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明けない夜  作者: ケケロ脱走兵
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32/40

(32)

 しばらく沈黙したあとで彼女は、


「命はモノと違うと言うならそもそも心とか精神の根源がモノに無くた


っていい訳でしょ?」


と言った。わたしは、


「ええ」


としか答えられなかった。唯物論は存在について語ることが出来ても、


心や精神についてはその術がなかった。そして人間、わけても社会的人


間にとってはむしろ心や精神の方が重要なのだ。


「確かにそうかもしれません。だとすれば心や精神といったものは生命


の誕生によってもたらされたということになる」


わたしは考えて言った言葉があまりにもありきたりだったのですぐに後


悔した。心や精神といったもの、簡単に言ってしまえば「良いと悪い」


は、物質の結合によって芽生えた生命がその命を存続させるために進化


を余儀なくされ、更なる結合と排斥を繰り返えして存続を維持するため


にもたらされた記憶がもたらす一種の感覚のようなものでしかないと思


えた。そしてその根源を遡れば素粒子が持つ電荷の性質に辿り着いた。


エネルギーとしての素粒子は絶えず運動をしながら他者との結合と排斥


を繰り返して安定した原子へ転化し、原子もまた同じシステムで分子を


作る。たとえば、集団に身を委ねて生存する個体は集団の存続こそが自


己の生存を左右する限り、集団つまり社会から何らかの恩恵を受けて安


定した生活を得ている個人にとって、社会つまり国家に対して自らの生


活を不安定化させるようなことがらを排斥しようとするのは至極当然で


、我々が右翼思想だとか国家主義だとかという政治思想とは、簡単に言


ってしまえば自己を守るための手段に過ぎず、国家から受ける恩恵の差


が思想の濃淡の差となっているだけで、欲望を充たすための手段に過ぎ


なかった思想がやがて目的へと転化して精神を生む。つまり、心とか精神


とは我々が生存していくための手段であって、手段が目的へと転化して生


存を凌駕するのは倒錯ではないか。何故なら、存在は心とか精神に先行す


るからだ。


しばらくして彼女が言った、


「仮にモノの世界がそうだとしても私は人間なんだから人間として生き


たい」


わたしは、


「ええ尤もです」


と答えるしかなかった。すると彼女は、


「でもあなたの仰ったことが全く受け入れられない訳じゃない。それど


ころか何か救われたような気持ちがする」


その言葉は意外だった。果たして彼女にとって心とか精神が存在しない


物質への回帰が救いなのだろうか。わたしは、


「えっ、救われた?」


と聞き返した。そもそもすべての宗教はたとえ死んでも魂だけは滅ばな


いことが大前提であり、その魂の救済こそが宗教の最大の目的である。


もしも死と共に魂も消滅するとすれば宗教的救済は成り立たない。しか


し彼女は魂の消滅こそが救いだと言った。そして、


「私ね、どうしてこんなことになっちゃったんだろうってずっと悩んだ


わ。宗教の本なんかも読んだりしたけど、でも来世の救いなんていらな


い。もしも救いというものがあるなら元の体に戻してほしい」


そう言うと、テーブルの上の缶ビールを手に取ったがすでに空だったの


でそのままアルミ缶を握り潰した。そして、


「でも、あなたが言うように死んだらモノに帰るとしたら誰も死を避け


ることはできないんだから、なんて言ったらいいのかしら、つまり死の


下では誰もが平等ってことでしょ。つまり、どんなに苦しんで生きたと


しても何れは死が解放してくれる。だったらどんな辛いことだって受け


入れられるような気がするの。それなのに宗教は来世で救うという、終


わらせてくれない」


「だって魂は不滅だもん」


「さっきあなたは存在は精神に先行するって言ったでしょ。それを聞い


てハッと思ったの。どうして今までそんなことに気付かなかったのかし


ら」


「前にね時間を持て余して図書館に入ったことがあって、別に読みたい


