなくて


も花の心が感じられたようにである。


 少年はそのことに深く満足した。そしてそれが誰あろうあの牝羊のおかげだ


と思い、そのことでは彼女に心から感謝しなければと思った。


 その時、牝羊が彼の側に来て顔をのぞき込んだ。少年は言った。


 「牝羊さん、みんなの中に入れなくて僕がしょぼくれているとでも思ったかい。


あなたのおかげで、羊たちだけの歌の意味はわからないけれど、あなたたちの


歌が感じられるんだよ」


 牝羊はそれを聞くと、にっこり微笑んだのである。彼女も、少年のその言葉


が本当にうれしかったに違いない。牝羊のその微笑みを見て、少年の胸に熱い


ものが込み上げてきた。


 しかしこの時、少年は大事なことを忘れてしまっていた。すなわち数日前、


同じその瞳の中の、夢を覗こうとしたばかりに、彼があの狂おしいばかりの悲


しさの中に突き落されたのだということを。



 ともあれこの東の泉で牝羊は「夢」の話をきり出した。


 「茨の泉にはきれいな花が咲く。でも本当の事を言うならば、わたしの目的


は夢なのです。夜のとばりが泉をおおう頃、茨は闇の中にその無数のトゲを隠


すかに見える。


 でも、月の光がうっすらとでも牧場に影を落す時、茨たちは見せずにはおら


れないでしょう。彼女等の持つ鋭いトゲたちが、その突端を夜露に濡らして、


あやしいきらめきと共に小動物たちを狙うのを。


 そのような茨の茂みに囲まれているからこそ、私の夢は美しい。



 昼間あなたが海のようにと喩えて見る牧場の優しさは、それは風景としては


虚妄のものなのです。あなたには茨は邪魔でしょう。でも夜になって夢見る時、


わたしには牧場こそ邪魔なのです……」



 少年には、牝羊の言うことは、よく解らなかった。だからこの日の夜にも、


彼の脳裏に浮かんだのは、彼の気持ちが牝羊にわかってもらえたこと、そして


牝羊も少年の気持を拒絶しているわけではないのだという、それだけだった。



 そして少年が考えるのは、明日からはあの牝羊と一緒に仕事をしようという


ことだった。


 牧場にあるいくつかの泉を彼女と一緒に訪ね歩き、羊たちと共に楽しく過


ごそう。


 彼女と共に牧場を完成させるという事は、何とすてきなことだろう。



 こうして牝羊と出会って以来彼はあまり海のことを想わなくなっていた。今


やどのような海よりも、あの赤い首飾りの牝羊の方が大切な存在であるかのよ


うだった。


 しかし、この牧場の安らかさと、そしてあの牝羊の優しささえあれば、彼は


もう二度と海を想ったりしないであろうか。





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