第六十八話 帰る場所が増えると、帰る時間が減る
守る場所が一つなら、仕事が終わればそこへ帰れる。
けれど家が増え、道が延び、見張り台、橋、窯、井戸と、町の外にも直す場所が増えると、帰るために作ったものへ帰る時間が減っていく。
◇
角狼が現れた翌朝。
俺は。
石橋へ向かった。
「見るだけ?」
ミラが尋ねる。
「道と橋の確認」
「戻るのは?」
「夕方」
「遅れたら?」
「石橋の台から知らせる」
「霧だったら?」
「今日は晴れてる」
「夜に出たら?」
「走者を戻す」
「誰が?」
「決める」
「今、決めて」
ミラの言葉に。
少しだけ苛立った。
「出る前に全部聞くのか」
「昨日、届かなかったから」
「分かってる」
「なら」
「ハーレンさんが決める」
俺は。
道具袋を背負った。
「帰ったら話す」
そう言って。
家を出た。
◇
石橋そのものは。
壊れていなかった。
だが。
橋の先。
隊商が荷車を置いた場所。
角狼を避けるため。
車輪が道の端へ乗り上げ。
路肩が崩れていた。
「今日中には終わらん」
ドムが言う。
「仮に通せる?」
「人だけなら。荷車は止める」
「隊商の荷物は?」
「歩いて運ぶか、待つ」
待つなら。
人の水と食事がいる。
急いで開ければ。
次の荷車が落ちる。
「残る」
俺は言った。
「誰が?」
ハーレンが尋ねる。
「俺」
「子ども一人で何をする」
「図と記録。仮道の位置」
「帰り火へ戻る予定だっただろ」
「仕事が終わらない」
「だから?」
「残る」
ハーレンは。
俺を見た。
「誰へ知らせる」
「走者」
「内容は?」
「今夜戻れない」
「戻る予定は?」
「明日の夕方」
「遅れたら?」
「もう一度知らせる」
「最初から、それを言え」
三年前なら。
勝手に残ったかもしれない。
今は。
帰らないことも。
仕事として伝える。
走者へ。
短い板を渡した。
――路肩補修。
――レオ、石橋泊。
――明日夕方予定。
それだけ。
◇
翌日。
雨が降った。
仮に外した土が濡れ。
作業を止めた。
戻ることもできた。
だが。
雨のあと。
路肩がどう動くかを見たかった。
「もう一晩」
俺が言うと。
ドムが眉を寄せた。
「必要か」
「水の流れを見る」
「見たら、夜になる」
「朝に戻る」
「誰へ知らせる」
「走者」
今度の板。
――雨で停止。
――水の流れ確認。
――明朝帰る。
仕事の内容は。
正しい。
予定も。
書いた。
だから。
問題ないと思った。
◇
二晩目。
石橋の仮宿で。
俺は、送った板を思い返していた。
雨で停止。
水の流れ確認。
明朝帰る。
必要なことは書いた。
現場の人間が読めば。
作業の理由も。
戻る予定も分かる。
それでも。
ミラが朝に聞いた言葉が残る。
遅れたら。
誰が知らせる。
何を送る。
「もう一枚出すか」
俺が呟くと。
ドムが焚き火の向こうから見た。
「今から?」
「帰り火へ」
「走者は、さっき戻った」
「次の道番に」
「仕事が増える」
「一行だけ」
「その一行が、仕事か」
答えに詰まる。
前世では。
帰れない夜に、家族へ連絡したことが少なかった。
現場が長引いた。
雨漏りを見ている。
終わったら帰る。
そう思っているうちに。
夜が明けた。
母親から来た連絡にも。
あとで返そうと思った。
そのあとが、来なかった。
「仕事じゃないから、後へ回してた」
「何をだ」
「帰るって言うこと」
ドムは。
しばらく火を見ていた。
「俺は、帰らん日は先に言う」
「家族がいる?」
「弟子が夕飯を作る」
「心配する?」
「飯が余る」
「それだけ?」
「余った飯を、翌朝食う人間のことを考えろ」
素っ気ない。
でも。
待っている人は。
心配だけではなく。
火を残し。
食事を分け。
