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あまりにも痛ましい話にどう応じていいのか分からず黙って聞いてい
たが、彼女がビールを飲み終えるとわたしは立ち上がって、
「もう一本飲みますか?」
と、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出して差し出すと、彼女は「ありが
とう」と言って二本目の缶ビールのプルタブを開けた。そして一口流し
込むと、
「誰かに追い駆けられる夢って見たことあります?」
と聞いた。私は、
「あ、子供のころに何度か見たことがある。おれ、実は走るのが遅くっ
て運動会とか苦手でさ、どうすれば速く走れるのか悩んでいた時に、い
くら足を動かしても全然前に進まない夢をみたことがある」
「へえー、あるんだ。わたしね、足が悪くなってからいつも誰かに追い
駆けられる夢を見るの。それで必死に逃げようとするんだけれどまった
く足が動かないの」
「それで」
「んーん、ただそれだけなんだけど、焦っているうちに目が覚めて気が
つけば体中が汗びっしょりになってる」
「ふーん」
「不自由な身体って言うでしょ、目が覚めた時にわたし体の自由を失っ
たんだと実感した。自由っていうのは思い通りに動けることなんだと思
った」
「なるほど」
「でも、街を歩くと他人の同情的な視線に耐えられなくなって出歩けな
くなってしまった」
「辛かったでしょうね」
「それで人目の少ない夜に出歩いていると、昼と夜の生活が逆転してし
まって、するとどんどん社会から取り残されて、いったい自分は何のた
めに生きてるのか、生きてる意味がわからなくなった」
「・・・」
「それから三年くらい部屋に引き籠って死ぬことばかり考えていた」
「でも死ななかった」
「ええ、死ねなかった」
「あなたは強い人ですね」
「えっ、強い?」
「ええ、そんなに辛い目に遭っても死ななかった。つまり自分に負けな
かった」
「自分に負けなかった?」
「だっていま生きる意味がわからなくなったって言ったじゃないですか。
生きる意味がわからなくても死ななかった」
「でもそれって強いのかしら」
「命が自分の思い通りになるなら、たぶん人間なんてとっくの昔に絶滅
しているよ。何のために生きているのかわかって生きている者なんて誰
も居ないんだから」
「じゃあ、みんな何のために生きているのかわからずに生きているの?」
「あなたがこうして生きていることに意味があって、何かのために生まれて
来たわけじゃない」
生物学を勉強していると、例えば顕微鏡でゾウリムシなどの原生生物
を観察していると、次第に彼らと自分の違いが分からなくなってくる。
もちろん構造そのものは比ぶべくもないが、ただ存在することの違いに
、つまり我々だけが何か特別な存在だとは思えなくなってくる。もしも
彼らが意味のない存在だとすれば、構造がどれほど複雑に進化したとし
ても存在の意義が新たに生まれてくるとは思えなかった。
「意味などないですよ、生きることに」
私は自分に言い聞かせるように吐き捨てた。
「虫なんかと一緒にしないでよ」
「じゃあ一体何が違うんですか?」
「だって、・・・」
「生命体を構成する物質なんてまったく同じなんだよ。そしてタンパク
質を作るアミノ酸は炭素、酸素、窒素、水素がほとんどで、それらの物
質のどこを探しても心や精神といった形而上の根源は存在しない。つま
り生存の意味なんてイリュージョンですよ」
「じゃあ私の悩みも妄想だと言うの?」
「ええそうです、そもそもモノに心なんてありませんよ」
「でも、モノと生きものは違うじゃない」
「ええ、違います。でも、何故物質が結合して命が芽生えるのかは解
っていません」
わたしは確とした思いがあって経済学部に進んだ訳ではなかったが、
身近に国際政治学部を出た先輩が就職できずに生活のため仕方なく新聞
配達をして糊口を凌いでいるのを見て、就職に有利な学部を選ぼうと考
え直して本来は目的であるはずの学問を経済の手段に貶めた。その結果
は明白で関心のない授業について行こうとも思わなくなり、遂には出席
することさえ苦痛になっていたが、たまたま出席した授業でマルクス経
済学を知りそして夢中になった。やがて「資本論」を読んでいるうちに
資本主義経済の剰余価値を産む仕組みが生命体が細胞分裂して増殖する
仕組みと似ていることに気付いて、資本主義経済を知るために生物学部
へ転部した。そして様々な生物を眺めているうちに「なぜ彼らは動ける
のか?」という単純な疑問が頭に浮かんだ。生物を自ら動くことのでき
る様々な物質の結合体と定義すれば、もちろん植物さえもゆっくりでは
あるが動いているのだが、それらが自ら動くことの出来ない物質が結合
して生成されるとすれば、そこには一体如何なる秘密が隠れているのか
知りたかった。生命体を形成する物質は共有結合した分子で、分子は原
子からなり原子は電荷を持った素粒子からなっていて、それらの電荷は
引力や斥力として他者に作用して結合や反発をもたらす。つまり、物質
を構成する原子はただ存在するのではなく電荷を帯びて動いていた。
そして結合を繰り返しながら長い変遷を経て有機結合した分子はその
エネルギーを運動に転化させた。それを生命体と呼べるかどうかは別
にして、まず初めに存在があってやがてそれらが動き出して、そして運
動の選択が様々な「思い」を残したのだ。つまり、運動は精神に先行す
るのだ。
そのあと、わたしは世界を知るには素粒子しかないと思って物理学部
への転部を考えたが、信頼する先生から、「君は前に進まないで横に転
がってばかりだな」と言われて諦めた。




