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学生の頃、明け方まで友人たちと飲み歩いた帰り、始発電車を待って
駅から自宅までの道を酩酊しながら辿っていると、向こうから一人の男
が棒切れのようなものを振り回しながら悲鳴のような叫び声を上げてこ
っちへ向かって歩いてきた。寝静まった街は他に人影もなくただ異様な
叫び声だけが響いていた。わたしは酔っ払いだと思って相手にせずに行
き違おうとして道を譲ると、その男が振り回していた棒切れは盲人用の
白い杖だった。彼はわたしの存在にはまったく気付かずに慟哭しながら
白い杖を振り回していた。いったい彼に何があったか知る由もないが、
その悲痛な慟哭は振り回す白い杖そのものに象徴されていて、それ以上
の理由などどうだっていいことに思えた。すれ違った後、どうすること
もできないもどかしさから居た堪れない思いに苛まれてすっかり酔いも
醒め、彼が通り過ぎた後もしばらくわたしの頭の中には彼の悲痛な叫び
声がこだましていた。たぶん彼も人前では決してそのような自棄的な振
舞いは露ほども見せずに自らの境遇を淡々と受け入れて、もちろん生き
ていくためには受け入れざるを得ないのだが、平穏に日々を送っていた
に違いない。人は誰しも大なり小なりどうすることも出来ない苦悩を抱
えていて、生きるためにその苦悩から目を背けている。ところが、身体
の障害は隠すことができない。どれほど自分自身で納得しても生活に戻
ろうとして立ち上がった瞬間に躓く。それくらいのことは覚悟していて
も、健常者の前で奇態を曝け出さなければならなくなった時にその覚悟
は脆く砕け散り、居た堪れない思いに苛まれる。障害が精神の自由まで
も挫くのだ。わたしが感じた「居た堪れなさ」は彼がこれまでに何度も
味わってきた思いに違いない。
「私ね、明日からの研修は参加しないことに決めたの」
賀川星子は座っていたソファから立ち上がってびっこを引きながら窓の
側へ近付いて再び夜空を眺めた。
「どうしてですか?」
「だって農業がしたいから参加したんじゃないのよ」
「そうでしたね」
「ほんとうは一人になってゆっくり考えたかっただけなの」
「ええ」
彼女が話さなかったのでしばらく静まった。そして、振り返って、
「ねえ、お酒飲みません?」
「あります?」
「冷蔵庫に」
そうだった、確かに部屋の冷蔵庫には缶ビールが入っていた。冷蔵庫
から缶ビールを二つ取り出して一つを彼女に手渡した。プルタブを引き
開けてからお互いの缶を合わせた。彼女はすぐに缶に口を付けて傾け
一気に喉に流し込んだ。わたしは熱くなった喉を労わりながらゆっくり飲
んだ。カゼの所為でまったく味はしなかったがその冷たさが美味かった。
味覚は五つあると言われているが、なぜ冷たさや熱さといった温度がそ
の中に数えられていないのか不思議だった。缶を口から離して頭を戻し
た彼女と目が合った。わたしはとっさに目を逸らして二人の間に置かれ
たテーブルに缶ビールを置いた。そして、気になっていることを聞いた。
「でも、どうしてそんなに大胆なんですか?」
「だいたん?」
「だってふつうは警戒して男の部屋に一人で入ったりしないでしょ」
「もしかして迷惑だった?」
「いやそんなことないけれど、ただ驚いただけです」
「ほら、さっきも言ったけど事故で私の人生は終わってしまったから、
もう怖いものなんて何もないのよ」
「ふーん。でもいったいどんな事故だったんですか?」
「私、結婚するつもりで付き合っていた人が居たんだけど、その彼がず
っと前から付き合っていた女性とも続いていたことが分かって、それま
でにも何度かそんなことがあったんで、それで決心が着いて別れようと
思った」
「二股っていうやつですね」
「しばらくして、どうしてももう一度会いたいというので会って最後にしよ
と思ったの」
「うん」
「すると彼は何故か車で来たので仕方なく助手席に座った。何処へ行く
つもりなのかと訊いても教えないで、ただ自分の勝手な言い訳を繰り返
すばかりで私は耳を貸さずに黙っていた。郊外の洒落たレストランに着
いたが、そこは二人が初めてのデートで車で立ち寄った店だった。付き
合い始めた頃はそんな凝った演出も自分を喜ばしてくれるためにしてく
ているんだと好意的に受け入れたけれど、嫌いになると、ウケた話を
何度でも繰り返す無粋さや、別れ話をするためにわざわざそんな所まで
連れて来る鈍感さが耐えられなかった。私はまったくそんな気になれな
かったので入らずに帰ろうとしたけれどどうして帰ればいいのか分から
ない。仕方なく彼に元の場所へ引き返すように訴えて彼も仕方なく了承
した。帰りの車の中では今度は私が彼から受けたストレスをぶちまけた。
彼は黙って聞いていた。そして、次の交差点を右折すればいよいよ私の
家に近付くというところで、彼は何を思ったのか停止していた右折レーン
から車を急発進させたので直進してくる対向車と衝突した。助手席に座っ
ていた私に対向車が全速で突っ込んできた。対向車のヘッドライトの閃
光が眩しかったことは覚えているが、その後のことは何も覚えていない。
気が付けば病院のベットの上で、骨盤と大腿骨など何ヶ所も損傷してい
ると医者が説明した」
言い終わると彼女は缶を逆さにして残ったビールを飲んだ。