戸を閉める時間を決めている。
帰らないことは。
家の中の仕事を変える。
俺は。
小さな木札を出した。
――明朝、帰る。
そこまで書いて。
止まる。
仕事板と同じだった。
何時に。
どこへ。
理由。
正しい言葉を探しすぎる。
結局。
下へ。
――ミラ。エナさん。心配させてごめん。
と書いた。
字は。
少し曲がった。
「送るのか」
ドムが尋ねる。
外は雨。
今すぐ走者を出すほどの緊急ではない。
「今夜の交代便に」
「帰る方が早いかもしれんぞ」
「それでも渡す」
帰って顔を見せれば。
札はいらないようにも思える。
でも。
伝えるはずだったことを。
戻ったから消さない。
その夜。
札は、次の交代便で帰り火へ向かった。
俺より先に、家へ帰る言葉だけが道を戻っていく。
◇
雨の夜。
石橋の路肩では。
仮に積んだ石の下から、水が細く噴き出していた。
「上から流れた水じゃない」
俺は灯りを低くして、土の色を見る。
崩れた路肩の奥。
古い排水の穴が。
荷車の重さで潰れかけている。
「ここを埋めたら?」
道番が尋ねる。
「水の出口も埋まる」
「でも、穴を残せば土が落ちる」
「先に、小さい石で周りを支える」
雨の中で。
全部を直すことはできない。
水がどこから来るかだけ確かめ。
流れを止めず。
人が踏まないよう囲う。
朝。
乾いたあとに。
本当の補修をする。
「帰らない理由が、また増えたな」
ドムが言った。
「見つけたからには」
「家へ帰って、明日来ても穴は逃げん」
「雨の量が変わる」
「お前が見なければ、誰も見られないのか」
言葉が止まる。
道番も。
ドムも。
水の色を見ている。
俺だけが、分かるわけではない。
「夜の変化を記録して」
俺は道番へ棒を渡した。
「水が、この線を越えたら仮道を閉じる。石が一枚動いたら、ドムさんを呼ぶ」
「お前は?」
「仮宿で図をまとめる」
現場から離れることへ。
少し不安が残る。
けれど。
任せる条件を決め。
誰が止められるかを伝える。
それも、町を育てる仕事のはずだった。
仮宿へ戻ると。
夕食の鍋は。
俺の分だけ底へ張りついていた。
「遅い」
ドムが言う。
「見回り」
「飯を待たせるな」
「ここでも?」
「待ってるのは鍋だ」
焦げた麦粥を食べながら。
帰り火の家を思い出す。
俺が戻らなければ。
ミラとエナさんも。
炉の火。
食事。
扉。
寝具。
いつもと違う順番にする。
仕事板へ。
路肩の水位は書いた。
仮道を閉じる条件も。
俺が食事を要らないことは、書いていない。
家は。
人が戻るまで、同じ形で待っているわけではない。
◇
翌朝。
帰り火から来た道番が。
新しい板を持っていた。
俺が出した物への返事。
――札、受け取った。
――エナ、咳少し。
――ミラ、夜番交代。
――家の炉、問題なし。
「どうして、家のことまで?」
俺が尋ねる。
「ミラが書いた」
道番は答えた。
「仕事の返事じゃないと言ったら?」
「仕事の板へ書けと言われた」
板の下。
小さく。
――帰ったら、戸の下を見て。
とある。
春の雨で。
入口の木が膨らみ。
扉が擦れているらしい。
家へ戻れば。
また直す仕事がある。
以前なら。
仕事が増えたと思ったかもしれない。
今は。
その一行が。
帰る場所から伸びてきた細い縄のように見えた。
「返事を書く?」
道番が尋ねる。
「今日、俺が帰る」
「それでも?」
少し迷い。
板の裏へ。
――エナさんの咳、帰ったら見る。
――戸も直す。
――夕食までに家へ帰る。
と書いた。
最後の一行は。
仕事の報告ではない。
だから。
書く必要がある。
◇
三日目の昼前。
帰り火へ戻ると。
ミラは。
第二集合所にいた。
夜番の記録を整理している。
「戻った」
「見れば分かる」
