第96話 咲洲
夜の高速道路を降りた瞬間、肌を刺す空気が一変した。
窓の隙間から、濃い潮の匂いが滑り込んでくる。
遠く、どこか暗い海の底から響くような、コンテナ船の低い汽笛が小さく鳴り響いた。
巨大な港湾橋脚の向こう側、漆黒の海に浮かぶようにして、「咲洲」の街並みが姿を現す。
海を埋め立てて造られた、無機質な人工島。
高層ビル群の輪郭は今も夜空へ鋭く伸びている。
だが近づくにつれ、その異様さが見え始めた。
ガラス張りだったはずの外壁はところどころ黒くひび割れ、潮風に削られた金属フレームが剥き出しになっている。
無人の歩道橋には錆びた標識が傾き、停止したままの搬送ドローンが、まるで力尽きた鳥のように道路脇へ転がっていた。
ところどころに、まだ人工の光が残っていた。しかし、そこには決定的なものが欠けていた。
――人の気配が、まったくない。
まるで精巧に作られた墓標のようだと、ソラは思った。
「……海だ」
ソラの声が少し弾む。
「おいおい、観光旅行じゃないんだからな。テンション上がってる場合じゃないぞ」
隣で蓮が苦笑交じりに肩をすくめた。
だが、その声はいつになく硬い。
窓の外を見つめる横顔には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
道路脇を等間隔で流れていく街灯が、脈打つように不規則な明滅を繰り返していた。
運転席のカイが、バックミラー越しに後部座席を一瞥する。
「通信、乱れてるのか」
「はい」
助手席の師乃が、膝上のモニターから視線を外さずに答える。
「GPSの同期が不安定です。先行させた観測ドローンも、映像信号が先ほどから断続的に途切れています」
「近いな」
前方に、巨大な影がゆっくりと浮かび上がってきた。
コスモタワー。
百年前のAI事変で壊滅した湾岸区画の中でも、特に被害が大きかった区域の一つだ。
高層部は半ばから崩れ落ち、外壁は焼け爛れたように黒く変色している。
割れたガラス窓が夜の海風に微かに軋み、剥き出しになった鉄骨には、錆びた赤茶色が血管のように広がっていた。
それでも、建物はまだ立っていた。
巨大すぎて、壊れ切ることすらできなかった亡骸。
黒い海を背負ったその廃墟は、まるで百年前からそこに居座り続ける怪物のように、静かに街を見下ろしている。
そして。
「……なんだ、あれ」
蓮が眉をひそめた。
本来なら完全に停止しているはずのコスモタワー内部に、淡い光が点いていた。
崩れたフロアの奥。
誰もいないはずの通路。
割れた窓の向こう。
ぽつり、ぽつりと。
まるで廃墟そのものが、まだ眠っていないみたいに。
ビルの前に車を止め、車を降りた瞬間、強烈な海風が容赦なく衣服をなびかせた。冷たい。
一般市民はすでに避難していた。機構からの要請で、咲洲全体が立入禁止になっていた。
だが、それだけでは説明のつかない「静寂」が、島全体を支配していた。
「機構襲撃の時と違いますね」
ソラが周囲を警戒しながら言う。
「あれは機械が意志を持って動いていたからな」
「静かだね」
日和が言った。
その肩に乗っていたクロエが、突然ぶわりと全身の毛を逆立てた。
「……やな感じするにゃ」
「え?」
ソラが振り返る。
クロエは暗いビルを睨みつけたまま、低く唸る。
「ここ、まだ“残ってる”にゃ」
「残ってる?」
「わからないにゃ。でも……ここ、死んでないニャ」
カイが前を見据えたまま、歩調を緩めずに尋ねる。
「旧AIコアの反応は」
「コスモタワー地下深部です」
師乃が透過モニターへ視線を落としたまま答える。
「ですが……出力値がおかしい」
「どう違う」
「強すぎます。今まで回収した五つのコア、その総量に近い反応が、一つから出ています」
空気が、わずかに張り詰めた。
「最後のサテライトだからか」
カイが淡々と言う。
「……おそらくは」
「おそらく?」
カイが眉を寄せる。
「別要因の可能性もあります」
師乃の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「内部構造そのものが変質しているか、あるいは……既に何者かが接触している可能性があります」
「敵か」
「断定はできません」
カイは崩れたコスモタワーを見上げた。
まるで何かがこちらを見下ろしているようだった。




