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Boundary  作者: 楓シロ
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第75話 アカルヒメ

「――アカルヒメ」


 日和の声が静かに響く。

 その名が空間に落ちた瞬間、男の顔から、一瞬で血の気が引いた。


「そんな……馬鹿な……!」

 

 男は半狂乱になって腕を振り上げた。

「消えろォォォッ!!」


 轟音。

 周囲の植物が一斉に牙を剥く。丸太のような太さの蔦が何十本も地面を砕きながら、日和へ向かって猛然と殺到した。


 だが、日和は動かない。

 避けるわけでもなけ、構えもなく、ただ静かに、そこに立っている。


 蔦が、彼女を包む赤い光へ触れた瞬間だった。


 ――ドン。


 空間が爆ぜるような、奇妙な音がした。

 次の瞬間、凄まじい衝撃と共に男の身体が真後ろへと吹き飛んだ。


「がっ!?」


 地面を激しく転がり、男は何が起きたのか理解できず目を見開く。


 蔦は日和へ届いていない。それなのに、今、自分を襲ったこの衝撃は、間違いなく自分が放った攻撃そのものの威力だった。


「な……」

 男の頬が引きつる。

「何だ……これは……」


 得体の知れない恐怖が、じわりと脳裏に滲む。

 日和は答えない。赤い光の中で、ただ静かに立っていた。

 

「ふざけるなァ!!」


 恐怖を振り払うように、男が吠えた。

 再び植物が暴れ狂う。巨大な根が地面を突き破り、毒花粉が突風となって吹き荒れ、無数の蔦が日和を呑み込もうと波濤となって殺到する。


 ――その全てが。触れた瞬間、反転した。


 バキッ!

 男の肩が、根の打撃によって粉砕される。


「ひぎっ…!?」


 ブシュッ!

 毒の刃と化した蔦の擦過傷が、男の腕に深い裂傷を刻む。


「ぐあぁぁぁぁぁっ!!」


 血を吐きながら、男は悲鳴を上げた。

 止まらない。攻撃すればするほど、傷付き、肉体が引き裂かれるのは自分だった。


「やめろ……」


 ガタガタと震えながら、男は後ずさる。

 赤い光が迫ってくるわけではない。日和が攻撃の意思を見せるわけでもない。ただ、そこにいるだけだ。

 それなのに、男には巨大な断崖の前へ立たされたような、底知れぬ恐怖があった。


「やめろ……!」


 日和は何も言わない。

 ノアも、

 クロエも、

 アウルも、ただ静かに男の自滅を見つめている。

 男はついに理解した。


「……化け物」


 男が震える声で呟いた、その時だった。


 バキバキバキッ!!


 風車の丘を覆っていた巨大な植物の檻が、内側から一斉に崩壊を始めた。

 天蓋が割れ、遮られていた初夏の陽光が、まばゆく空間へと降り注ぐ。


「日和さん!!」


 光の向こうから、真っ先にソラが駆け込んでくる。その後ろには、カイたちの姿があった。


 男は反射的に身を翻した。

 もう攻撃はできない。攻撃すれば、自分が死ぬ。


「チッ……!」


 男は崩れた瓦礫の隙間へと飛び込み、そのまま闇の奥へと消え去っていった。


 男が消え、完全に敵意の失せた空間で、彼女を包んでいた温かく、眩いほどの赤い光が、波紋のように優しく、静かに、その輪郭を融かしていく。


 さっきまでそこにいた圧倒的な存在は、もう消えていた。


 日和はそっと自分の両手を見つめる。

 名残惜しそうに、赤い光の粒子が指先から静かにほどけ、大気へと溶けていった。


 緊迫感の去った足元で、ノアが大きな欠伸をする。

「終わったクマ」


 クロエがふわりと尻尾を揺らした。

「派手だったにゃ」


 アウルが音もなく翼をたたむ。

「お見事でしたホ」


 日和は、足元に集まる三匹をただじっと見つめた。

 風車の回る音だけが響く…しばらくの沈黙のあと。

 彼女の唇から、ぽつりと小さな呟きがこぼれた。


「……いたんだね」


 ノアが不思議そうに丸い首を傾げる。

「何がクマ?」


 日和は、少しだけ照れくさそうに笑った。

「ううん」


 それ以上は、何も言わなかった。


 ただ、愛おしさを噛み締めるように、三匹をぎゅっと抱きしめる。


 以前と同じように。

 けれど以前とは少し違う、揺るぎないぬくもりと、確かな力強さを込めて。


 割れた植物の天蓋の向こうから、まばゆい初夏の光が降り注ぐ。


 崩れた檻のなかで、風車だけが、静かに回っていた。







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