24話
「兄さん、魚とってきましたよ」
「……ああ」
「はい、お口開けてー」
緩慢な動きで、ヒッサーは口を開ける。タマルはうんと背伸びして、その口の中に魚を放り込んだ。
10を過ぎたころから殆ど背が伸びなくなったタマルと違い、リザードマンであるヒッサーの背は生きている限りどこまでも伸び続ける。既に4メートルを超えた彼はもはや歩くことも出来ず、ただ床に座り込んで日々を過ごしていた。
チャニは、ヒッサーに愛を告白した翌年、彼らが19の時に死んだ。リザードマンの女としては平均的な寿命だったと言っていい。幸せそうな、安らかな死に顔だった。
その三年後、タマルが22の時、チャニの妹シーラも18でこの世を去った。ヒッサーと族長の座を競い合ったダルーも、彼らの友人達は皆死んだ。
残っているのは、タマルとヒッサーだけ。雌よりも寿命が短くなる傾向の強い雄のリザードマンでヒッサーが24まで生きているのは、僥倖と言えた。
だがその半分は、タマルが甲斐甲斐しくヒッサーの世話をするおかげでもある。リザードマン達は尚武の種族だ。己で獲物を取れなくなればあっさりと逝ってしまう事が多い。長老として慕われ、知識と引き換えにさまざまな差し入れがあると言っても、タマルの尽力無くしてはヒッサーが生きながらえる事は不可能だっただろう。
歳をとればとるほど大きく育ち、動きは緩慢に、必要な食糧の量は増えていく。そしてやがては己の重みに潰されて死んでいく。リザードマンとはそうした種族なのだ。
「じゃあ、出かけてくるね」
「ああ」
「日が落ちる頃には戻るから」
一通りヒッサーの世話を済ませた後、タマルはそう言って家を出る。
向かう先は、未だに親交のある唯一の相手の居場所だった。
「だから、何度来られたって無理なもんは無理なんだって」
その相手……ローウェンはタマルの顔を見るなり、実に嫌そうな表情でそう言った。
「お願い。それでも、いいから……」
そんな彼を、タマルは両手を組んでじっと見つめる。一角獣は盛大にため息をついた。
「あのなあ嬢ちゃん。確かにあんたは美人だし、未だに処女だ。けどなあ、流石にとうが立ちすぎてる。俺ぁ十三歳以下専門なんだってば」
そう言った瞬間、彼の足もとに矢が突き立つ。
「何か言った?」
「何でもありません、マム」
避けるどころか反応も出来ぬ早業に、獰猛な一角獣は震えあがりながらそう答えた。
「二十四はまだまだ若いの! 大体、自分が何歳だと思ってるのよ」
「仰る通りで」
怒鳴るタマルに、ローウェンはへこへこと頭を下げながらひたすら嵐が過ぎ去るのを待つばかりだ。
「二十四は……まだまだ、若いんだから……」
自分に言い聞かせるように呟くタマルに、一角獣はもう一度溜め息をついた。
「そうは言ってもなあ……」
確かに、人間の基準であれば二十四と言うのはギリギリ若いと言ってもらえる年齢だろう。聖なる獣である一角獣のローウェンにとってはそれこそ一瞬のようなものだ。
だが、リザードマンにとっては、そうではない。
「いいかい嬢ちゃん。月と太陽はけして交わらねえ。この世に生きるものは皆、歩む速度が違うんだ。幾ら俺の角を使っても、傷や病気は治せても、時間を早めたり遅くしたり、ましてや戻したりする事なんかできねえ。時っていうのはただ、重ねていくしか出来ないもんなんだ」
訥々と、ローウェンはもう少女と呼べぬ年になった女をそう諭す。毎週のようにヒッサーは一角獣の薬を与えられ、生かされている。しかしそれももう限界に近いはずだった。
「だったらなぜ、あなたは少女を求めたの?」
不意に、タマルはローウェンにそう尋ねた。
「なるべく長く共にいられる相手を求めたからじゃないの?」
彼は答えず、押し黙る。もう何年生きたかすらわからない程の時を、一角獣はずっとこの森で重ねてきた。人やリザードマン、その他様々な生き物と交わった事もある。そしてその度に、彼はそれを思い知ってきた。
「……うるせえ、俺はただ幼女が好きなだけだ」
いつからか彼は、美しく無垢なものだけを求めた。その理由はなんだったか。もうそれも、思い出せない。
「……角の欠片、貰っていい?」
タマルがそう聞くと、ローウェンは無言で角を彼女に向けた。
「これで最後にする。……どっちみち、もうそろそろだと思うから」
それを丁寧にナイフで削り、削った粉を布で受け止めながら、タマルはそう呟いた。ローウェンは答えず、ただ苛立たしげに蹄を二、三度鳴らす。
「さようなら。優しい、一角獣さん」
最後にその頬に口づけて、タマルは最後の別れを告げた。
「兄さん、ご飯ですよ」
「ああ」
頷くことも出来ず、ただ喉の奥から掠れた声を上げるヒッサーの口の中に、タマルは磨り潰した魚の身を放り込んだ。もはや咀嚼することもかなわなくなったヒッサーは、それを喉の奥にごくりと飲み込む。
「……静かですね」
「ああ」
小さな家の中に、ただ二人。痛いほどの静寂の中、かつて街でかった時計の音だけが、カチコチと鳴り響く。
「寒くはないですか?」
「ああ」
二人は時計の長針と短針のようなものだ、とタマルは思った。
生まれた歳は同じでも、タマルは一度もヒッサーに追いつくことは出来ず、彼は彼女を置いてどんどんと先へと進んで行ってしまう。
「ボリス。覚えてますか?」
「ああ」
「彼、この前結婚したそうです。わたしは、式にはいけませんでしたけど……きっと、素敵な家庭を作るんでしょうね」
「ああ」
「そうそう、結婚と言えば、シーラの上の子。ウーツェも今度、結婚するんですって」
「ああ」
「覚えてる? ここの傷。兄さんが、わたしを庇ってローウェンに刺された時の。綺麗に消えたと思ったけど、こうしてみるとやっぱり、跡が残っちゃってるね」
「ああ」
「傷と言えば、わたしも結構あるけど。小さい頃は、危ないことしてお兄ちゃんに怒られてばっかりだったね」
「ああ」
「……」
「……」
「愛してます」
「ああ」
「……」
「知ってた」
「はい。知ってるのも、知ってました」
「ああ」
「ほんとですよ?」
「ああ」
「……」
「俺も、愛していた」
「はい。知ってました」
「そうか」
「はい」
「……」
「……」
「相思相愛ですね」
「ああ」
「もっと早く、言えば良かったのかなあ」
「……」
「そうしたら、何か変わってたんでしょうか」
「……」
「それとも、変わってなかったんでしょうか」
「……」
「兄さん?」
「……」
「……おやすみなさい」
タマルはヒッサーの頬に両手を当て、そっと口づけると瞼を閉じ、彼の胸元に寄り添う。
チクタクとなる時計の音だけが、ただ部屋の中に響いた。