「怒ってる?」
「仕事中」
「終わったら話す?」
「今、何を話すの」
「遅くなったこと」
「板は来た」
「なら」
「仕事の板はね」
ミラが。
顔を上げた。
「何時に雨が降った。どこを測った。明日戻る。全部書いてあった」
「ああ」
「私に言うことは?」
「帰るって書いた」
「帰り火へ」
「家にも帰る」
「書いてない」
「同じだろ」
「同じじゃない」
ミラは。
板を閉じた。
「帰り火に戻っても、役所へ行くかもしれない。ガルドさんの工房へ泊まるかもしれない」
「家へ帰る」
「分からない」
「今、言った」
「帰る前に聞きたかった」
何を怒っているのか。
少しずつ分かる。
仕事の報告はした。
でも。
ミラへ。
家へ戻ると。
伝えていない。
「心配した?」
「した」
「道は安全だった」
「そういうことじゃない」
「じゃあ」
「レオが帰ってこないと、家が静かすぎる」
ミラの声が。
小さくなる。
「前は、うるさいって言ってた」
「うるさいのと、いないのは違う」
「仕切りがある」
「仕切りの向こうで音がするのは分かる」
「声も?」
「分かる」
「いびき?」
「それは、あまりしない」
「本当に?」
「話を変えないで」
変えたつもりはなかった。
でも。
逃げたのかもしれない。
「ごめん」
俺は言った。
「何に?」
「仕事の報告だけで、家へ帰ることを言わなかった」
「次は?」
「ミラへ別の札を送る」
「別じゃなくていい」
「仕事の板に書く?」
「最後に一行」
「何て?」
「自分で考えて」
◇
話し終えたあと。
ミラは。
入口の扉を何度か開け閉めした。
戸の下が。
土間へ擦れる。
俺がいない二日の間に。
雨を吸った木が膨らんでいた。
「札に書いた」
「見た」
「直す?」
「直す」
道具を持ってくる。
扉を外そうとすると。
ミラが下へ木片を差し込んだ。
「一人で持つな」
「軽い」
「前にも言った」
「いつ?」
「何回も」
二人で。
扉を少し持ち上げる。
擦れた場所には。
土の色がついていた。
俺は。
鉋を当てる前に。
炭で印をつける。
「全部削らないの?」
「当たる場所だけ」
「帰らなかった二日も、削ればなくなる?」
手が止まる。
「それは、なくならない」
「じゃあ、忘れないで」
「うん」
ミラは。
怒ったまま。
扉を支えている。
仲直りは。
悪かった場所を削り取れば終わる仕事ではない。
次に同じことをしない形へ。
暮らしを変える必要がある。
扉の下を。
薄く削る。
一度戻す。
まだ擦る。
もう一度だけ。
今度は。
木の縁が土間へ触れず。
扉が閉じた。
「軽くなった」
ミラが内側から動かす。
「削りすぎてない?」
「隙間は?」
下へ。
細い光。
指一本より狭い。
「冬は布を入れる」
「忘れそう」
「点検板に書く」
「何でも板にする」
「忘れるから」
「帰ることも?」
「書く」
「板がなくても?」
「言う」
ミラは。
扉を閉め。
かんぬきを掛けた。
それから。
もう一度開けた。
「入っていい?」
俺が尋ねる。
「ここ、共用の入口」
「二回、声をかけなくていい?」
「私の部屋じゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「最近は」
ミラが。
少しだけ笑った。
扉は。
直したあとも。
雨が降れば、また動く。
約束も。
一度言えば。
同じ形のまま残るわけではない。
外へ出るたび。
戻るたび。
確かめ直す必要がある。
◇
その夜。
久しぶりに。
三人で。
同じ部屋へ集まった。
エナが。
春の冷えで、少し咳をしている。
ミラの部屋は。
火から遠い。
そのため。
食事をする部屋へ。
寝具を運んだ。
「昔みたい」
ミラが言う。
「昔は、もっと狭かった」
