三、ガーベラ(上)
頭が痛い。
まるで、頭が割れて、何かが漏れ出てくるような心地がする。
思い出したくないこと。
忘れられないこと。
山茶花。
彼の表情が、声が、言葉が。
この目に、耳に、頭に、こびりついて離れない。
私だって、誰かに尋ねたかった。
誰かに答えてほしかった。
私は――どうすればよかったのですか。
『先生、今日からよろしくお願いしますね』
ああ、まただ。
此処に来て、何度繰り返し見たことか。
懐かしき学び舎。
愛おしくも、悲しい思い出。
『先生、みんな貴方のこと、大好きですよ。
もちろん、私も。
だから、そんなに一人で抱え込まないでくださいな。
集いましょう。
灯りを焚いて、語らいましょう』
くろい髪を、不器用ながらもおさげに結って。
小さな誇りを、この胸に抱いて過ごした。
あの日々の、なんと眩しいこと。
『先生、私、知ってるわ。
先生、私のこと好きでしょう。
可愛いんでしょう?』
多くを愛し、皆に平等に接していても。
私を見る時、その目尻が、他の人を見る時よりもわずかに下がっていた。
そんな些細なことが、とても嬉しかった。
『先生、そんなに悲しまないでください。
今にきっと、よくなりますから。
私はそばにおります。
大丈夫、故郷はなくなりません。
このままじゃ、胸をはって帰れやしませんもの』
その努力が、誓いが。
報われないなんてこと、あっていいはずがない。
そう信じてやまなかった、幼き日々。
『先生、心配しすぎですよ。
私だってもう、大人です。
先生がお留守になさる、わずかな間くらい、
一人でも大丈夫です。
みんな、やさしい人ばかりですもの』
私は知らなかった。
いや、目を向けてすらいなかったのだ。
自分が、やさしくあたたかなものの中にいたこと。
守られていたこと。
その外にいる、やさしさやあたたかさを知らない人々が、
――あんなにも惨いことを、平然と行えること。
『先生、来ないでください。
私なぞ、放っておいてください。
もはや、私に、貴方に目をかけてもらう価値なぞありはしません。
貴方が、こんなところにいていいはずがありません。
お願いです、見ないでください、先生。
みないで』
恥辱に塗れ、無様に這いずる私を見ながら。
先生、貴方は何を思ったでしょうか。
『私が何をしたというのですか。
いえ、何をしてこなかったから、こうなったのですか。
恨みが溢れて、たまらないのです。
とても、治まりません。
苦しいです、先生』
しっかりと、肩をささえてもらっているというのに。
自らの喉を掻きむしるこの手を、止めることができなかった。
『先生、私は、いえ、私たちは、知らなかったのです。
いえ、知ろうとしてすらいなかったのでしょう。
一人や二人ではないのです。
数えきれないほど多くの者たちが、私を虐げ、
痛めつけ、踏みにじってゆきました。
人間は、その本質は――とてつもなく、おぞましいものなのではないですか』
先生は、どんな表情で、どんな思いで見ていたでしょうか。
もう、目を合わせることすらできずにいた、私を。
『せめて、知らなければなりません。
こうなった理由を、摂理を。
私にできることなど、もうそのくらいでしょう。
赤子のように、まっさらにして。
全てこの心に映し、覗いてやりましょう。
暴いてみせましょう。
その性 を』
さぞやおぞましいものを、隠しているのだと思った。
でなければ、罪の意識ひとつ持たず、あんなことを為せるはずがないのだと。
でも、そうではなかった。
彼らはただ、弱いのだ。
生まれついて、自らを、ひどく愛している。
自己を肯定し、他者を排し、その価値を示そうとする。
価値がなければ、生きてはゆけぬ。
自分は、ここにいていいのだと。
自ら深く認められれば、不幸にはならない。
そうして、ただ懸命に、生きているのだ。
皮肉なことだ。
心の底では、愛されることを、認められることを、深く望んでいるくせに、
自らは、頑なにそれを示そうとしない。
そうできなければ、幸せなどないと知っているくせに、
そんなのは絵空事だと。
他者に何かを差し出せば、貪り尽くされる。
此処はそういうところなのだと。
諦めながら生きているものの、なんと多いこと。
知れば知るほど、分からなくなった。
ならば、この恨みは、どこに向ければいい。
恨むべきは、この身の弱さか、不甲斐なさか。
そもそも、何故こんなにも傷ついているのだ。
そんなくだらないものに、打ち負かされているのだ。
どうして地を這っている。
どうしたら立ち上がれる。
いっそのこと――すべて失くしてしまえたら、強く在れるか。
そうして、私は、心を、殺してしまった。
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