本があった訳じゃなかったが、そして何気なくサルトルの本を手に取っ


たら、そこに『実存は本質に先行する』という一行があったんだ。その


時ぼくは今の君のようにそう思った」


「えっ、サルトル?」


「そうサルトル。フランスの有名な作家」


「ふーん」


「でもね、ハイデガーというドイツの哲学者はそれを聞いてそんなもの


はこれまでに何度も転換を繰り返してきたと嗤いながら言ったんだ」


「えっ、どういうこと?」


「つまり時代が変わればすぐに実存よりも本質が先行するって。そして


彼はそもそも哲学的問題を事実存在と本質存在に分けたとしても問題の


本質は何も変わらないと言った。つまり『何のために生きているか』と


考えた時にすでにその答えは本質存在に限定されてしまうと言うのです


。あなたはさっき人間として生きたいと言いましたよね」


「ええ」


「じゃあ人間としていったいどう生きたいと思ってます?」


「理性を失わずに生きることかしら」


「そうです!まさにハイデガーはわれわれの理性こそが事実そのものを


見失わせて本質へ向かわせると言うのです」


「あのー、本質って何んですか?」


「ああ、レーゾン・デートルって存在理由でよかったっけ、さっきあな


たは生きる意味がないと言いましたけれど簡単に言ってしまえばそうい


うことじゃないかな」


「生きる意味ってこと?」


「ええ、そもそも本能だけで生きる動物はそんなことを考えたりはしな


い。敢えて言うならただ生きるために生きている」


「なるほど」


「ところがわれわれの理性はただ生きるだけでは満足できなくなって存


在理由、つまりその本質を求めて遂には生きることを手段におとしめる



彼女はしばらくしてから、


「まあ、あなたの言うことが理解できないわけじゃないけど今の私には


ピンと来ないわ。だって理性を失くしてどうやって生きていけばいいの


、動物のように生きろと言うの?」


「いや、あくまでも理性は生きるための手段であって命を手段にしては


いけないと言っているんです、そもそも命は何かのために生まれてきた


わけじゃないんだから」


そう言うとわたしは手の中で温くなったわずかに残った缶ビールを喉に


流し込んだ。


すると彼女は、


「でもそもそも生きることに意味がないと言うなら、だから死ぬという


ことがそんなに間違っているとは思わないんだけど」


「だって意味がないから死ぬということはつまりは生きることに意味を


求めているってことでしょ。ぼくはその認識が間違っていると言ってる


んですよ」


彼女はしばらく考えてから、


「何だかわけが分からなくなっちゃった。あなたは私が自殺するかもし


れないと思っているのかもしれないけれどもうそんな気はないわ。ただ


事故の後それまでと同じように生きていくのが辛くって、それで東京を


離れようと思ったの」


わたしはその言葉を聞いて少しほっとした。と言うのも彼女が缶ビール


を傾けた時にその袖口から覗いた手首には鮮やかな朱色のケロイド状の


傷跡があったからだ。それは明らかに自傷によるものだった。それを目


にしてからわたしはそのことが頭から離れなったがそのことに触れよう


とはしなかった。彼女は続けた、


「東京で暮らしているとね、回りの目ばかりが気になって気持ちが後退


りして心まで片輪になってしまう」


そう言うと彼女は、抑えきれなくなった感情の昂りを吐き出すように泪


を流しながら、


「いったい自分は何をすればいいのか分らなくなって、生きていても意


味がないと思って、もしそれがあなたの言うように理性の所為なら、理


性を棄てて東京で生きていくことなんて出来ないわよ」


まったく彼女の言うとおりだった。東京では、否、われわれの理性は、


そもそも目的であったはずの生きることを手段へと堕落させ目的を失っ


た存在は生きる意味を失う。そもそも文明社会とは人間が生きるための


手段であったはずだが、目的を見失った存在に取って代わって手段であ


った社会が目的化する。こうして東京では存在そのものが意味を失い社


会こそが意味を有する。

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