最初の一部屋。
俺が入口。
隣にミラ。
奥にエナ。
今は。
床も広い。
寝具の間へ。
荷物一つ分。
距離がある。
「もう少し、こっちへ来たら?」
エナが言う。
「寒いでしょう」
「私は平気」
ミラが答える。
「レオは?」
「火の近く」
「入口から風が入る」
「閉める」
扉の隙間へ。
布を当てる。
戻ると。
ミラの寝具が。
少しだけ。
エナ側へ動いていた。
俺との間は。
前より遠い。
昔なら。
肩が触れるほど近かった。
今は。
それぞれの場所がある。
少し。
寂しいような。
安心するような。
どちらとも言えない。
「レオ」
暗くなってから。
ミラが呼ぶ。
「何?」
「次、外で泊まるとき」
「ああ」
「帰るって書いて」
「書く」
「いつかも」
「分かるなら」
「分からないなら?」
「分からないって書く」
「それと」
「まだある?」
「無事って」
「仕事の板に?」
「一行だけ」
「字、読める?」
「レオより読める」
「そうだった」
暗闇の中で。
ミラが笑う。
「帰る場所を作ってるのに」
「何?」
「帰ってこない人にならないで」
返事を。
すぐにはできなかった。
町を守るため。
家を直すため。
道を見るため。
外へ行く。
必要な仕事。
でも。
帰る場所は。
建物だけではない。
待っている人がいる。
「帰る」
俺は言った。
「遅れることはある」
「分かってる」
「でも、帰る」
「うん」
◇
三人で横になった夜。
エナが眠ったあとも。
俺とミラは、しばらく起きていた。
炉の石が。
小さく音を立てる。
「札、見た」
ミラが言った。
「遅かった」
「うん」
「でも、見た」
「次は、出る前に決める」
「何を?」
「戻れないとき。誰が走者になるか。仕事板のどこへ書くか」
「それだけ?」
暗くて。
ミラの顔はよく見えない。
「心配させてごめん」
「それは札に書いてた」
「帰りたいと思ってた」
「それは書いてなかった」
「書くの、変じゃないか」
「どうして?」
「仕事中に」
「仕事の板の最後でいいって言った」
「みんなが見る」
「見られたら困る?」
「少し」
「私も少し」
「じゃあ」
「でも、何もないよりいい」
仕切りの向こうから話すときのようだった。
姿は見えない。
声だけ届く。
全部を見せる必要はない。
でも。
閉じたまま、何も伝えなければ。
向こう側にいるかどうかも分からない。
「今度、ミラが外へ行くときも?」
「行くって決まってない」
「窯の町」
ラダが。
ミラの火の扱いを見ている。
いつか。
町の外へ学びに行くかもしれない。
「行ったら、書く」
「仕事のことだけ?」
「最後に一行」
「何て?」
「自分で考える」
同じ言葉を返される。
俺は笑った。
「何?」
「同じだと思って」
「何が?」
「俺たち」
「全然違う」
「そうか?」
「私は、ちゃんと二回声をかける」
「そこ?」
暗闇の中。
寝具の間には。
荷物一つ分の距離。
前より遠い。
でも。
昔より。
相手が何を待っているのかを、考えるようになった。
◇
翌朝。
仕事板の下へ。
新しい欄を作った。
帰る予定。
帰る場所。
無事の確認。
「これ、全員分?」
ルナが尋ねる。
「外で働く人」
「毎日?」
「泊まるとき」
「誰が見る?」
「家族。いなければ、集合所」
「レオの家族は?」
ルナが聞く。
俺は。
少し迷う。
ミラが。
横から答えた。
「私と、おばあちゃん」
簡単に。
当然のように。
その言葉を聞くと。
胸の奥が。
少しだけ温かくなった。
帰る場所が増えると。
帰る時間は減る。
だからこそ。
どこへ帰るのかを。
仕事の外へ置かない。
町を育てることは。
外の場所を増やすだけではなく。
戻る約束を。
残すことでもある。




