第54話 大樹に願う
滝のように流れ落ちる砂のすぐ横を、少年が落下してゆく。目はまっすぐに眼下に向かい、その表情にはいささかも恐れは見られない。少年を受け止める先には、砂の大地が広がっている。
着地の衝撃で砂が高く舞い上がる。
砂の中から少年は勢いよく飛び出した。足場の悪さをまったく感じさせず、すばらしいはやさで駆けてゆく。
高低差のあるいくつもの崖をものともしないそのさまは、さながら獣を思わせる。実際、着地ののち両手も使って体を運んでいた。四足で歩く動物そのものだった。
(リト――!)
ヒウノは心の中で、少女の名を叫んだ。
*
少年がひた走っているころ、少女は泉の端に佇んでいた。
旅立ちのときと同じく、真白なひとつなぎの衣服を身に纏っている。雲間からわずかに見える空は青く澄んでいた。見上げた少女が、ふっと息を吐く。
(まるで檻ね。夜だけは、きれいな空が見られるのに……)
儀式の付き添いにやってきた老人から声がかかった。やがて少女にやってくる未来を知りつつ、『始めなさい』と短く告げる。
少女は一瞥し、すぐに視線を正面に戻した。
(ごめんなさい。あなたたちが思うとおりにはならないの)
少女の白いつまさきが、水面にひとつ、輪を生み出す。ひとつ、またひとつと波紋が広がり、消えてゆく。
少女の密やかな歩みの先に、灰色の肌をした樹木が見える。
(お前の役目は今日でおしまい。もう、誰かの願いを聞き、叶えることもない)
泉を囲む木々がさざめいたかと思うと、突風が吹き抜けた。風にさらわれる髪をおさえ、少女は苦笑した。
(……嫌な風。決心を鈍らせようだなんて)
やがて彼女は、泉の中ほどに立つ樹の前にたどり着いた。
樹幹を見上げて、まばたきをする。手を伸ばしてもその頂には到底届きそうにない。けれど、少女は思った。
(大地で目にした木々は、それはそれは背が高かったわ。天を衝くほどに。お前がこんなにも背が低かったなんて、初めて知った。葉は一枚もないし、瘦せていて、みすぼらしい)
腰の後ろにたずさえた小刀を鞘から抜き、左手中指の腹を浅く刺す。当然のことだが痛みが走った。血は指を伝って流れ落ち、手のひらに細い線を描く。
(なんだか可哀想。本当ならもっと日の光を浴びて、深く根をおろし、葉を茂らせることもできただろうに……。ときどき誰かが様子を見に来て、成長を見守ってくれる、そんな木になれたらよかったのに)
血の滴る手を、そっと木皮にあてた。
(ごめんなさい。それでもわたしは、お前の成長を願ってあげられないの。だから、これで許してね……)
鮮赤が、灰の肌に溶け込んでゆく。幹が鈍く脈を打ち始めた。
「いと古き、大樹に願う。穢れたこの身をもって、我の願いを叶えたまえ」
赤黒く染まった木肌は、血の通った生き物のような熱を帯びていた。樹上から青白く光る二本の細枝が、少女へ向かって伸びてくる。少女の手首を絡め取り、体を宙へ持ち上げてゆく。少女はなんら抵抗しなかった。耳障りな音を立て、左右に広がる枝がゆっくりと内側を向く。まるで少女の体を掴まんとするようだ。
(守り刀はもうないから。血肉のすべてをお前にあげる。それから、長いあいだ疲れたでしょう。もう、お前に願う者はあらわれないからね――けっして)
両指の数の樹枝が、その柔らかな体側を刺し貫こうと迫る。
少女はゆっくりと瞳を閉じて、天を仰いだ。
あと少しすれば、穏やかな眠りのときがくる。もう誰かを傷つけることもない。そう思うと、心に安堵が満ちてくるのがわかった。
さあ、はやく。いつまでだって待つわ。少女はゆるやかな時間の流れを感じていた。
そのとき、だしぬけに静寂を打ち破る音がして、少女の心を無理やりに呼び戻した。ハッと目を見開く。まだ生きている。
音のしたほうに目をやると、激しい勢いで飛び散った水滴が、高い壁をなしているのが見えた。集落の者が儀式を妨げるわけがない。いったいなにが起こったのか。
「……よかった」
声がした。
少女はどきりとする。冷たい手に心臓を撫でられたかのような、形容しがたい怖気が全身を駆け抜けた。
視線の先にいる人物を認め、少女はいやいやと首を振る。
信じられない――いや、信じたくない。
「どうして、ここにいるの――」
少女の見つめる先に、ひとりの少年の姿があった。
第54話 終
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